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第一章「予審調書」の信憑性≠探る
◆「予審調書」は果たして本物か
阿部定の「予審調書」(以下、阿部定の予審調書に特定して述べるときには、それぞれに付けられたタイトルの違いは無視して、すべて「予審調書」とカギカッコ付きで代表させる)は、 犯罪史上稀に見る猟奇事件と騒がれた阿部定事件を解明するうえで、最も重要な資料の一つとされてきた。予審判事が司法の名のもとに質問し、阿部定がそれに答 え、その発言を書記官が筆記するという間接的なかたちではあるが、そこには阿部定自身が語った自らの赤裸々な半生と、被害者石田吉蔵を殺害するにいたるまでの 阿部定の行動や、心の過程などが如実に描かれている。
同時に、昭和初期の女性の生き方や、当時の社会状況の一端に触れられるなど、多くの人がさ まざまな角度から興味をそそらずにはいられず、これを熱烈に取り扱ってきた。そして、当時の司法が、未曾有といわれたこの事件にどのように対処したかを知 るためにも貴重な資料とも言える。
ところが、これまでさまざまな形で刊行されてきた阿部定の「予審調書」と呼ばれる文書には、重大な問題点があると僕は思ってきた。それは、これらの「予審調書」が、本物の調書を引き写したものであるとされているものの、果たして、どこまで正確に引き写したものなのかどうか、というきわめて素朴な疑問から発して いる。
もし、調書の正確な写しでないとしたら、あるいは、まったくの創作物だったら、これを真面目に扱うのは、すこぶる馬鹿な真似になってしまう。しかし、さまざまな観点から調べたり考えていけばいくほど、僕の中では「予審調書」への正確さについての信頼性が、かなり薄らぎつつあることも確かだ。
◆調書の体裁をしているため真実だと思い込む
「予 審調書」は、本物の調書をそのまま引き写したものであり、そこに書かれていることはすべて間違いがないというように、われわれは誤解しているところがある。そう思い込んでしまう最も大きな原因は、「予審 調書」が、調書に似せた体裁をとって編集されているからだろう。その文章的な体裁のために、われわれはアプリオリに、その内容まで正しいものだと思ってしまうところがある。
そこで、阿部定事件について、誰かが評論や解説などを書こうとするとき、「予審調書」を、平然とそのまま引用などしてしまうことになる。
これは無理からぬことでもある。なにしろ、普通の人間は、普段はほとんど、調書といったものに接することがない。だから、調書がどんな形式で書かれ、中身 はどんな文体で書かれているものかといったことさえ、ほとんど知らない。そのためもあって、「予審調書」を一目見ただけで、これが本物の調書であり、中身には本当のこと が書かれていると思い込んでしまうのだ。
しかし、阿部定の「予審調書」と実際の供述調書などとを比較してみると、まず阿部定の「予審調書」には、調書という文書の形式面で重大な不備があ ることに気づく。そして、内容を細部にわたって緻密に分析していくと、だんだんに「予審調書」の持っているいくつもの齟齬に気づくようになる。
いったいどんな齟齬があるのか、その詳細については、あとで詳しく述べようと思うが、目だって多いのは、地名や固有名詞などの誤記や誤植だ。また、屋 号や人名に事実と食い違いのあるものがあったり、さらには犯行時の状況説明などに、事実とやや異なった記述がされているといったことがわかってくる。
僕は、主に当時の新聞報道と「予審調書」の内容を比較していくことで、「予審調書」の中にあるいくつかの齟齬を発見してきた。そうして、いくつかの齟齬 に気づいて以来、この事件について何か語ろうとするときには、「予審調書」をそのまま引用するのは、とりあえずやめようという気持ちになった。もし引用す る際は、必ず何らかの裏付けをとってからでないと、事実を枉げて伝えてしまいかねないことを恐れたのだ。とはいえ、「予審調書」に書かれていることは、まったくの出鱈目というわけではない。むしろ、これまで雑誌や単行本などで発表されてきた阿部定事件に対する評論や 評伝などをもとに、「予審調書」の中身を検討していくと、確かに実際の予審調書と同一のものであろう、という確信さえ得ている。実は、そこが 「予審調書」という刊行物の持つ不思議さなのであり、特徴なのだろう。
では、いったい、「予審調書」とは、何物なのかということになる。それについて、順次説明していこう。
◆「予審調書」は調書としての基本的要件を欠いている
まず、「予審調書」が、どうして本物の調書そのものではありえないのか、ということについてだが、その根拠は、非常に単純なものだ。
第一は、真正な調書には不可欠な調書を取った日付や、取り調べにあたった予審判事の氏名などの情報が、まったく欠落していることである。
日付などどうでもいいと思う人もいるかもしれないが、実は、日付がないために、まず、それぞれの調書を録取した時間的な経過が不明になってしまう。また、 第一回から第八回までの訊問は、内容的には、阿部定の人生を幼い頃から三十路で殺人を犯すまで、整然と並んでいるが、実際に阿部定が、そのような順番で供 述をしたのかどうか、証明できないことになる。
もし「予審調書」に日付が記載されていたら、それを日付順に並べることによって、取り調べの流れや雰囲気を摑むことができるが、日付がないために、それが できない。つまり、日付が欠落していることで、われわれは、ナマの取り調べ状況を味わうことも、検証することもできないのである。通常のちゃんと日 付のある調書であれば、そんなことを考えずにすむはずである。だから、これが欠落していることは、調書としての重要な要件を欠いていると言える。
「予審調書」が真正の調書そのものではありえないという第二の根拠は、冒頭部分にある2行の内容の奇妙さにある。一般的な調書では、この部分には供述した人間を特定するために、供述者の個人データを記す。いわゆる人定訊問(じんていじんもん)といったもので、その結果を記載することになっている。そのときの項目としては、生年月日(あるいは年齢)や職業、(現)住所といったものだが、これが「予審調書」では、まったく記載されていない。あるのは本籍と出生地だけだ。
これを本物の調書として見るなら著しい欠陥品であり、基本的な要件をまったく欠いているとしか言いよう。いかに迂闊な予審判事であろうと、そんな穴だらけの調書を作成するはずがないから、たぶん、どこかの時点でそうした基本情報が削除されたと見るしかない。
ここでちょっと寄り道して、調書とはどんな形式で書かれるものなのかを見ていこう。例に挙げるのは、戦後になってからのものだが、「四畳半襖の下張」について、著者と目された永井荷風が、警察から事情聴取を受けたときの「参考聴取書」が週刊誌(「週刊明星」昭和34年5月24日号所収)に取りあげられたことがあるので、紹介しておこう。(傍線及び太字は筆者)
参考聴取書
本籍 東京都麻布区市兵衛町一ノ六
住居 千葉県市川市菅野二七八小西方
永井荷風事
小説家 永井壮吉
当七十年
右ノ者昭和二十三年五月十日本職ニ対シ左ノ通リ述ベタ
一、出生地 (略)
一、位記勲章年金 ナシ
一、前科 ナシ
一、「四畳半襖ノ下張」ノ事ニ関シテ申シ上ゲマス。私ハ大正六年頃、「四畳半襖ノ下張」ト言フ原稿ヲ書キマシテ私ガ主宰シテ居リマシタ雑誌「文明」ニ発表 致シマシタ。確カ大正六年発行ノ十六号ニ載セテアルト思ヒマス。内容ハ御覧下サレバ分リマスガ純文学的ナモノデ何等卑猥ナモノデハアリマセン。ソノ時ハ (一)ヲ出シタノミデアトハ都合ニヨッテ書キマセンデシタ。(コノ時三希洞文庫ト裏表紙ニ朱印ノアル「四畳半襖ノ下張」一冊ヲ提示シタ処次ノ様ニ申述ベ タ)
この聴取書のように、一般的には、調書の冒頭部分には、本籍、住居(住所)、氏名、職業、年齢、それに録取した日付が記載されることになっている。そして、誰がこの調書を作成したかが、たいていは供述書の最終行に記載される。
ところが、「予審調書」の冒頭部分は、本籍と、出生地だけしかない(上記の調書で出生地が記載されている場所を記憶しておいてほしい。あとで重要な意味を持ってくる)。それだけでも、「予審調書」が調書としては不備なものであることがわかる。
「予審調書」が真正の調書そのものではないという第三の根拠は、さらに「予審調書」の冒頭部分に関してだが、そこには確かに「被告人 阿部定」と調書らしく記してあるものの、本文に入ったとたんに、予審判事が阿部定に対して、一貫して「被告」と呼びかけていることだ。
僕の知る限り、刑事裁判では、普通は「被告」という呼び方はせず、「(刑事)被告人」と呼ぶのが通例だ。法律用語としては、「被告」と呼ぶ場合は、民事訴訟や行政訴訟においてであり、訴えた側は原告と呼ばれ、訴えられた側は被告と呼ばれることになっている。
ところが、新聞や雑誌などでは、従来から、刑事訴訟の被告人も、民事・行政訴訟の被告も、一緒くたにして「被告」と呼んできた。これが一般社会にも浸透していて、民事・刑事・行政という訴訟の違いを無視して、すべて「被告」という呼んで、区別をしていない。
刑事事件の調書なのに、どうして「予審調書」では、「被告人」と言わず「被告」と呼んでいるのか。これは類推するに、「予審調書」を刊行した者の意図的な言葉の置き換え≠ナはないかと思っている。
いや、もともと、調書の冒頭で、取り調べた相手の名前の上に「被告人」などという冠を付けて記載するものかどうかも疑わしい。予審調書の現物を見たことがないので、なんとも言えないが、たとえば、「アナキズム」というサイトにある「金子文子訊問調書」(但し部分。金子文子〈かねこ・ふみこ〉は1923年に朴烈〈ぼくれつ、パク・ヨル〉事件で逮捕、死刑判決を受けたが、無期懲役に減軽後、獄内で自殺)の冒頭は、「調書(大正十二年十月二十五日東京地方裁判所) 金子 文子」とあるだけだ。むしろ「被告人」という文字列がないほうが本物に近いのではないかとさえ思えてくる。
あとでも紹介するが、阿部定事件の本物の予審調書が外部に漏洩されて、秘かに出版されたたことは知られているが、今日見かける「予審調書」は、その漏洩した調書を誰かが書き写したものを、印刷に付すために原稿に起して刊行したものである。
この刊行にあたって、たぶん最初の刊行者は、調書をそっくりそのまま活字にして歴史的事件の第一級資料を社会に広く提供するという高邁な考えよりも、これを世の好事家に販売して金儲けをすることを考えていたのではなかろうか。
つまり、刊行にあたって、まずあったのは、売らねばならないという意識であって、そのためには本物の調書をそのまま印刷できないと判断したに違いない。 なにしろ、本物の調書は、堅苦しい文章ばかり並んでいて読みにくいものであり、それでは一般人に受けそうもないので、まず面倒で小難しい法律用語から排除 しようとして、文中にあった「被告人」という言葉を「被告」と改めたのではないかと思ったりする。
つまり、「被告人」→「被告」という言い換えそのものが、「予審調書」が、真正の調書の加工品であることを物語っていることになる。
しかし、こうした言葉の言い換えが、単に小難しい法律用語だけにとどまっていたなら、まだしも資料としての価値は第一級と言えたのだろう。だが、実際は、他のさまざまな箇所でも加工がおこなわれている形跡があるのではないかというのが、僕の推論である。
その加工は、ある場合には意識的なものであるが、別の場合には無意識的なものでもある。簡単に言えば、刊行者の意図で意識的な加工をされた部分もあれ ば、刊行時にうっかりミスなどで脱落した語句や、勘違いの訂正、さらには文字の読み違いによる誤植などが、あちこちにある。
その脱落や誤植と見られる箇所は、事件資料としては重要な部分に及んでいる場合もあり、これを見過ごすことはできない。つまり、「予審調書」は、本物の 予審調書から発しているとはいえ、それはあくまでも写し≠ナあり、加工≠施されたものだということを、これを読むときには念頭に置かなければならな いということだ。◆時代を経るたびに中身が変わる「予審調書」
ところで、ここで素朴な疑問が浮かんでくる。それは、冒頭に「被告人 阿部定」とあるのに、なぜ「予審調書」の本文では、すべて「被告」という用語で通 しているのかということである。どうせなら、すべて被告人か被告かのどちらかに統一すればすっきりするはずだ。なぜ、そんな不統一が起きているのだろう。 そこが実は、「予審調書」を見るときの重要ポイントの一つだ。
その答えは、単に僕の仮説にすぎないが、「予審調書」には、異本というほどではないが、いくつかの別バージョンが存在していることからきているのではないかと思っている。たとえば、僕は、あるムックで『艶恨録(えんこんろく)』というタイトルで紹介されている刊行物の見開き2ページを写した図版を見たが、それはなんと以下のようになっている(字詰め及び文字の位置関係はママ。原文は縦書き。和綴じふうの体裁か簡易製本と思われる)。
第一回訊問
阿 部 定
本籍は 名古屋市東區千種町通七丁目七十九番地
出生地は 東京市~田區新銀町十九番地
問 檢事より被告に對し斯樣な事實に付き殺人及死體損壞被告事件として豫審請求になつて居るが此
の事實に對して何か陳述することがあるか
此時豫審判事は被告に對して本件豫審請求書記載の公訴事實を讀み聞けたり
答 御讀み聞けの通り事實相違ありませぬ
問 どうして吉藏を殺す氣になつたか
答 私はあの人が好きで堪らず自分で獨占したいと思ひ詰めた末あの人は私と夫婦でないからあの人
が生きて居れば外の女に觸れることになるでせう殺して了へば外の女が指一本觸れなくなります
から殺してしまつたのです
この『艶恨録』とされる刊行物の特徴は、(1)すべて旧字を使用していること。(2)すべて旧仮名遣いを使用していること。(3)句読点が極度に少ないこ と。(4)改行が極度に少ないこと。(5)送り仮名や仮名遣いが統一されていないこと。(6)現在巷間に流通している「予審調書」には必ずある「被告人 阿部定」が単に「阿部定」となっていること……などである。このうち、注目したいのは、もちろん、ここに「被告人」という文字列がないことである。
『艶恨録』の刊行時期は、対抗ページに阿部定出所の記事があること、活字が旧字体(正字)であることなどから(昭和30年代に入ると、旧字の活字だけで印刷するのが難しくなる)、阿部定が栃木刑務所から恩赦で出所した昭和16年5月以降から昭和30年代くらいまでの時期と思われる。
ただし、冒頭の文書形式や、新旧の仮名遣いや漢字の違いはあっても、比較するためのデータが非常に少ないが、『艶恨録』の冒頭部分と、今われわれが手にしている「予審調書」とを比較してみると、内容的にはほ ぼ同一のものと推測できる。
すると、『艶恨録』と今ある「予審調書」とはどんな関係になっているのだろうか。これはあくまでも仮説だが、この『艶恨録』が、最初に世間に流出した阿 部定の「予審調書」とすると、最初は冒頭には「被告人」という文字列がなかったことになる。先程も言ったように、冒頭に「被告人」という文字列がないの が、一般的な予審調書の文書形式なら、『艶恨録』は、文字通り本物の予審調書をそのまま引き写して踏襲したものということになる。
しかし、現在ある「予審調書」には、「被告人 阿部定」という文字列が必ずといっていいほどある。これは、たぶん、何世代目かはわからないが、『艶恨録』以後に生まれた次のバージョンということになる。
要するに、最初は「被告人」という文字列のないものが出回っていたが、それをもとに、さらに調書らしく体裁を整えようと、単純に冒頭に「被告人」という 文字列を付け加えただけのバージョンが生まれていったのではなかろうか。それなら、「予審調書」の冒頭に「被告人」とありながら、それに反して本文中では 一貫して「被告」となっている不統一も理解できる。
ちなみに、最近手に入れた「阿部定訊問事項」(相対会研究報告資料の部 明治大学博物館研究報告第9号所収 以下=「訊問事項」版)の 冒頭部分は、「第一回訊問 阿部 定」と1行で処理してあるだけで、今紹介した『艶恨録』に酷似している。すると、「訊問事項」版は「予審調書」の先祖に近い資料とし て考えてもいいのかもしれないと一応は言える。だが、「訊問事項」版は、細部を検証していくと、事件の事実関係に沿って文章の手直しなど、編集の手が入った形跡もいくぶん感じら れるので、積極的にはこれを初期バージョンとは主張しない。
また、前坂俊之が編者となって刊行した『阿部定手記』(中公文庫)の中には「『艶恨録』―予審訊問調書」(以下=「前坂版艶恨録」)と 題した文章が掲載されているが、それには冒頭の「被告人 阿部定」という文字列がちゃんと存在する。しかし、この本を総合的に判断すると、同時収録されて いる当時の新聞記事や、判決文までも仮名処理されたり、仮名遣いを変更したり、いろいろと改変の跡があることなどから、ストレートには、これがかつての『艶恨録』の形式を正確に踏襲しているとは断言できないので、 ここでは一応考慮に入れないことにする。
さらに、伊佐千尋の『愛するがゆえに 阿部定の愛と性』(文春文庫 以下=「伊佐千尋版」)の 「第三章 予審」以下に「予審調書」が収録されているが、これには、なんと他の「予審調書」にはある冒頭の本籍と出生地の記述さえも省かれている。 その前書きには「原文をなるべくそのままに、旧い漢字と仮名づかいを改め、文体に多少の手直しを加えて読みやすいようにした」とあるものの、人物名の多くが仮名 になっていることや、小説作品を感じさせる改行の仕方、あるいは調書にしては文章の処理において完成度が高すぎる感もあり、この本にある「予審調書」が、 元本にどれだけ近いものか判断できないので、ここではあえて積極的には取り扱わない。
◆地下本として流布していった「予審調書」
時間的にどちらが先に刊行されたかは断言できないが、ともあれ、現実に「被告人」という文字列のある「予審調書」と、その文字列がない「予審調書」が存 在している。「真実は一つ」という言葉があるように、阿部定の予審調書も一つしか存在しないはずなのだが、それがどうして、冒頭の文書形式の違うものが存 在しているのだろうか。
この問題に対する答えは一つだけだ。つまり、まず、「予審調書」には別バージョンが存在するということ。第二に、「予審調書」は、どの時点かはわからないが、誰かの手が入った、つまり刊行するために、編集という手を経たものであるということである。
では、どうして「予審調書」に別バージョンが存在するという奇妙な現象が生まれてしまったのだろうか。その謎を解くヒントが、『阿部定手記』の解説にある。
同書によると、まず『艶恨録』の外形について、「この阿部定の予審調書を採録した『艶恨録』は裁判所の調書をまね和紙を二つ折りにして閉じた[ママ]和 本仕立のもので九十二ページ。少し大きな活字で印刷している。表紙に短冊形の紙で『艶恨録』と書いてはりつけている」と紹介したあと、筑波昭の著書から援 用して、判決のあった翌年(昭和12年)にはすでに「この予審調書が何者かによって外部に持ち出され、印刷、出版されて非公然と[ママ]売買され好事家の間に秘かに流れていた」と報告している。そして、その内容の真偽について、「驚いた警察がその一部を押収して予審調書の原本と照合鑑定したところ、内容がことごとく一致して、『原本通り間違いなし』と判明」としている。
どうも前坂俊之は、『艶恨録』の現物を手元におかずに、原稿を書いたようにも思えるので、それよりもっと貴重な証言として、直接『艶恨録』らしきものを見た話が、森長英三郎の『史談裁判』(日本評論社)にあるので紹介しておこう。一 件記録が裁判長のもとにきたときは、すでに沢山の人が読んだとみえて、手垢で汚れていたという。どこから流れたのか知らないが、その予審調書を印刷頒布し た者がいる。私のみたのは奥付もないが、昭和一七年のものである。いろいろ調べてみたが、確かに予審調書の写しに間違いない。戦後カストリ雑誌横行のとき も、この方は偽物か本物かは知らないが、阿部定調書と名のるものが露店で売られていた。(前掲書中「阿部定事件」より)
これらの意見に従えば、まず、「予審調書」は、阿部定の出所後に流通しはじめたが、刊行当初から正統な機関が公式に発行したものではなく、本物の調書を秘かに盗み出して書き写したという写し≠ナあったこと。
第二は、いわば永井荷風の「四畳半襖の下張」と同じように、 いわゆる地下出版のマル秘本というかたちをとって出版されたために、表立ってはなかなか存在が現れてこず、世間の底流で伝播していったこと。また、そのために、そのうち偽物も出回るようになって、本物と渾然一体となって社会に流通していったことがわかる。
そんな誕生秘話を持っているだけに、どれがもともとの「予審調書」なのかわからないくらいに、さまざまなバージョンが生まれてしまったことは考えられる。
だいたい、原本に即してきちんとした校註作業をおこなったうえで刊行するなどということは、なきが等しい状態にあったと考えられるわけで、刊行者の自由裁量で勝手気儘に文章がいじられ、体裁が変えられていったことは考えられる。
しかも、その際、まだ複写機が発達していなかった時代ということもあって、書き写し作業は、ほとんど現物を目で確認しながらペンなどで原稿などに書き写 すという手作業でおこなわれていたと考えられる。筆者も1984年まで手書きで原稿を書いていたが、その経験から言うと、手で書き写すという作業では、誤 字脱字や文字の読み違い、手前勝手な判断による誤記などを生じさせる可能性が高くなる。「予審調書」に用語の不統一や、誤字や脱字がかなり多くあるのも、 結局、流通ルートがいかがわしかったせいなのだろう。
それだけならまだしも、流通の途中では、必ず文章に手を入れる者が出てくるわけで、改変や加工を施されるという事態も起きてきたに違いない。あとでも触 れるが、なにしろ「予審調書」という代物は、ある意味では魔物に近いものがある。編集者や校正者の感覚からいうと、うずうずを通り越して、いら いらさせるほど手を入れたくなる難物でもある。
たとえば、比較的最近に刊行された「予審調書」にとんでもない文章処理がされたものを見つけた。第六回訊問の後半部には、29点の押収品を阿部定に提示するシーンがあるのだが、そのとき「(此時予審判事は昭和十一年押第七二一号の一乃至二九を示す)」という文章が挟み込まれている。この「乃至」を、なんと「〜」に改めてあった。読者サービスもはなはだしい。これは文字通り老婆親切というもので、もしこれが本物の調書だったら、歴史的な法律文書の面影を丸つぶれにする愚行でしかない。
まあ、そのように、「予審調書」は、勝手に手を入れたくなる代物だということを理解すればいい。ただ、勝手に手を入れても、誰に怒られるというわけでもないので、改変したいという誘惑にかられてしまうことも確かなことだ。
◆本物でないのに本物らしく見える「予審調書」の不思議
森長英三郎が認めているように、事実、「予審調書」は真正の阿部定の予審調書を引き写したものを出版したものだろう。 しかし、それはたぶん、本物に忠実に引き写されたものではなく、また忠実に引き写したとしても、出版する際には、刊行者の意図かあるいは編集者の意図 で、文章にさまざまな加工や変更がおこなわれたはずである。だから、これは本物とは言えないが、かと言って偽物とも言えないのである。
そのことは、細部をじっくり比較検討していけば違いがわかることなのだが、それでも森長英三郎は、これを本物と断言している。「いろいろ調べてみたが」 と言っているくらいだから、綿密にかどうかわからないが、これが本物の写しなのかどうかについて検討してみたことだけは確かであろう。だが、その結論が 「確かに予審調書の写しに間違いない」となっているのは、僕には頷けないことである。
森長英三郎は、本職の弁護士だったから、法律の知識においては、僕などよりも比ぶべくもないほど何段階も上の人である。その人が「写しに間違いない」と 断言しているのに、法律に素人の僕が反論を抱くのはおかしいことかもしれない。しかし、森長英三郎が何と言おうと、「予審調書」は本物ではないのだ。
実は、森長英三郎のように、これを本物だと思うことが、「予審調書」の不思議さなのだ。その不思議さを確かめるために、例証を挙げてみよう。本来は本物 の予審調書と比較しなければならないが、そのようなものは公開されていないし、手に入るものではない。また、裁判所に保管されてあるはずの阿部定裁判の判 決文すらも、戦災で焼失してしまったとのことだから(『どてら裁判』91頁)、本物の予審調書を含む一件書類が、もはや存在しない可能性がある。
そこで、比較対象として、阿部定裁判で裁判長を務めた細谷啓次郎が、『どてら裁判』の中で部分的に引用している予審調書を取りあげることにした。これ は、出所の点から見ても、本物の予審調書にかなり近いものと思われる。ただし、この本は戦後の出版なので、新仮名遣いが使用され、漢字も新字になってい る。
この「どてら裁判」版と、これまで刊行されてきた「予審調書」を比較してみたい。比較する箇所は、第五回訊問の最初の部分にあたる。比較するテキストに は「ドキュメント日本人」版と「訊問事項」版を選んだ。「ドキュメント日本人」版を選んだ理由は、これまで刊行されてきた「予審調書」の中では、旧仮名遣いの使い方が正統派であること、また文章の手直しの 程度などにおいても、他のものよりも信頼性が高いと思われるからである。「訊問事項」版は、他の「予審調書」にはない特徴をいくつか持っているので、取りあげてみた。
なお、句読点の有無、仮名遣いの違い、漢字をひらいているかどうかの別はとりあえず無視した。三者の間でそれぞれ対応する語句に傍線を施したうえ太字にし、一方にしかない部分には斜体をかけた。答 左様です。中野町新高の待合「関弥」で石田と別れ、五月七日昼頃下谷区入谷町五一稲葉正武方に参りましたが、急に空腹になつたので、持つて行つたお土産の寿司を取り出し家人と一緒にそれを食べたり、支那そばを取つたり、お茶を飲んだりしてさて寝でもしやうかと思ふと、急に今頃石田は家内とゴテクサやつているだらう等と考え出し堪らなくなりました。そして石田を帰してやるのではなかつた。よくすんなり帰してやつたものだと自分で自分を疑ひ、今度会つたらどんな事をしても帰すまいと思ふ程石田に執着した気持で、どうすることも出来ませんでした。(『ドキュメント日本人10』より)
自分は、中野町新検の待合関弥で石田と別れ、五月七日昼頃、下谷区入谷町五十一○○○○方に帰りましたが、さて寝でもしようかと思いましたが、急に、今頃石田は、家に帰ってお内儀さんとごてくさやっているだろうと思われ、いたたまらなくなり、そして石田を帰してやるのではなかった、よくすんなり帰してやったものだと、自分で自分を疑い、こんど会ったら、どんなことをしても帰すまいと思うほど、石田に執着した気持をどうすることも出来ませんでした。(『どてら裁判』より。○部分は原文のママ。著者が伏字処理をしたと思われる)
答 左様デス。中野町新宿ノ待合関弥デ石田ト別レ、五月七日昼頃、下谷区下谷町五一ノ稲葉正武方ニ帰リマシタガ、急ニ空腹ニナツタノデ持ツテ行ツタオ土産ノ寿司ヲ取リ出シ、家人ト一緒ニ其レヲ食ベタリ、支那ソバヲ取ツタリ、オ茶ヲ呑ンダリシテ、サテ寐デモシヤウカトスルト、急ニ、今晩石田ハ家内トゴテクサイツテ居ルダラウナド考ヘ出シテ居タラ堪ラナクナリマシタ。ソシテ石田ヲ帰シテヤルノデハナカツタ。ヨクスンナリ帰シテヤツタモノダト、自分デ自分ヲ疑ヒ、今度会ツタラバ怎ンナコトヲシテモ帰スマイト思フ程、石田ニ執着シタ気持ヲ怎ウスル事モ出来マセンデシタ。(「阿部定訊問事項」より)
この三つの文章を比較して、一目瞭然でわかるのは、「ドキュメント日本人」版にはあるセンテンスが、『どてら裁判』にはないことである。逆に「ドキュメ ント日本人」版にはない語句が『どてら裁判』のほうにはある。文字の量もかなり違う。また、同じような雰囲気を持つ言葉や言い回しが、それぞれ違う表現の し方をされていることもわかる。
もちろん、句読点が施されている場所も違うし、カギカッコの場所も違う。漢字にするかひらがなに開くかという判断も違っている。また、数字の表記も異なっている。そして、たいていの「予審調書」で使用されている「私は」という主語が、「自分は」となっている。
ちなみに、「ドキュメント日本人」版の行頭近くにある「中野町新高」と、「訊問事項」版の「中野町新宿」は、たぶん『どてら裁判』のほうにある「中野町新検」のほうが正しいと思う。中野町ときたら、次の言葉は地名だろうと思うのが普通だが、ここは地名ではなく、中野町にある店の状態を言っている。
「新 検」とは「新検番」の略で、大雑把に言えばその地域で新しくできた店のことだ。「新高」や「新宿」が、たぶん「新検」の間違いであることは、この文章がある直前の第四回訊問 の終わりごろに「関弥」という店の説明として「新検」という言葉が出てくるので、校正を職業としている人なら、注意深く読んでいなくても、かなり近い場所にこの言葉があるので、再び「新検の関弥」が登場しているのではないか、と気がつくのではないかと思う。
ただ、驚くのは、「訊問事項」版が、意外に『どてら裁判』の記述と似ていることだ。『どてら裁判』では「いたたまらなくなり」とあるところが、「訊問事項」版では、「居(い)タラ堪(たま)ラナクナリ」となっている。誤植が混入しているため読みにくくなっているが、たぶんここの表現は、もともとは「居タ堪ラナクナリ(居た堪らなくなり)」だったのではないだろうか。
「今度会ツタラバ怎(ど)ンナコトヲシテモ帰スマイト思フ程、石田ニ執着シタ気持ヲ怎(ど)ウスル事モ出来マセンデシタ」というくだりなどは、『どてら裁判』とほとんど同一だ。ただし、「訊問事項」版は、誤植のデパートなので、その意味で大変惜しい資料だ。
また、どの資料も「ごてくさ」という関西弁を採用しているのは、興味深い。
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しかし、おかしいのは、細部ではこれだけいろいろと差異があるのに、内容を一読した限りでは、この三つのものを同一のものと受け取ってしまうことであ る。目の前に三つ同時に並べて読み比べれば、そんなことはあまり起こりえないが、たとえば、かなり前に本物を読んだときの記憶を頼りに、「予審調書」を読 み返すと、同一性ばかりが目立ち、これは本物の写しだと感じてしまうことだろう。
森長英三郎は、たぶん、今僕がしたように同時に三つのものを並べて、一字一字比較参照しながら、本物かどうか確かめたのではないと思う。きっと、過去に本物に接したときの記憶を頼りに、露店などで売られていた「予審調書」というガセネタを読み返したのではなかろうか。あるいは、その読み方も 立ち読み程度のものだったのかもしれない。
だが、今比較してわかったように、「予審調書」のほうには、誰かが文章的に、あるいは文法的に整えた形跡がある。つまり、書き直し要するにリライトがされて いる可能性がある。だが、それなのに、あくまでも本物でないものが、ちょっと読みでは本物に見えてくる。そのことこそが、「予審調書」という代物が持っている不 思議な特徴なのだ。
◆「予審調書」にはさまざまな別バージョンがあった
「予審調書」が、本物の予審調書をそのまま書き写したものではなく、編集者や新聞記者などが手を入れて書き直したものであることは、今の例証で明らかなことだと思う。しかし、それだけならまだしも、問題はさらもう一つある。
それは、書き直されたものが、たった一つではなく、いくつも存在するということだ。要するに、「予審調書」にはいくつもの別バージョンが存在する。その別バージョンの存在を確かめるために、再び比較作業をおこなってみよう。
たとえば、第五回訊問の中に、阿部定が石田吉蔵を殺し、局部を切り取ったあとで、「定吉二人キリ」という血文字を書く場面がある。この部分が、「予審調書」それぞれで微妙に表現が異なっている。
まず、このホームページに掲載している「別冊新評」版では「なお石田の左腿にその血で『定吉二人キリ』と書き敷布にも書きました」とあって、これだけを読むと、阿部定が石田吉蔵の左腿に「定吉二人キリ」と書いたあと、それと同じ文字を敷布にも書いたように受け取れてしまう。ところが、事実はそうではなかった。
そのことは1980年代に流出して写真週刊誌にスクープ掲載されるなどした現場写真を 見ればわかる。要するに、実際の現場写真で確認すれば、「定吉二人キリ」という文字は敷布に書いたということが一目でわかる。一方の「定吉二人」という文 字は、左腿のほうに書いてあるのだ。ところが、他の「予審調書」で同じ箇所を比較してみると、同じ間違いをおかしているものが結構多いのには驚かされる。
a、尚お石田の左腿に其血で定吉二人キリと書き敷布にも書きました次に牛刀で「定」と云う自分の名を刻み込んでから(「公判記録」版)
b、尚ほ石田の左腿に其血で定吉二人キリと書き、敷布にも書きました。次に牛刀で「定」と云ふ自分の名を刻み込んでから(「ドキュメント日本人」版)
c、なお石田の左腿に「定吉二人きり」と書き、敷布にも書きました。次に牛刀で「定」という自分の名を刻み込んでから、(「前坂版艶恨録」)
d、尚石田ノ左腿ニ其ノ血デ定、吉二人ト書キ、敷布ニモ書キマシタ。次ニ手刀デ「定」ト云フ自分ノ名ヲ刻込ンデカラ(「訊問事項」版)
e、なお石田の左腿に、その血で、「定吉二人」と書き、敷布にも書きました。次に、牛刀で「定」という自分の名を刻み込んでから、(「愛するがゆえに」版)
aからeま でを比較すると、句読点の有無や仮名遣いの違いは無視して、まず「その血で(其血で、其ノ血デ)」という文字列が入っていないものと、入っているものとに グループが分かれる。さらに、「定吉二人」グループと「定吉二人きり(定吉二人キリ)」の違いで2グループに分かれる。
この違いが生じた原因は、たぶん、もとにした資料の違いからくるものと考えられる。つまり、組み合わせは複雑だが、とりあえず、「その血」有り+「定吉 二人きり」バージョン、「その血」無し+「定吉二人きり」バージョン、「その血」なし+「定吉二人」バージョンが存在した可能性が指摘できる。
ところが、ここで重要な問題が起きてくる。実は、先程も言ったように、これらの「予審調書」のどれもが、どれも不正確な記述をしているのだ。
念のため再確認すると、「定吉二人キリ」という文字は敷布に書いたのであり、左腿のほうに書いたのは「定吉二人」という文字だったわけだが、aからeまでで、いちばん正しい表現をしていそうな「伊佐千尋版」と「訊問事項」版でさえも、「定吉二人キリ」という文字がどこに書かれていたかを書いていないのである。つまり、どの「予審調書」も欠落のある記述をしている。
どうして、そんな現象が起きたのか。まず考えられるのは、もともと本物の調書で欠落していた可能性だ。しかし、これは考えられない。というのは、細谷啓 次郎の本に載っている第五回訊問調書には、「石田の左腿にその血で『定吉二人』と書き、敷布に『定吉二人きり』と書き」とあるし、また判決文には「右局部 等の流血を以て吉蔵の左大腿部に『定吉二人』なる文字を、其の寝床敷布に『定吉二人きり』なる文字を夫々書き遺し」とあるからだ。したがって、本物の予審 調書には、正確にその状況が記載されていたことになる。
すると、最初に本物の調書を書き写した者が、うっかり語句を欠落させてしまった可能性が高くなる。つまり、本来は「左腿にその血で『定吉二人』と書き、 敷布には『定吉二人キリ』と書きました」とでもしてあったものが、同じような語句が二つ続けて出てくるために、一方の語句の脱落をさせたり、勘違いして余 計な語句を入れてしまった可能性がある。
いや、本当は、その推理では、aからeまでの「予審調書」の違いを説明できない。なぜなら、欠落箇所や、「キリ」の有無が、それぞれで違っているからだ。
この状態を論理的に説明するために、推測できる状態は一つしかない。つまり、最初のバージョンには、判決文にあるような正確な記述が書き写されていたの だが、その次のバージョンになったときに、それぞれ異なったミスを生じたものが二つあって、それぞれが社会に流通していったという可能性である。
そして、その欠落や誤記を、これまで誰も修正してこなかったのは、かつては現場写真を見ることさえできなかったという事情があったからだろう。現場写真 でもあれば、それを参照して、正確な記述に改めることができたはずだ。それができなかったというところに、当時の世相を見る気がする。
ともあれ、そうして、さまざまな別バージョンを手に入れた人たちが、そのときどきの編集方針や編集感覚で、新仮名遣いに直したり、句読点やカギカッコを施したりして、今日のようなさまざまに言い回しの違う「予審調書」が生まれていった、ということなのだろう。
ところで、これは表記上の問題だが、校正者としては、「定吉二人キリ」とすべきか、「定吉二人きり」とすべきかというジレンマに悩まされる。確かに、現 場に残された文字は、「定吉二人キリ」と読めるわけだから、正確を期そうとすればカタカナで表記すべきではある。しかし一方、判決文では、「定吉二人き り」としているわけだから、公式発表のほうを優先すれば、こちらの表記が正しいことになる。
まあ、もともと、当時の文書は、カタカナ書きがしてあっても、ひらがなの代替としてカタカナで書いていたわけで、現代表記に照らせば、やはりこれはひら がなで書くべきだろうと思われる。しかし、それでも、現場の証拠をそのまま提示したいという気持ちがあれば、「定吉二人キリ」が正しいということになると 思う。
第二章「予審調書」の加工された痕跡を探る
◆突貫工事の書類作成が誤字脱字を生んだ?
「予 審調書」にはやたらに誤字脱字、誤記、表記の不統一が目立つのは、どうしたわけなのだろう。これについて考えられることは、もともとの予審調書自体に、当 初から誤字脱字、送り仮名や用語の不統一が存在していた可能性だ。判決文を見ても、誤字や誤植こそ見当たらないが、「為」と「為め」が混在しているくらい だから、少なくとも表記の不統一は、本物の予審調書にはざらにあったと考えられる。
また、当時の取り調べ状況を伝える新聞記事を見ると、かなりの突貫工事で一件書類が作成されたようだ。
たとえば、当時の新聞報道に、「稀代のグロ犯人、阿部定(三二)は廿日間に亙る警視廳の取調べも終つて檢事局に送局[現在の「送検」に近い手続き=筆者註]する豫定であつたが係り酒井檢事の都合で午後七百枚に上る聽取書のみを先に送局、身柄は一兩日中に證據物件たるアルコール漬や切取りに使用した柳刃庖丁などゝ送局されることゝなつた」(昭和11年6月10日付讀賣新聞夕刊)とあったりする。
この記事でわかることは、予審裁判にかけるために、聴取書だけで700枚という大量の文書の山が検察側から提出されたこと、そしてその聴取書は、阿部定逮捕後20日前後の短期間でまとめられたということである。
700枚という数字は、もちろん原稿用紙に換算してということではなく、たぶん罫紙などに書かれたものを言っているのだろうから、文字数にして、いった いどれくらいの分量になるのかわからない。また、これは、阿部定以外の調書も含めての数字だろうから、阿部定の調書だけの分量を推量することも難しい。
ただし、『阿部定正伝』(情報センター出版局)で堀ノ内雅一は、「予審調書」の分量について「五万六〇〇〇字に及ぶ」と断言しているが、僕自身はこの数字を疑っている。なぜなら、この数字は単に、今刊行されている「予審調書」の文字数を概算しただけの可能性があるからだ。本物の予審調書は、もっと分量があったかもしれないのに、そのことを堀ノ内は考えに入れていない。
ちょっと横道にそれることになるが、実は、ここからがこの章の本題である。
「予審調書」の文字の分量をはじめ、訊問の回数まで踏み込んで中身を調べていくと、本当に訊問は八回しかなかったのかという疑問にとらわれてくる。
というのも、まず八回までの訊問を収録していない「予審調書」も存在するからだ。たとえば、「訊問事項」版には、実は第六回までの訊問しか掲載されてい ない。つまり、多くの「予審調書」が掲載しているのとほぼ同一の内容で、第六回訊問までは収録しているが、そのあとの第七回と第八回の訊問調書が掲載され ていないのである。
これについて、明治大学博物館の伊能秀明は「第七、第八の二回分の訊問記録を欠き、本来の分量の六割六分に過ぎない点で遺憾である」(明治大学博物館研究報告第9号)と して残念がっているが、僕はまったく違う考えを持っている。その考えとは、最初に世に流出した「予審調書」は、ひょっとして六回分までしかなかったのではないかという推理だ。
要するに、「訊問事項」版は、第七回、第八回を欠いているのではなく、第七回、第八回はもともとの初期バージョンにはないものであって、あとのバージョンで付け加えられたものではないかということだ。その根拠は、まず文章の持つ雰囲気の違いにある。第七回と第八回の文章を検討すると、第一回から第六回までの緊張感のある文章とは違って、リズムにおいて も、分量においても、いささか異なった雰囲気を持っている。内容的にも、まるで世間話や四方山話をするようなダレた感じさえ覚える。
さらに言えば、第六回訊問の最終に近い部分には、予審判事が阿部定に対して、「被告は今度の事件に付て現在どう考えて居るか」 という具合に、事件に対する総括的な意見を求めている。そうした総括的な供述を求めているわけだから、これでこの「予審調書」の締めくくりにしても、ほと んど違和感がない。そう考えると、第七回、第八回の訊問は、なくてもいっこうにかまわない、単なる付録的な感じのものに思えてくる。
この第七回と第八回の訊問について、僕はかなり大胆な推理さえ持っている。それは、この二つの回の訊問調書こそが、本物の調書部分をそのまま書き写したものではないか、ということである。という のは、質問の内容や全体の会話のやりとりの雰囲気が、ある種、公判での裁判長の興味の行き所と似ている感じもするからだ。つまり、当時の司法の姿勢としての同質性を感じさせるのだ。
また、「訊問事項」版と、他の「予審調書」との間には、バージョンの違いがあると思われる根拠として挙げたいのは、「訊問事項」版と他の「予審調書」とのあいだには、目だって違う箇所が三箇所出てくることだ。
第一の箇所は、第一回訊問の冒頭にある。ここでは、「どうして殺す気になったのか」という予審判事の問いに対して、阿部定が「あの人が生きて居れば外の女に触れることになるでせう」(「阿部定公判記録」=以下「公判記録」版)と答えるというのが、今出回っているほとんどの「予審調書」に共通する言い回しだ。ところが、「訊問記録」版では、この部分が「アノ人ガ生キテ居レバ外ニ女ニ触レル事ニナルデアラウ」となっている。「でせう(でしょう)」と「であらう(であろう)」という語尾の違いに、僕は着目した。前者は、女性の発言を感じさせる言い回しだが、後者は女性の発言ということにこだわらない一般的な言い回し、つまり当時の警察や司法が作成した調書らしい堅苦しい言い回しになっている。そこで、これが「予審調書」の先祖に近いのではないかと考えたのだ。
しかし、問題は、「訊問事項」版は文字通り誤字脱字のデパートであることだ。何しろ、阿部定の姉の名前が姓だけしか書いてない(但し「桃源郷」41号に掲載された分にはある)。 そんな欠点は各所にあるとしても、まさか、いかに鈍くさい編集者や校正者であろうと、いちばん最初に出てくるひらがなやカタカナを誤植するとは思えないか ら、これはもとにした資料が違っていたために、言い回しの差異が生じたと見るのが素直だ。まあ、「訊問事項」版は、無理に全文をカタカナ書きにして、戦前 の文書というリアリティを付与したところがあるので、その際に、誤記や誤植、脱落をたくさん生じさせた可能性は高いが、それは一応この場では捨象しておこ う。
もう一箇所、特徴的に違っているのが、第六回訊問の後半にある「之等の品に覚えがあるか」という予審判事の質問に対して、阿部定がそれら証拠物件に関して、いろいろと答える箇所だ。ここで、「訊問記 録」版以外の「予審調書」では、どうしたわけか、まるで金太郎飴のように、一斉に押収品の「二五」に関する阿部定の供述を欠落させている。ところが「訊 問記録」版のほうには、ちゃんと押収品の「二五」が入っている(但し「二三」を欠落させるというドジを踏んでいるのは、いかにも相対会の編集らしい)。
第三の箇所は、第二回訊問の「親、兄弟は」の問いに対する答えだ。この答えの最終行は、ほとんどの「予審調書」では「姉トクは今尾清太郎の妻で清太郎は 元埼玉県入間郡坂戸町で運送屋をして居りましたが、止めて昨年頃から東京の荏原区上神明町に住み雑貨の行商をして居ります」という部分で終わっている。と ころが「訊問事項」版では、そのあとに「姉照子は……」という一行が追加されている。これは「訊問事項」版にしかない特徴だ。
この三つの差異から推測できることは、「訊問記録」版と他の「予審調書」は、流出(あるいは流通)経路が違うのではないかという可能性だ。
これは、あくまでも推測でしかないが、「訊問事項」版のほうは、刊行したあとで第七回、第八回が付け加えられない流通したもので、それには語尾を女性的な言い方に変えて読みやすくするといっ た工夫がなかったばかりか、戦前の文書ということを意識して全文カタカナ書きにしたため読みにくいこともあって、他の「予審調書」のように世に受け入れにくかったため、闇の中に埋もれたまま取り残されてしまったのではないか。
これだけ見ても、「予審調書」にある総文字数を、本物の予審調書の総文字数と断定するのは、勇み足すぎるのではないだろうか。
閑話休題。話を700枚の聴取書に戻すと、「阿部定公判記録」の但し書きによると、このとき調書を取られたのは、阿部定を妾にしていた横浜在住の院外団の男をはじめ、「遊廓の番頭や馴染客、待合『満左喜』の女将正木しち等、多数が、阿部定の荒淫やアクメ後数分間失神状態になること、男以上に荒々しい動作、いわゆる気風(キップ)のよさ等をこもごも答申している」としているから、結構な人数分の聴取書が山になっていたわけで、それをまとめる作業はまさに突貫工事さながらであったろう。
急げば誤字脱字も生じやすくなる。そうした事情から、もともと誤字脱字や用語の不統一をおかしやすい環境があったとも考えられないではない。
ちなみに、先程の新聞記事中にある「證據物件たるアルコール漬」 とは、被害者石田吉蔵の切り取られた局部のことである。阿部定が逃走中に大切に懐中に入れて持ち歩いていたものを、当局はどうも逮捕直後にさっさとアル コール漬けにして証拠保全をしてしまったらしい。「予審調書」の第六回にある押収品リストにも、このアルコール漬≠ェリストアップされている。
◆なぜ予審判事は第六回訊問で「証拠確認」をしたのか?
本物の予審調書がどれくらいの分量であったか、これも推理の手助けにしかならないが、細谷啓次郎の『どてら裁判』に、こんな文章がある。
現在の刑事訴訟では、公判になってから、警察官や検事の調書が、順次あらわれてくるのであるが、そのころの刑事訴訟では、裁判所へ事件がきたとき、最初 から、警察官の聴き取り書きや検事の聴き取り書き、または予審調書など、ぜんぶ整然とした一冊ないし何千冊という記録が送られていたのであった。
お定事件の記録は、たぶん三冊くらい綴られていたと思う。(前掲書中「記録の取扱と家庭」より。傍線は及び太字は筆者)
細谷啓次郎の記憶では、今も役所で見かける白い厚紙で綴じられた書類の綴りが3冊あったというから、結構な分量である。それで全体の文書量はおおよそわかるとしても、予審調書の分量を特定することができないのが痛いところだ。
また、こうした一件書類は、整然とまとめられたものが、どんと裁判官のもとへ送られてきたことがわかる。つまり、今の裁判のように、とりあえず一部の書 類を出しておき、あとは公判が開かれる時までに用意すればいいというのではなく、既にかたちが整い終えたものが検事へそして判事へと送られていたことが垣 間見える。つまり、本物の予審調書も、ひとまとまりになったかたちで作成されていたということになる。
では、その予審調書は、第何回まであったのかという疑問が生じてくる。これについて、まず名称としては「第○回訊問」と呼んでいいようだ。これも細谷啓 次郎の『どてら裁判』にあることだが、先程、「ドキュメント日本人」版との比較に使った文章の紹介で、「次に摘示する被告人にたいする予審第五回訊問調書中 の供述によって」とあるからだ。そして、この第五回訊問として紹介されている文章の最後は、「石田の左腿にその血で『定吉二人』と書き、敷布に『定吉二人 きり』と書き、また石田の身体に自分の身体[ママ]をつけて行ってもらいたいため、石田の左腕に肉切庖丁で『定』という自分の名を刻みこみました、云 々……」となっていて、これも「予審調書」の第五回訊問の終わりと、ほとんど齟齬がない。
この細谷啓次郎の記述からわかってくることは、少なくとも第五回訊問までは、「予審調書」のナンバーどおりに綴られていた可能性が高いことだ。しかし、 だからといって、第六回訊問以降までも、「予審調書」のナンバーどおりであったかどうかまで、断言するのはちょっと危険だと思う。
だいたい、第六回訊問を詳しく見ていくたびに、僕などは何とはない齟齬を感じてくる。その理由はいくつかある。齟齬を抱きはじめたきっかけは、8年くら い前に、「ドキュメント日本人」版を発見して、その第六回訊問を読み直していたときだった。このホームページに掲載した「別冊新評」版では、その箇所が編 集者によって意図的に削除されていたので、他の資料を読むまで、その箇所の存在に気づかなかった。その回の訊問では、阿部定が品川駅前の旅館で逮捕されるまでの経緯が連綿と供述されている。つまり小説で言えば、物語の終わりでクライマックスを受けて、 その後の運命やいかにというシーンである。そうして逮捕時の状況に関する供述が終わり、物語が一段落を迎える。ところが、ここで、どうしたわけか予審判事が、唐突に「之等の品に 覚えがあるか」と問いかけ、「昭和十一年押第七二一号の一乃至二九」という29点の押収品を阿部定に見せながら、説明を求めていく場面に切り替わっている。
いったい、ここでなぜ、予審判事は、わざわざ証拠品を改めてまとめて、阿部定の目の前に示しなければならなかったのだろう、と最初は感じた。読者としては、いかにも興を削ぐ野暮な場面変更だ。
このとき、僕には、これはひょっとして、あとで別の供述調書から取ってきてつなぎ合わせたものではないかという思いが湧きあがってきた。文字通り、まるでとってつけたような雰囲気 を感じたからだ。つまり、これの部分は、「予審調書」という地下刊行物が編集された段階で、編集者の誰かが、別の回の調書と切り貼りしたのではないかという推理が頭をもたげてきたのだ。被疑者にひとつひとつ証拠を突きつけて、説明を求めながら追い詰めていくという取り調べ方法は、たぶん取り調べの初期段階か中途段階でおこなわれることが 多いのではないだろうか。あるいは、被疑者からより正確な供述を引き出すために、その都度証拠を突きつけて、記憶を喚起したり、供述の矛盾点を突くという ことがおこなわれるのだと思う。「予審調書」のように、供述の最後になってまとめて証拠の確認を求めるというのは、取り調べの段取りとしては、少々違和感 を覚える。
しかも、怠惰なことに、第六回訊問では、29点で確定済みとも思える調子で話が展開されているのに、次の第七回訊問になると、突如押収品が1点増えて 30点になっている。しかも、その押収品たるや、お守りなどという、事件の核心とはあまり関係がなさそうな代物であり、取り調べの最終段階で、わざわざ持 ち出すほどの重要な新証拠とは思えない。これには大いに違和感を覚えた。こうした奇妙な齟齬が生じてくる原因として考えられるのは、つまりは、「予審調書」がデータの切り貼りによって、本物の調書を再構成したものだからではないか、と僕は思いはじめたのだった。
◆第六回訊問はデータを切り貼り再構成された?
しかし、いかんせん、「予審調書」には調書を取った日付が欠落しているため、日付順に並べることができない。もし日付があれば、第八回の訊問が、訊問の 最後におこなわれたものではないことを証明できるが、日付がないために、それができない。ならばと、ほかに齟齬を感じさせる箇所を探しはじめた。
そうした目でよく観察していくと、少なからぬ数で、文章的齟齬を感じさせる箇所がいくつかあった。たとえば、第六回訊問の阿部定の供述に、「明治屋へ懸けたのは昨夜勘定もせずに出た為め、其言訳をする為めでありました。念の為め申上げますが、其頃から石田を殺す気があり、殺した後の事を考へて人の目を誤魔化す為め左様な電話を懸けたのではありません。当時石田を殺す気があつたとすれば、電話等を方々へ懸ける様な事はありません」という供述がある。
普通の会話でもそうだろうが、この「念の為め申上げますが」以下の供述内容は、被疑者が自発的に言い出すことは少ないと思う。最初から予防線を張ってものを言うのはおかしいからだ。
一般的に言って、そうした応答をする前には、質問者から「お前は、殺した後の事を考えて、人の目を誤魔化すために、そんな電話をしたのだろう」といった問いかけが あるはずである。その質問に対して、「いいえ、そうではありません。それはこういうわけです」と強く否定した結果が、「念の為め申上げますが」以下の供述 となって、調書に記載されるのだと思う。しかし、「予審調書」では、予審判事がそんな質問をした形跡が見えない。そのため、「予審調書」では、「念の為め申上げますが」以下の箇所が、本文の中に唐突に登場してくることになり、読む者に違和感を生じさせることになる。
しかし、調書とはそういうものだともいえる。 僕は調書の取り方に精通しているわけでもないし、ほとんど知識がほとんどないというのが正直なところだが、普通、調書というものは、一問一答形式で記載さ れるものだと思っている。そのとき、問いの部分を簡潔にして短く縮めることはあっても、問いそのものを省くことはあまりないと思う。問いをあまり省かない のは、取り調べの流れを記録するためでもある。ところが、「予審調書」は極度に問いの部分が少ない。このことに疑問を感じるのだ。つまり、これを刊行する ときに、目にうるさい問いの部分を適度に削除したのではないかという疑いである。そして、ついでに調書の順序もばらばらにして再構成したのではないか。
その根拠になるかどうかはわからないが、調書がどのように作成されるものかという実例を示してみよう。この調書は、このホームページの別の箇所に掲載しているものだが、完全黙秘(完黙)している者に対してでも、こんな調書の取り方があるという特異な例として挙げておく。
第一回供述調書
本籍 不詳
住居 不詳
丈五尺二寸位面長色白、頭髪長、黒羅紗オーバに国防色ナッパ上衣国防色ズボンを着し赤色編上靴の男
當二十六、七才
右の者に對する昭和二十五年政令第三百二十五號違反被疑事件につき昭和二十六年二月十七日△△市警察署に於て本職はあらかじめ供述を拒むことができる旨を告げて取調べたところ被疑者は任意左の通り供述した
一問 出生地は
左足を右足ひざに上げ黙して答へず
二問 本籍地は
前同様煙草を吸ひ乍ら黙して答へず
三問 氏名年令
黙して答へず
四問 職業は
黙して答へず
五問 前科は
煙草を吸ひ乍ら黙して答へず
六問 位記勲章年金等は
足を組み腕を組んで答へず此の時茶を一杯呑んだ儘答へず
七問 学歴は
外部を窓越しに望見しながら答へず
八問 経歴は
静かに目をとぢて更にそれを開くも答へず
九問 共産党員ですか
黙して答えず「せき」を一つする
一〇問 日本共産党機関紙「アカハタ」が昭和二十五年六月二十六日に停刊處分された事を知って居りますか
此の煙草バット二本目に点火し本職の机上に置きありし雑誌××を開き目読し薄笑ひを浮べて答へず
一一問 「アカハタ」後継紙新文化(昭和二十五年七月二十四日)民主日本(同年九月三十日)自由(同年十一月十日)平和の友(同年十二月二十三日)各誌共に停刊處分になって居る事を知って居りますか
前同様に黙して答へず
一二問 平和のこえが平和の友停刊後改題発行されて居る事を知ってゐるか
前同様に黙して答へず
一三問 平和のこえの発送先及荷受先は
前同様に黙して答へず
一四問 唯今から読み上げる事実について其の状況を答へられたい
此の時別表平和のこえの頒布先及其の事実について読み聞かした
前同様に答なし
一五問 配布した平和のこえの入手先は
前同様に××を目読し取調無視の態度を示して答へず
一六問 その集金の事実は
前同様に黙して答へず
一七問 平和のこえの配布(頒布)は占領軍の占領目的に反する所謂指令違反であることを知って居るや
煙草を吸ひ乍ら何も答へず
一八問 本件について何か利益による申し立てや証據があるや
答 ポツダム宣言と日本憲法に反する人権じうりんであるから即時釋放手続をするやう
外になし
右の通り録取して読み聞かせたるが十八項以外何等の言葉を発せず署名拇印も拒否した
前同日
△△市警察署
司法警察員 警部補 ○○□□
立會人
前同署 司法巡査 △△××
上記の供述調書にあるように、調書は一般的には一問一答形式で記述される。ただし、上記の供述調書のように、取り調べの流れに沿って一問一答を記述するようになったのは、戦後になって民主警察になったからとも思える。
阿部定事件が起きた戦前では、戦後とは違う調書の作成のされ方がおこなわれていたようだ。たとえば、戦前のアナーキストなど反体制派への弾圧事情を報告 しているサイトには、戦前の予審調書は、今と同じく一問一答形式で記述されるものの、それには予審判事の質問に被告人が応答したそのままが記載されるので はなかったとしている。すなわち、ある程度供述がまとまってから、書記官がまとめて書き連ねて作成されたようだ。
しかし、そうして作成された調書は、勝手な作文に満ちていて、被告人が供述したとおりのことが、そのまま反映されているとは限らなかったという。被告人 は、ある時期になると、作成された調書の原案の読み聞けを受けるが、そのとき「そんなことは言った覚えがない」と抵抗しても、有無を言わさず拇印を押させ てられて、正式な調書が出来上がるということも多かったらしい。
だから、阿部定の「予審調書」で、問いの部分が少なく、阿部定の供述部分がひどく長いのも、また、少々文学的な言辞が挟まっているのも、書記官が調書の作成に熱心なあまり、文章を書き連ねすぎたせいと言えるかもしれない。
しかし、そう考えてもしっくりこない箇所が「予審調書」にはいくつか存在する。たとえば、阿部定を事件直後まで支えた愛人の大宮五郎氏の氏名が初めて「予審調書」に登場するときの記載の仕方の問題だ。
まず、他の登場人物から見ていくと、被害者の石田吉蔵の名前が「予審調書」に初めて登場するときは「中野区新井町五三八割烹吉田屋事石田吉蔵当四十二年方の女中となりました」 というように、石田吉蔵の説明として、住所、氏名、年齢、職業を列記している。これは調書として普通の文章形式だろう。
ところが、大宮五郎氏の場合は、なぜか この文章形式を踏襲せず、いきなり氏名だけが登場している。それが気になるのだ。大宮氏は、阿部定事件では、かなり重要な位置を占めている人物だ。その年 齢も説明がないというのは、少し奇妙である。ただし、当時の新聞報道でも、大宮氏に関しては年齢と職業は伝えられているが、住所などは明らかに されていない。だが、それならば少なくとも、「予審調書」には、せめて「大宮五郎当○○年」といったように、年齢データくらいはあってもよさそうなものである。ひょっとして大宮五郎氏に関しての情報は、「予審調書」が刊行されたときに、刊行者の手で意図的に削除されたとか、あるいはそれ以前の別の調書にはそのデータが存在していたが、次のバージョンでは削除されてしまったといった可能性を考えてしまう。
また、文脈に齟齬を感じる箇所が、第四回訊問にある。阿部定と石田吉蔵が愛の逃避行を開始し「みつわ」に行く。そこで乱痴気騒ぎをしていた様子を供述した 直後の段落で、「『田川』で二十八日も芸者を呼び二十九日の朝迄寝床を敷いた儘、夜も殆ど寝ずに猥褻の限りを尽して遊び暮しました」とあって、唐突に「み つわ」から「田川」に舞台が変わってしまっている。
これも、たとえば、「その『みつわ』で遊んだあと、『田川』に行ったんだね」といったような判事からの問いかけがあってはじめて、流れのいい供述になると 思われるが、そんな質問がされた形跡は、「予審調書」のどこにもない。ひょっとして、「田川」での様子について、別の日に調書を取っていたのだが、それを あとから、この部分に貼り付けたのではないかという疑いを抱いてしまう。
◆なぜ編年体で調書を書く必要があるのか?
考えてみると、「予審調書」という刊行物の内容構成自体にも、なんとなくおかしなところがある。それは、この文書が、いわゆる編年体で編 集されていることだ。つまり、阿部定という女の半生を、生まれてから殺人を犯すまで、そのとき彼女はどう生きてきたかというように、時間軸に沿って組み立 てられている。だからこそ、初めて読む読者にも、阿部定事件の全貌がわかりやすく、そして興味をそそる仕掛けになっている。
しかし、実際の訊問で、そんなに一本筋で整った調書を作りあげていけるものかどうか疑問だ。そもそもどんな人間にも記憶違いがある。また、時間の前後関係 を取り違えたりすることもしばしばある。そこで、どんな供述調書でも、途中で記憶を訂正したり、補ったりするために、何度も後戻りを繰り返すしということ が多いのではないかと思う。
簡単な事実関係や証拠の確認作業ですら、捜査の進捗具合によっては、途中で突然付け加えられたり削除されたり、さまざまな事態が起きてくるわけで、その都 度、供述は前に戻ったり、先に飛んだりいろいろするのではないかと思う。ましてや饒舌そうな阿部定であればなおさら、話が途中であちこちに飛んでしまい収 拾がつかなくなることもしばしばあったのではないかと思われる。しかし、「予審調書」は、きちんとした編年体のかたちをとっていて、全編がまるで整然と一 つの時間軸に向かって一直線に進んでいくかのようにまとめられているのだ。要するに、僕の言いたいことは、「予審調書」で第一回訊問から第八回訊問に至るまで整然と時間軸に沿って並べられている供述は、実際の取り調べで聴取された調書を日付順に整列させたときとは異なるものではないのかということである。
だいたい、訊問の回数ですら8回までと断定するのは早計だと思う。当時は弁護士も出席できない秘密裁判であったために、いまでは、何月何日に第何回訊問 がおこなわれたかさえ知ることができない。刊行された「予審調書」に8回分の調書が掲載されていたからといって、実際の訊問が8回おこなわれたという証拠 にはならない。単に言えることは、8通の訊問調書が取られたという事実であり、あるいは、もっと数があったところの訊問調書の中から8回分だけが刊行され て日の目を見たと考えるほうがいいのではなかろうか。
実際の訊問は、日々おこなわれたことだろう。そうして数回分の訊問がまとまったとき、「第○回」とナンバリングして、ファイルしたに違いない。そのまとまった綴りの数が8つであったとは限らない。
編集者的な目で見れば、「予審調書」にある「第○回訊問」という数字は、小説 や論文などにおける「第○章」と同程度の意味しかないと思われる。つまり、読みやすさを狙って章立て≠オたとも考えられないではない。
さらについでに言えば、予審判事の質問とされる箇所も、雑誌の記事や書籍になぞらえれば、中見出し≠ニ同様の役割を果たしているもののように思える。 つまり、実際におこなわれた予審判事からの「訊問」の数自体が、「予審調書」と実際の訊問とでは違っている可能性は大いにある。そうした文章の加工作業 を、予審裁判の書記官がやったのか、それとも「予審調書」の刊行者がやったのかは相変わらず不明だが、一部の評論家のように、問いの入れ方が実に的確など と感心するのは、ちょっと早計のような気がする。「予審調書」を扱って文章を書くなら、もう少し「予審調書」の内容に疑いを持ってかかるべきではないか、 と僕などは思う。
◆第六回訊問は本当に11月に聴取されたのか?
新聞報道から類推すると、予審裁判での取り調べは、昭和11年の6月中旬の頭から9月末日まで、ほぼ4ヵ月間を要しているが、その間に8回の調書を作成 したというのは、ペース的に少ないようにも思えるし、恰度よいとも思える。しかし、全体の文章量からしても、もっと多い数の回数で予審調書が作成されたと 見るべきかもしれない。
ところが、訊問の回数を調べていくうちに、奇妙なデータがあるのを見つけた。『昭和十一年の女 阿部定』(田畑書店)の9頁の最終行に、「定は、同十一年十一月に行われた予審の第六回訊問でこういっている」とあったからだ。これを見て本当に驚いた。いったいどこから、そんな情報を得たのか、その根拠は何か、この本にはそれ以上は書いてなかったので、よくわからなかった。
だいたい、予審裁判の時間経過から言えば、予審裁判は既に昭和11年9月30日には終了しているわけだから、それから1ヵ月後の日付で予審調書が作成さ れるはずがないのである。この本に書かれたデータを信じれば、本裁判の直前に、どうしたわけか、あらためて予審調書が取られたことになってしまう。
当初、これは、たぶん勘違いから生まれたものかもしれないと思った。というのは、この本で11月に取られた第六回訊問として引用されている文章は、実は、阿部定が裁判の直前に提出したとされる 上申書と内容的に似ているのだ。ただし、その上申書そのものを掲載した資料を、僕は見つけていない。新聞報道で非常に簡単な梗概を知るだけだ。が、その上 申書と同じ内容が「予審調書」に含まれているとしたら、それこそ切り貼りの証拠ということになる。しかし、いまだにこの日付が本当なのかどうか根拠を見出していない。今後の課題である。
◆最大の切り貼り部分は「出生地」への訊問
データ切り貼り疑惑を懸命に叫んでみても、それはいくぶんか文章の読みようというもので、四角くもなれば丸くもなるという性格を持っている。だから、即座 に否定されても仕方がないくらい説得力に欠けることだろう。しかし、最近、僕は、「予審調書」がデータを構成しなおしたものだという決定的な証拠を「予審 調書」の中についに見つけた。
阿部定の「予審調書」に初めて触れてから10年以上になるのに、これまでなぜ、このことに気づかなかったのか不思議でならないが、実はその証拠は、第一回訊問の冒頭の2行目にあったのだ。すなわち「出生地は」(「別冊新評」版では「出生地」のみ)云々の行である。一見何でもないこの記述は、実は大変な問題を提示している。
まず、この冒頭部分は、いわゆる人定訊問と呼ばれるもので、要するに本人確認のためにおこなわれる形式的な質問だ。大抵の調書でも、また刑事裁判では第一回公判の冒頭で、刑事被告人は、この人定訊問(現在は「人定質問」)を 受ける。そのとき訊かれる内容は、氏名、年齢、本籍、(現)住所、職業といったものである。これ以上の事柄に人定訊問が及ぶことは、あまりないと思う。な ぜなら、今言った事柄が確認できれば、充分にその個人を特定できるからだ。ところが、「予審調書」は、普通なら人定訊問の事柄にはない「出生地」を尋ねて いる。これがおかしいのである。
もう一度、第一章の冒頭付近にある永井荷風の聴取書を見ていただきたい。この聴取書を作成した司法警察官警部××氏は、確かに永井荷風に「出生地」を尋ね ているのだが、それは、賞罰の有無や前科前歴の有無と同じ次元で聞いているのだ。つまり、「出生地」という訊問項目は、無理に調書の冒頭に持ってこなくて もいっこうにかまわないものと考えられる。
そもそも、その人が生まれた場所を問いただすことが、本人確認の足しになるものなのだろうか。筆者は島根県浜田市○○町という、記憶にもほとんどない、た ぶん今では町名のなくなった町で生まれたと戸籍に記載されているが、そのことをもってして、他人に僕が誰であるか特定できるはずはないだろう。
つまり、「出生地は」という訊問は、「予審調書」では冒頭部分にあるために、人定訊問の一つのように素人は誤解してしまうが、本来は、この場所にあるはずのない質問なのである。というよりも、この場所にあっても、正式の調書としては、ほとんど意味がないはずなのだ。
むしろ、この訊問に意味があるとすれば、第二回の訊問以降で、阿部定の幼年時代の環境を問いただしていく際に有効性を持ってくると思う。
もちろん、予審判事は、実際のところ、第二回目以降の訊問で出生地について質問をした可能性があるし、また第一回訊問でその質問をおこなったとしても、そ れはあくまでも補足的な形式的なものだったのだろう。そのときの質問と応答を、「予審調書」の最初の刊行者は、強引にも一番先頭に持ってきた疑いが濃い。
あるいは、「予審調書」の刊行者が編集中に、阿部定の戸籍簿を睨みながら、「出生地は」という訊問を挿入するという奇手を編み出したのかもしれない。事件 の前年に町名変更がされて、阿部定の生まれた新銀町はなくなっている。そのことを知らなかったのか、それとも、こんな場合は戸籍簿どおりにしておけばいい のだろうと漠然と思ったのか。ともあれ、戸籍簿にある「○○で出生」という部分を書き写したのではないだろうか。
◆どうして「出生地」を冒頭に持ってきたか
どうして「予審調書」の刊行者は、そんなことをしたのだろうか。第一に考えられることは、本物の予審調書を漏洩させるにあたって、調書をそのまま刊行する ことが許されず、刊行条件として、通常の調書には必ず記載されている基本データを削除しなければなかったからかもしれない。しかし、そうして調書の冒頭部 分のデータをすべて削除されたのでは、調書らしく見えくなる。そこで、人定訊問としては稀な「出生地は」という質問を冒頭に挿入してしまったのではないだ ろうか。
また、もう一つ考えられることとして、事件当初の新聞には、なんと阿部定が埼玉県生まれと誤解されていたことが挙げられる。その新聞は以下のようだ。
世にも怪奇な変態年増美人阿部さだ(三一)は埼玉県入間郡坂戸町の農家に生れ少女時代早くも両親に死別荏原区上神明町一八無職今尾清太郎の養女となつたが十数年前養家を飛び出し、料理屋の女中奉公を皮切りに新潟、長野、名古屋、東京都転々し或は私娼、或は娼妓、芸妓と花街に淫奔な生活に馴れ、これと見染めた男を口説く技術も全く堂に入つてゐた(昭和11年5月20日付讀賣新聞夕刊)
……という具合に、阿部定を埼玉田舎の農家の生まれにしたばかりでなく、姉の嫁ぎ先の幼女にしてしまっている。さらには、小さい頃に両親と死別したなどと、まさに薄幸の美少女でも演出するかのような噓八百をならべたてているのだ。これでは、阿部定像が、かなり歪んでしまうわけで、「予審調書」の刊行者としては、どうしても「出生地」という項目を「予審調書」に掲載しなければならないと思ったことだろう。
さらに、もう一つの推理としては、ひょっとして、その人定訊問の部分が、絵にならないものであったから削ったという可能性もなくはない。たとえば、『阿部定正伝』(堀ノ内雅一 情報センター出版局)に掲載されている第一回公判の部分を読むと、取り調べに対する阿部定の姿勢が、仄見えてくる。裁判長――被告の名前は。
定――阿部定です。
裁判長――年は。
定――三二です。
裁判長――住所は。
定――わかりません。
裁判長――住所は不定なんだな。
定――本籍は、名古屋市東区千種通り七の七九にあります。
…… となっていて、猟奇事件として興味を抱いている好事家としては、ちょっと迫力に乏しいやりとりになってしまっている。こんな調子のやりとりが、もし予審裁判でも実際におこなわれていたとしたら、それをそのまま掲載したのでは、文字通り読み物にならなかったことだろう。
また、可能性としてあげられるのは、阿部定の個人データが、誇らしいものではなかったということがあげられる。
たとえば、予審裁判終了後の昭和11年9月30日に出された「予審決定書」の冒頭には、阿部定の個人データは、「住所不定無職」 と紹介されている。今でこそ、新聞の三面記事には「住所不定無職」という奇妙な人間が毎日のように登場してくるので、この言葉にわれわれは免疫になってし まっているが、かつての社会では、「住所不定無職」呼ばわりされる人間は、すなわちまっとうな社会から外れたアウトローであり、最も信頼できない、どんな 犯罪でも犯しそうな部類の人間と思われてもしかたがなかった。最初に「予審調書」を刊行した人物には、きっと阿部定に対して何かしらのフリーク的な愛着のようなものを抱いていて、そんなふうにアウトロー的な存在として阿部定を 取り扱いたくなかったのだろう。そこで、住所と職業の項目を削ってしまった。それなら、生年月日や年齢くらいは残してもよさそうなのだが、こちらのほう も削ってしまった。
なぜ、そうしたのか。これはあくまでも僕の勝手な推理でしかないが、僕はこのことに対して「昔々あるところに」という昔話の書き出しを思い浮かべる。つ まり、昭和11年という特異な時代に生きた三十路の女としてではなく、どんな時代にも通じるような女、つまり普遍性の付与≠ニいうことを考えて、年齢や 生年月日を削ったのではないだろうか。
ところが、そうして本籍以外すべて取り去ってしまうと、文章の書き出しとしてはとても淋しくなってしまった。そこで、あえてかなりあとの部分にあった「出生地は」という質問を持ってきて、冒頭部分に貼り付けたのではないだろうか。
もし僕の想像があたっているとしたら、この文章的な演出をするにあたっては、たぶん二つの意味を持たせようとしたのではないかと思う。
一つは、本籍を東京でも生粋の江戸っ子と言われる神田に持つ女が、どうして名古屋に本籍があるのかという謎を、冒頭からいきなり読者に突きつけられるからである。いかなる運命の悪戯で、女は東京は神田のまん真ん中から名古屋くんだり(失礼)まで赴き、そして再び東京に戻ってくるや、愛人殺人を犯しただけでなく、局部まで切断したのか。その尽きせぬ興味津々の謎を、最初のたった2行で象徴的に提示できるのである。
もう一つは考えられることは、冒頭のこのたった2行を読んだだけで、司法当局が、「これは本物の予審調書ではない」と見破れるし、まさかのときには、そう主張して跳ね除けられるからである。
法律の玄人が見れば、きっと、「出生地は」という質問を見ただけで、これは本物ではないということがわかると思う。つまり、これは刊行者が司法当局に対して、「本 物らしく作ってありますが、決して本物ではありません」という暗号サインとして、ポンと置いた1行だったのではないか。だからこそ、『艶恨録』が世に 出たとき、司法当局は、これをわざと「原本通り」などと言いながら、煙に巻いてすまし、秘密を漏洩させた者や、刊行した者を徹底的に探し出して牢屋に放り 込むということをした形跡がなかったのだろう。
第三章「予審調書」の誤りと矛盾を探る
いくつかの「予審調書」を目の前において細かく比較検討していくと、気がつくのは、ある刊行物には存在するセンテンスや言い回し、あるいは単語が、別の刊行物にはないといった現象だ。
最も目立つのは、句読点の有無や改行を施した位置、カギカッコの有無だ。これが「予審調書」によって微妙な部分で食い違っている。さらに、ときには句点で区切ってはいけないと思われる部分でも、句点を付けられていたりする。また、ほ とんどの「予審調書」で一様に欠落している箇所もあれば、特定の「予審調書」だけに欠落している場合もある。
いうなれば、外形的には顔つきはすべて似通っているのだが、それぞれが違った人格や特徴を持っているわけで、まったく同一のものが存在しないという妙な状態になっている。普通の出版物では、こんな奇妙な現象はほとんど起こりえない。それなのに、どうして「予審調書」に限って、そんな現象が起きてしまうのだろう。
もちろん、戦後の出版物では、旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためるのが通例になっている。だから、戦前に刊行されたと見られる「予審調書」が、新仮名遣いや新漢字に改められて刊行されることに異存はない。
だが、そうして新旧の仮名遣いや漢字などを改めて刊行する場合でも、一般の書籍と「予審調書」とでは取り扱い方に差がある。
たとえば戦前に刊行された文学作品を再刊行する場合は、句読点や改行の位置は戦前の原本に即しておこなうというのが、校閲段階での一般原則となっている。 ことに文学作品の場合は、きちんとした出版社なら改行も作品のうちという考え方を持っていて、ページ調整などのためにやむを得ず改行を余儀なくされる場合 でさえ、ためらうことが多い。ところが「予審調書」には、あたかもそんな編集の原則などないかのようにばらばらだ。しかも、ほとんどの「予審調書」が、「原文どおり」とか「原文のま ま」とわざわざ注記しているのに、過去のものと比べると、必ずといっていいほど部分的に異なった文章の処理がされている。
それだけならまだしも、ときには、数段落が欠如していたり、単語やセンテンスが欠落している部分(逆の意味では部分的追加≠ニも言える)が、どの資料にも少なからずある。たとえば、『命削る性愛の女 阿部定〈事件調書全文〉』(コスミックインターナショナル 以下=「命削る」版)では、内容は、他の「予審調書」とほぼ同じで同一性がきわめて高いが、仔細に見ていくと、これまでのどの「予審調書」にもなかった予審判事の質問がいくつか追加されている。
初めてそれを発見したとき、僕などは新発見と小躍りしてしまったが、よく読むと、曖昧にしか根拠が示されていないので、がっかりした。要するに、本文が 長くて息切れしそうなので、休憩場所よろしく中見出しを付け加える感じで、勝手に判事の質問が追加された気がしないでもない。そこで、僕の中では、この本 の資料としての価値は一気に下がった。
また、こんなことを言うのははばかられるが、この本の編集者はたぶん、阿部定事件のことをしっかり把握しないで作業をしたのではないかと思ったりする。たとえば、事件の起きた日付に校正ミスがあったり、「欄間(らんま)」とすべきところを「欄干(らんかん)」 などと誤植している。まさか阿部定が逮捕されるとき泊った旅館の部屋の中に欄干があったはずはないから、単純な校正ミスなのだが、そんなミスがあっても編集者や校正者が気づかないかったのは、結局、歴史や習俗に対する 知識とともに、事件に対する認識の欠如が背景にあったからだと思う。逆に初校で「欄間」と正しくあったのを、「欄干」に直した可能性もあるかもしれない。
そのくせ、歴史的なものへ妙な知識を持っている。たとえば「抱主」が読みにくければ「抱え主」とすればいいのに、わざわざ「抱い主」と改めている。「予審調書」から事件を正確に見ていこうとする者にとって、そういう認識の仕方で編集されてはちょっと困る気もする。
文中にカギカッコ(「 」)をやたらに施すようになったのも、最近の「予審調書」の特徴である。これが、「訊問事項」版のように、年代的にやや古い刊行 物になると、会話文ですらカギカッコの代わりに「、」を入れて処理している。このことから、文中に「、」などで処理されている会話文があったら、 それはもともとの予審調書にあった処理の仕方を踏襲していると類推できる。
総じて、どの「予審調書」も、第二回訊問までは、会話文の文章ですらもカギカッコがあまり施されていないが、第三回訊問くらいから、やたらに増えてくる。
固有名詞にカギカッコを施すのは、まだしも許せるし、間違ってカギカッコを追加する確率も低いと思えるが、会話文になると、この事情がちょっと変わってく る。センテンスのどの部分までカギカッコに入れるかという判断が難しい箇所が「予審調書」にはいくつもあって、そのために刊行物によって、カギカッコを施 した位置がまちまちになっている場合もある。この事情は、たとえば樋口一葉などの明治時代の小説にもいえることで、過去の時代には、句読点をあまりほどこさない文章の処理がされているため、これを現代風の文章処理にするには、かなりの知識と熟練を必要とする。
無論、カギカッコの付与は、読者に対して読みやすさを提供したいという編集者の親切心のあらわれなのだろう。だが、もともとの本物の調書が、そんなふうに 読む者に親切な配慮を施すとは思えない。そして、調書を書く人間は、文章を書いて生活しているわけではないから、用字用語の間違いはあるのが当然だし、文 法の間違いもしばしばある。それを、すべて改めるのは、確かに出版の良心の発露といえるが、そのために「予審調書」が、もとの姿からどんどん遠ざかってい くのは、「予審調書」に本格的に取り組もうとする人間にとっては、残念なことだ。それでも、もともとしっかりした資料ならば、そんなふうにやたらにカギカッコなどの約物(やくもの。出版・印刷用語)を 施したり、文法の間違いや、用語の統一をはかったりなど文章をいじりまわすことないはずだ。なぜなら、本来は、原本は一つしか存在しないはずで、それに忠 実に合わせていくことが刊行者の使命のようなものであり、次の世代に正確に伝えていくためには、他人の創作物や著作物に手を加えるなど、出版の良心に反す ることだからである。だから、その出版の良心があるかぎり、どんなに時間が経とうと、必ずや同じものが再生産されていくはずである。
ところが、「予審調書」は、そんなふうには再生産されていない。次に現れるときは、必ずといっていいほど違った姿をした文章になっている。そこが、ある意味で「予審調書」という代物の特徴でもある。
◆人名や固有名詞に事実と合わないものが存在する
ところで、「予審調書」の信憑性に赤信号をともすために、どのような証明をすればいいのかを、考えてみた。そこで思いついたのが、「予審調書」に記載されていることと事実が相違していることを証明すればいいということだった。
手っ取り早い話が、たとえば「予審調書」に登場する人名が、事実と合わないものであることがきちんと証明できれば、「予審調書」が真正の調書ではなく、刊 行者や編集者によって加工されたものであることが証明できると思ったのだ。もちろん、その際には、仮名とうたってある人名は除外することにした。
そこでいくつかの「予審調書」を引き比べながら、登場する人物名をリストアップし、一つ一つ当時の新聞などの資料と照らし合わせていった。すると、いくつかの人名が候補にあがってきた。
一例目は、阿部定の父親の名前である。これについては、仮名とうたっているものを除いて、現在、一般的に流通している「予審調書」のいくつかに、当時の新聞報道などとは異なる氏名が記載されている。
実は、これは僕が最初に気づいたことではなく、既に『昭和十一年の女 阿部定』(田畑書店 以下=「昭和11年の女」版)の著者(共著なので、その部分を誰が書いたかわからない)が指摘していることだ。つまり「予審調書」には「阿部金吾」とあるのだが、戸籍名は「阿部重吉」とあるのはどうしたわけかという疑問だ。
そこで「昭和11年 の女」版の著者は、「予審調書」に載っている名前のほうを「通称だったのかもしれない」と推量している。しかし、それは単なる思いつきの範囲にとどまって いるようで、通称であるという証拠は特には提示されていない。僕自身も、それが通称であったという証拠は摑めていない。
ただ、考えるに、「予審調書」に載っているほうの氏名は、たぶん通称ではなく、仮名ではないだろうか。つまり、どこかの時点で仮名処理されたものではないか。
先程いったように、「予審調書」には別バージョンが存在するわけだが、その別バージョンは一種類だけとは限らないように思う。「予審調書」が地下深く流通 していったという事情を考えるなら、いくつものバージョンが存在していても不思議ではない。要するに、まず「被告人」という文字列の有無で、「被告人あ り」バージョンと「被告人なし」バージョンとに分岐したが、その「被告人あり」バージョンが、さらに「父親氏名仮名バージョン」と、「父親氏名戸籍名バー ジョン」とに分岐したのではないかと思う。
実際、いくつかの「予審調書」を読み比べていくと、「仮名を使用した」と断っているもの以外は、本名つまり戸籍名と思われる氏名を掲載しているバージョンと、戸籍名と異なる名前(たとえば「阿部金吾」など)を掲載しているバージョンが存在することを確認している。
すると、たぶん、「予審調書」があちこちに散らばりながら伝播していく途中のどこかの時点で誰かの手によって改編されたものを、「昭和11年の女」版が底本にした可能性がある。
二例目として挙げたい人物名は、被害者の石田吉蔵の妻の名前だ。これについては、伊佐千尋の『愛するがゆえに 阿部定の愛と性』(文春文庫 以下=「愛するがゆえに」版)をはじめ、ほとんどの「予審調書」で、妻の名前は「オトク(おトク)」となっていて、その意味ではどの「予審調書」でも統一されており、仮名処理されることがほとんどない。
だが、この妻の氏名について、事件当初の新聞報道を調べると、「と×子」というまったく別の名前が掲載してあることに気づいた。新聞に載ったその名前がもし本名だとすると、そこから類推できるこの女性の愛称は、「オトク」とは若干異なってくる。
当時は、身近であったり親しい女性に対して、たとえば、「久仁子」なら、名前を二文字に縮めたうえで、頭に軽い尊称である「お(於、阿)」をつけて「オク ニ(おクニ)」といったふうに呼んでいたわけで、新聞報道のほうを誤植でないと信じれば、「オト×」とならなければならない。
ところが、この「と× 子」報道があった少しあとの別の新聞の記事を見ると、彼女の名前は、やはり「とく」となっていた。これなら「予審調書」と矛盾は生じない。だが、「とく」 のほうは、通称か源氏名とも考えられるわけで、そのあたりに関しては、確定的なことはまだ言えないでいる。
今挙げた二つの登場人物名と並んで、これも白黒つけがたい灰色ゾーンにある人名が、阿部定と関係の深かった遠縁の稲葉氏(『阿部定正伝』、ウィキペディア、伊佐千尋の本では「秋葉氏」と仮名)の下の名前だ。
これについて混乱することには、事件の当初に一度だけ新聞に出た氏名と、「予審調書」にある氏名とは漢字が異なっていて、あとはほとんど「周旋屋(稲葉)」とあるだけで下の名前がわからず、どれが本名なのか確認できていない。ただし、『どてら裁判』にあ る判決文では、「予審調書」と同名になっているので、これが本名と思われるが、この本の別の箇所では「○○○○」と伏字になっていて、ひょっとして判決文は仮名かもしれないなどと、これまた迷ってしまう。
最初に新聞に出た氏名のほうが誤植か、あるいは取材時に生じた間違いなのか、それとも資料集として掲載した本の誤植なのか、さまざまな憶測が浮かぶが、これについてもまだ確定できていない。
しかし、今挙げた三つの氏名とは違って、かなりはっきりと仮名のほうに磁針がぶれている登場人物名がある。それは、稲葉氏宅に同居していて、阿部定が残した3通の遺書のうちの1通の宛名人となった知人女性(稲葉氏の妻と紹介されているが、姓が違うので法律上の妻ではなく、内妻としている新聞もある)の下の名前だ。
これらの新聞報道にある漢字名とひらがな名の間には矛盾がないことから、たぶん新聞報道のほうが正しいと思われる。すると、「予審調書」にある彼女の氏名のほうが仮名である可能性が高くなってくる。
ところが、この女性の名前をさらに仮名にしている「予審調書」もいくつかある。それは「予審調書」にある名前が実名だと判断したからだろう。しかし、も し「予審調書」のほうが仮名がだったなら、屋上屋を架すことになって、おかしなことになってしまう。ともあれ、この女性名が仮名であると証明できれば、 「予審調書」が加工されたことの証拠になるわけで、今後も引き続き調査を続けていきたい。
◆「芸妓山子さん」に関する深まる謎
「予審調書」には、どうしても解けない謎の名前がある。第四回訊問にある「芸妓山子さん」という名前だ。この「山子」という名前が、なんとも奇妙で、かなり前から気になっていた。
ここ記述をもう一度、紹介すると、昭和11年4月27日、つまり同年4月23日に阿部定と石田吉蔵が愛の逃避行を始めてから4日目、懐具合が淋しくなったため、阿部定は名古屋の大宮氏に金を貰いに行こうと思いつく。そして、その日の午前7時頃に、流連していた二子玉川の「田川」を出て、「知合の浅草区柳橋の芸妓屋『歌の家』方芸妓山さんを訪ね十円借りて」旅費にするという次第だ。
まず、この「芸妓山子さん」という部分は、3つのグループに分かれる。一つは、「ドキュメント日本人」版をはじめとする大多数の「予審調書」が採用している「芸妓山子さん」。第二が、「昭和11年の女」版と『阿部定伝説』(七北数人編 ちくま文庫)にある「予審調書」(以下=「七北数人版」)にある、「芸妓山子きん」、そして「別冊新評」版の「芸妓山ふきん」だ。
どれをとっても納得がいかないことでは同じだが、ともあれ、「芸妓山」まではどの資料も同じなので、一応、この3字までは確定するとしよう。問題はその後ろにある3文字だ。
これについて、僕はいろいろな推理を働かせてきたが、最近、もう一つの解答があることに気づいた。その推理には、第二回訊問にある「その当時は『春子』といふ芸名で稼いで居りました」というセンテンスからである。この「春子」という源氏名がヒントになった。
関東大震災のあと、阿部定は稲葉氏の家族と一緒に富山市清水町の「平安楼」に移る。このとき阿部定は19歳だったが、「予審調書」にある「春子」という源氏名は、当時の新聞によると「春治」の誤りとされている(昭和11年5月23日付北陸日々新聞)。ただし、別の新聞では、「十八、九のころ富山市清水町の上田樓で『春次』と名乘つて左褄をとつてゐた」(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)とあって、「春次」という書き方もあったようである。同じ日付の違う新聞が、同様の情報を載せているのは興味深い。ちなみに、「上田楼」という名称は、平安楼の抱主であった上田某氏の名前を屋号として記載したものと思われ、「春治」と「春次」の違いは、電話取材あるいは電話送稿による誤解と思われるが、やはり、現地の新聞のほうが確かだろうとは思う。
そこで生じてくる問題は、実際は「春治(春次)」なのに、どうして「予審調書」には「春子」となっているのかということだ。阿部定の記憶違いをそのまま調書に記したと言ってしまえばそれまでだが、これはあまり可能性がないと思っている。
だいたい、新聞が報道したのは、警察で阿部定が「平安楼」にいたことを自供したのを、新聞記者が摑んだから取材して記事にしたのだろう。それも同日の別の新聞が同じような情報を載せているのだから、逮捕後すぐに、その供述を得られたということになる。それに、「予審調書」の他の箇所では、自分の源氏名に関してほとんど記憶違いがないのに、この箇所だけ記憶違いをするというのもおかしな話である。
そこで生まれてくる推測は、この「春子」という部分は、やはり阿部定が「春治(はるじ)」と供述したことがそのまま書かれていたのではないかということだ。ただし、本物の予審調書では、「春ぢ(春ち、はるぢ、はるち)」という具合に「治(次)」の部分が「ぢ」あるいは「ち」となっていたのではないかと思う。つまり、本物の予審調書を取ったとき、漢字まではわからなかったので、かなで記したのだ。その場合、かつては濁点を略すことも多かったので、手書き文字で「春ち」となっていた可能性も高い。
崩し字で書いたとき、ひらがなの「ち()」と、「子(
)」は、やや似ているものの少し違う。しかし、「古(
)」と比べると、よく似ている。すると、本物の予審調書を書き写す際に、「ち」を「古」に読み間違えた可能性が出てくる。「古」は、変体がなでは「こ」だから、「春こ」ではおかしいと考えて「子」の字を当てたのではないだろうか。あとで詳しく触れるが、もともと「予審調書」の刊行者は、変体がなの「
」を「まさき」とせず「満左喜」と書いたくらいの人間だから、変体がなにちょっと弱かったのではないかとも思われる。
すると、先程の「芸妓山子さん」の謎も解けてくる。まず「芸妓山子きん」の「きん」は「さん」の読み違いによる誤植としておいて、「山子」の部分は「山ち()」だった可能性がある。つまり、「山治」あるいは「山次」という名前を書いたのではなかろうか。すると「芸妓山治(山次)さん」となるわけで、これなら、かなり源氏名としてすっきりくるような気がするが、どうだろうか。
◆略称や通称が混在している屋号
今言ったように、「予審調書」に登場する人名には、何かしらの謎が多い。そうした謎は、実は人名だけにとどまっていなくて、固有名詞や地名の扱い方にまで及んでいる。
ひとつは、阿部定が転々とした各地のさまざまな芸妓屋や小料理屋の屋号、あるいはその地名、そして愛人の大宮五郎氏や、被害者の石田吉蔵との媾曳などで利 用した旅館の屋号、阿部定が愛の逃避行中、さらには犯行後の逃走中にさまざまなものを買った店の屋号なども、新聞報道や、古い地名などを調べた結果では、 微妙に食い違っているものがあることだ。
たとえば、阿部定が芸妓時代に身をおいた「御園楼」は、新聞報道と照らし合わせると、頭の一文字違う。が、これは新聞報道ほうの誤植かもしれず、現在調査を続行中だ。
また、阿部定がまだ十代のときに、「春新美濃」から横浜の芸妓屋「川茂中」に住み替えているが、この「川茂中」のあった場所として紹介されている横浜の「神奈川区春木町」という住所は、調べてみても発見できなかった。そのかわり「青木町(あおきちょう)」という町名は存在するので、たぶん「青木町」の単純な誤植と思われる。ところが、どうしたわけかどの「予審調書」も、これを疑いもせず、ずっと誤植を踏襲し続けているし、そのことに言及した評論や評伝も見かけない。
さらに言えば、場所の説明から考えると、たぶん同じと思われる旅館が、「予審調書」ではかひらがな名と漢字名を混在させている。つまり「緑屋」と「みどり 屋」の混在だ。これに対して、これまで刊行された「予審調書」では、いずれもそのままにしてあり、修正や校註を加えた様子がない。
とは言え、実際問題として、原稿を書く際には、地名をはじめ、社名や屋号を扱うのは結構骨が折れる作業でもある。現代でも一般的な用語では「チェイン」と するところを、その企業にかぎって「チエイン」としなければならなかったり、「鉄」ではなく「鐵」を使わなければならないとか、「キヤノン」「キユー ピー」などと混同しやすい名称などもあって、そんな事情を知らない記者が原稿を書くと間違いをおかしてしまう。
また、今でも当時でも、正式な屋号と通称とではかなり違っている場合も多いようだ。たとえば、事件の舞台となった待合「満左喜」は、加盟していた尾久三業組合では「正木屋」という屋号で登録してあったらしい。
ちなみに、事件現場となったこの待合の名称について、「満左喜」と書く人もいれば、「満佐喜」と書く人もいて、いったいどちらが正しいのか困惑する人もい るだろうが、実際は、この漢字は変体がな≠ニ呼ばれる漢字の崩し字で、江戸時代の古文書などにも書かれているものと同じものだ。古文書を出版や報道など で活字にするときは、ひらがなを当てて書き直すのが通例となっている。したがって、原稿に書く場合は「まさき」と書くのが正式と思われる。
伊佐 千尋の「愛するがゆえに」版は、さすがにそのことをわかっていたのか、文中では「まさき」という表記を採用している。もっと言えば、当時の新聞は、当初か ら「まさき」「まさき家」と報道している。そのことを考えると、まさに隔世の感を覚える。事件当時は、「満左喜」と書かれた看板を見て、記者たちはたぶん 迷うことなく「まさき」と報じたのだろう。一目見て、これは変体がなだから、記事はひらがなで書くべきだということがひらめいたと思う。その点、戦後生ま れのわれわれは、変体がなの存在すら知らない。もう一つトリビアを付け加えると、阿部定裁判で裁判長をつとめた細谷啓次郎は、凝り性なのか生真面目なのかわからないが、『どてら裁判』(森脇文庫)の 中で、この変体がなを、わざわざ活字を拾わせて、本文中にはめ込んでいる。しかも「判決文の原文を示す」として紹介している判決文には、変体がなを組み込 んでさえいるので、本物の判決文も、その部分は変体がなで書かれていたのだろう。細谷啓次郎は、正確を期したかったのか。
だが、「予審調書」の最初の刊行者も、たぶん、これを変体がなで印刷したかったに違いないが、そもそも安価な印刷費ですむ簡易製本を選んでいるのだから、本文活字(ほんもんかつじ)の 中に変体がなを組み込むと費用が嵩みすぎる。たぶん戦前でも変体がなの活字は特注か、あるいは凸版を作ってはめ込むしか手がなかったことと思う。そこでや むなく普通の漢字活字で「満左喜」と印刷するしかなかったのかもしれない。だが、そのために、「満左喜」か「満佐喜」かという、現代人の困惑を生むことに もなったのだ。![]()
勢いついでに、さらにトリビアを重ねると、変体がなにおいて、ひらがなの「ま」を指す漢字の崩し字は「萬」「眞」「間」などさまざまあるが、「滿」を崩したものもある。
「さ」は普通は「左」を崩したものだが、「佐」の崩し字は手元の簡便な資料では「さ」の項には見当たらない。東京大学史料編纂所データベースで「佐」の崩し字を見ても、人偏が省略されず、「さ」とはちょっと遠いかたちに見える。
「き」を指す漢字もさまざまあるが、「喜(本来は七を三つ組み合わせた漢字)」もその一つなので、「まさき」を無理に漢字で書くとすれば「満左喜」とするのが正解かもしれない。ところで、細谷啓次郎がなぜ、「まさき」の変体がなを正確に知っていたのか。それはやはり予審調書に書かれていたものを目にしたからだろうと思う。つま り、たぶん本物の調書には、全頁にわたって変体がなが使われていた可能性が高いと思っている。でなければ、細谷啓次郎が、『どてら裁判』に所収の判決文に まで、わざわざ変体がなを組み込むわけがない。手書きの調書なら、変体がなを書くくらいは、簡単にできる。
◆屋号の間違いから見えてきたもの
それはともあれ、「予審調書」では、どんな理由かは不明だが、やたらに屋号を端折ったり略してある箇所が目立つ。同じ旅館名であるはずなのに、「○○館」 と「○○旅館」が同時に混在しているときもある。それが、読む人に混乱を生じさせる原因にもなっている。略されると「明治屋」も「明治座」も「明治屋旅 館」もすべて同じに見えてきて、いったいどこのことを差しているのかと、戸惑うこともある。
しかも、たぶん神田にある同じ旅館であるはずなのに、片や「万代館(萬代館)」、片や「万成館(萬成館)」と屋号の一部が違った漢字で書かれている箇所が 一つだけある「予審調書」がある。この場合、「予審調書」にある表記の流れからいけば「万成館」のほうが誤植と思われる。たぶん、万世橋(まんせいばし。萬世橋)という場所が神田にあるので、それと混同してしまったのだろう。
ただ、それだけならまだしも、この旅館名は、実は新聞で報道された屋号と比べると、もともと漢字が一字欠落している。つまり新聞にあるのは、「万代×旅館」という名前なのだが、それが略されているのだ。
新聞に載ったほうの旅館名が、実名だとしたら、これは「予審調書」を刊行する際に起きた誤植だと思われる。また、阿部定が包丁を買った金物屋の屋号も、新聞報道とは漢字が1字違っている。これも、予審調書を書き写した人間が読み違えたか、仮名にしたかのどちらかだろう。しかし、こうした誤記・誤植があっても、本物の調書と引き比べることができないために、どの時点で発生したのか特定するのがむずかしい。とはいえ、中には、その刊行物だけにある、 明らかな校正ミスも含まれているわけだから、それらを排除していけば、ストレートに本物の調書の記述状態にはたどり着けないとし ても、一番最初に刊行された「予審調書」の誤植や誤記にたどり着ける可能性がある。あるいは、そこから推理や推論を働かせて、本物の予審調書の記述状態 にたどり着ける可能性もあるかもしれない。
そうした発想から、僕は次に固有名詞の誤記・誤植を追うことにした。すると、ちょっと面白いことを発見した。それは、どうも当時の警察や検察は、詳しい裏づけ捜査もせずに、阿部定の供述どおりに、急いで調書を作ったような感じがしてきたことである。
たとえば、第六回訊問に、阿部定が逃走中に立ち寄った店として、上野の「小野古着屋」(小野古着店、小野古衣店)という名前の店が出てくる。実は、この店の正式な屋号は、調書にある屋号とはまったく違うものである。その根拠は、当時の新聞に「それから円タクに乗換へて午前九時半ごろかねて知り合ひの下谷区上野町二ノ××古着田中第三分店こと小野××方に現はれ」(昭和11年5月20日付讀賣新聞夕刊。×印は筆者)とあるからだ。つまりこの店の屋号は、普通は「田中第三分店」と呼ぶべきであり、たぶん看板にもそのような文字が書かれていた可能性がある。だから、新聞記者が即座にそう書いたのだろう。
しかも、この屋号については、仮名処理された可能性が低い。なぜなら、「予審調書」には「小野」という本名が掲載されていて、新聞報道もそうなっているの だから、仮名にする意味がないこと、そして阿部定が立ち寄ったもう一つの新橋の古着屋のほうは、ちゃんと実名になっているからだ。
なぜ、「田中第三分店」という屋号を持つ古着屋が、「小野古着屋」のままで、今日まで捨て置かれてしまったのだろうか。この謎を解くためには、まず阿部定がこの店の店主である小野氏と顔見知りだったという事情を頭に入れておく必要がある。
そこで、小説的に大胆な推理を働かせると、たぶん、予審訊問の際に、阿部定がこんな供述の仕方をしたのではないかと想像している。
判事「上野の松坂屋で円タクを乗り捨ててからの行動は?」
定「それから、古着屋の小野さんのところに寄りました」
判事「小野古着屋だな」
定「そうです。小野さんのお店です」
この会話から、書記官は、その店が「小野古着屋」という屋号であると勘違いして、その名前を予審調書に記録したのではなかろうか。
しかし、阿部定としては、そんなつもりはなく、かねてから顔見知りの店主の名前を出して、その店を紹介しただけで、別に屋号を供述したわけではなかったと思う。それを予審判事のほうが、勝手に屋号と思い込んでしまったのではないか。
もともと、ちょっと考えれば、「小野古着屋」などという名称が、屋号として少しばかり適当でないことはわかるはずである。曖昧のように思えたら、一部の新聞のように「古着屋の小野方」とでもすればよかったわけだが、予審判事はそうしなかった。だが、そんな小さな食い違いくらいなら、警察が裏付け捜査をすれば、簡単にわかることである。事件直後に新聞記者が店名を書いているくらいだから、警察な らもっと早くわかるはずである。だが、20日間も警視庁が捜査し、そのあと4ヵ月も予審裁判をおこなっておきながら、なぜ「小野古着屋」という屋号が生き 残ってしまったのか。
結局、当時の捜査や取り調べが杜撰だったとしか言いようがない。実際、当時の捜査はかなり杜撰だったことがうかがわれる。というのも、阿部定が逮捕された当時の新聞にはこんなことが書いてあるからだ。
犯人阿部定は取調べ終了次第殺人並に死體損壊罪送局する筈で切斷した局所はアルコール漬にして寫眞を撮り他の證據品とゝもに裁判所に送ることゝなつた。定の犯行に對しては實地檢證の必要もなく、特に同人の精神鑑定を行はず送局する筈である。(昭和11年5月22日付讀賣新聞夕刊。傍線及び太字は筆者。以下も同様)
ここにあるように、当時の警察は実地検証の必要さえ考えていないという姿勢で、この事件の捜査にあたっていた可能性がある。怠惰というか、楽観的というか、ともかく杜撰な裏付け捜査をしていた可能性があるのだ。別の章で阿部定が芸妓のときに客の金を100円盗んだとあるが、公判ではそれが98円に訂正されている。これは裏付け捜査の結果というよりは、全国の警察に彼女の逮捕歴などを照会して判明したことと思われるので、しっかり裏付け捜査をしなくても、それくらいの事実は探り出せる。
とはいえ、新聞に「田中第三分店」という名前が掲載されたのは、警察の情報があったからだろう。つまり、警察はこの店の正式名を知っていたはずである。それなのに、なぜ「予審調書」には「小野古着屋」などという曖昧な屋号が記されているのだろうか。予審で取り調べにあたったのは、正田光治(名前の読みは不明)という予審判事であったことが知られている。孫引きになるが、森長英三郎の『史談裁判』には、法律新聞四〇四一号に掲載された正田予審判事の文章が載っている。それによると正田判事は阿部定について、
普通一般の商売女にあり勝ちな極めて洗練された態度を有する女に過ぎず、時には涙を流して語るやさしさもあり、入退廷には必ずいんぎんに会釈し、通常人と少しも変わらぬ動作であった。ただ心のうつり変りが多くて、取扱が気にいらないと、妙にすねる点があった
……と語っている。正田予審判事は、阿部定の取り調べにはかなり苦労したようだ。それを示すもう一つの証言が、阿部定の弁護を最初に引き受けた太田金次郎弁護士が、こんなことを言っている。
一世の妖女お定も亦御他聞に洩れざる感情的にして情緒的な女である。僕が始めてお定と面会をしたのは九月十九日で予審終結決定の十日前であった。
当時は未だ接見禁止中であったので、正田予審判事に面会を求め接見許可の申請をした。其時予審判事は、快く「許可してあげましょう。而し、お定に叱られない様に用心しなさい」と云う親切なる忠告があった。(「阿部定と語る」太田金次郎 『阿部定伝説』七北数人編 ちくま文庫)
正田 判事は、猟奇事件の犯罪者だから特殊な人間だろうと考えていたのだろうか。そんな姿勢で臨んだために、阿部定に拗ねられて困ったに違いない。そして、拗ねら れた挙句、深く追及することができず、「田中第三分店」を「小野古着屋」などといい加減に処理してしまったのかもしれない。
このように、たった一つの怪しい屋号の追求から、どんどん推理が発展していくわけで、まさに言葉というものは魔力を持っていると改めて思う。物書きや記者や、編集者、校正者 は、その魔力を持った言葉を扱っている。だからこそ、「予審調書」にある屋号ひとつといえども、おろそかにできないと思うのだ。◆言葉の欠落が生む事件への誤解
誤植や誤記については、すぐに気がつくことができるものもあって、阿部定事件に関する知識があまりない人でも比較的容易に誰でも発見できる。しかし、ちょっとした文字列の欠落や、センテンスの脱落は、なか なか気づくことがない。これは僕が校正作業で、さんざん経験してきたことだ。最近は、オペレーターの処理の問題もあるが、オーバーフローといって、テキス トボックスなどからあふれた文字が、紙面から消えてしまうということが、校正の現場ではしばしば起きる。
それでも文章が中途半端に切れているときは、欠落しているのを発見しやすいが、欠落していても意味が通る文章になっている場合は、欠落そのものを発見す るのがきわめて難しい。そうした欠落を防ぐには、元になる資料や原稿と、一字一字照合していくしかない。あと頼れるのは文章に対する勘である。そうした欠 落が何箇所か「予審調書」にあるために、この事件がやや誤解されかねない場合も出てくる。
たとえば第四回訊問に「私が吉田屋に住み込む時は給金は三十円迄保証するとの事でしたが、実際はチップが四十円位頂けました」という阿部定の供述がある。これまで、この記述をそのまま信じて疑わなかった。
ところが、公判の様子を伝えた新聞報道を読み直しているうちに、妙な記事があることに気づいた。そこには、「お定が吉田家の女中としての生活及び月四十円の収入のあつたこと等を明かにしてから」(昭和11年11月26日付時事新報)とあったのだ。
「予審調書」を読んだだけでは、30円+40円=70円の月収があったと思ってしまう。かつて月100円の収入を求めていた阿部定としては、希望額にはやや下回るものの、それほど不満を抱くことがなかったろうと考えてしまう。
しかし、新聞報道を信じるなら、実際に阿部定が吉田屋の仕事で得ていた月収は40円だった可能性がある。つまり、この部分は、たぶん「実際はチップがあり四十円位頂けました」と書くべきところを、「あり」が脱落したのではないかとも思われる。その言い方のほうが、言葉としてすっきりくる。つまり本物の調書を書き写した人間が「あり」を書き落とした可能性がある。こうしたちょっとした文字の脱落箇所が、ほとんどすべての「予審調書」に及んでいる可能性があるので、始末が悪い。
昭和10年の大学卒の初任給は90円程度だったようだから、40円という月収は決して高いとは言えず、むしろ女性とすればやや低いくらいのランクだろう。しかし、それでも阿部定は吉田屋に勤めていた(もっとも5月いっぱいでやめようとはしていた)わけだが、その事実から感じ取れることは、金に汚い妖婦という像ではなく、自分で店を持つために修業している健気な女という像だ。このように、たった2文字の欠落が、そんなにも阿部定のイメージを変えてしまうのだから、再び言うが、言葉は魔物だ。
ついでながら、言葉の問題に関して、これは屋号ではないが、被害者の石田吉蔵が経営していた店は、当時の新聞報道では「料理屋」あるいは「料理店」と なっているが、「予審調書」や「予審決定書」「判決文」では、「割烹店」あるいは「割烹業」となっている。しかし、別の資料を見ると、この店の実態は「鰻 屋」だったという。
どの名称を採用しようと、営業実態としては同じことなのかもしれないとは思うものの、これは決して職業の貴賎意識から言うのではないが、その名称からくる イメージは、それぞれかなり違ってくると思う。鰻屋の店主石田吉蔵が殺害されたのと、割烹店の石田吉蔵が殺されたのとでは、事件のイメージがいささか違っ てこざるを得ない。
根性悪の僕としては、きっと、司法は被害者である石田吉蔵の肩を持っていたので、「割烹店」としたのではないかと、邪推したりする。もちろん、被害者なの だから、肩を持つのは大いに結構なことだが、一方の加害者のほうの阿部定の交友関係についての説明と、落差がありすぎるのが気にかかる。「淫売屋」のだれ それなどと記載してはばからないのだ。
まさか「淫売屋」などという看板を玄関に正々堂々と掲げている人間は皆無だろう。そこには必ず「○○屋」などといった屋号なりあることだろうし、屋号がな くても表立っては何らかの名称を用いて商売をしているはずだ。その通称を紹介すればいいわけで、ストレートに役人言葉で「淫売屋」とすのは、現代の人間と しては抵抗を感じる。まあそれも、時代の違いと言ってしまえば、それまでだ。
◆誤植や誤記を呼びやすい「予審調書」の文体
だいたい、「予審調書」という代物は、ある意味で校閲者泣かせの文体になっている。たとえば、「為」があったかと思うと「為め」もある。「其」があるかと 思えば「夫れ」もある。カタカナで書いてあると思えば、ずっと後半になると平仮名になっている。「しまう」と書いた次には「了う」となっている。改行も句 読点も少なく、読むリズムが摑めないなど、一箇所たりとも息を抜けない難物である。
加えて、「〜所(処)が〜」といった表記がやたらに登場する。これに句読点を施そうとすると、注意しないと施す位置によって、かなり意味が違ってくる。 「〜所(処)が、〜」なら「〜していたところに」という意味になるが、「〜。所(処)が〜」とすると、「〜していましたが、しかし」というように逆説的な 表現になってしまう。「ところが」という言葉は、「前句に示される事柄は、後句における事柄に発展するきっかけとなることもあり、また逆に、期待に反して 好ましくない結果を引き起こすこともある」(学研国語大辞典)と辞書にもあるように、どこに入るかで意味が変わる難物ことばの一つである。それが、どちらにしてよいのか、どうにも判断がつかない部分も多々ある。この使い分けを正確におこなうには、経験の少ない校閲者や編集者では、まず無理だろう。
もともと、編集者や校閲者という人種は、間違っている言葉を正すのは得意としているが、間違っているものを、そのままにしておくということが案外苦手であ る。実際、あるがまま、そのとおりにというのが、実は校閲作業では一番難しい。難しいというのは、作業的にもそうだし、心理的にも抵抗があるということで ある。
間違っているものを、そこにあるままの間違いどおりに、正しく紙面に反映させるという作業は、編集者や校閲者の基本的姿勢に反するところがある。が、本来は、そうしたことができてこそ、本当の編集者や校閲者なのだ。
が、普通の編集者や校閲者は、そこでどうしても何らかの手を入れたくなる。その欲望を抑えがたいものがある。が、そうした過酷とも言えるルーチンワークに 徹することができなければ、「予審調書」の書き写しや出版はできないのである。それができない人が多かったからこそ、今ある「予審調書」には、誤植や脱落 が多いのだろう。
そのためかどうか、どの「予審調書」も、ほとんど例外なく誤字脱字と誤記の山を築いてきたようだ。たとえば、中央公論社にしても、田畑書店にしても、学藝 書林にしても、しっかりした編集姿勢を持つ信頼の置ける出版社であるが、それでも、こと「予審調書」に関するかぎり、誤字脱字から完全には脱却できていな い。
◆誤植と誤記の比較分類から妙なものが見えてきた
そんなことをつらつら考えていくうちに、もともとの調書は、どんな文体で書かれ、そして、どんな誤字や誤記があったのかを知りたくなった。
もともと調書には、というより文書というものはおしなべて誤字が付き物とも言える。それは手書きの限界とも言える。ことに「予審調書」のような長文の調書 ともなれば、書くだけでも注意力を持続させることは難しいし、書き写すのもかなりの忍耐を要する。だから、おおもとの調書にも、数々の誤字脱字や欠落、あ るいは誤記があったと思われる。
そのおおもとの調書にあったところの誤字脱字や誤記などを見つけることができれば、調書を取った人間の思考の仕方や、当時の司法が調書でどんなふうな文章表現を使っていたかといったことがわかるのではないかと思った。
そこで、一度、どの資料でどんな誤字や誤記がされているかを比較してみようという考えが起きてきた。そうすれば、「予審調書」について、新たな視点が開けてくるのではないかという思ったのだ。
そこで、試しに作ってみたのが、この章の末にある「資料別誤植・誤記一覧表」だ。ある意味で根性悪な姿勢から生まれたリストだが、こうしてリストを作成してみると、いろいろなことが見えてきた。
まず、「予審調書」を、一定のグループに分けられる可能性があるということがわかってきた。たとえば、同じ誤字や誤記を継承している可能性があるものが区 分けできる。すると、その「予審調書」は、ほぼ同じ資料をもとにして刊行されたものであると類推できる。いわば、同じ流通(流出)経路に属す同バージョンである。
そうしてバージョンの分類ということを頭に入れながら作業に取りかかってみると、さらに、これまで見えなかったさまざまな収穫があった。たぶん、ほとんどの人が考えてもみなかったような仮説に達することができたと思っている。
僕が得た仮説がどんなものであったかは、あとに譲るとして、まず「予審調書」に見られる誤植や誤記は、二つのタイプに分けることができる。一つは、その刊行物で個別的(限定的)に発生したもの(これを仮に「A類」と呼ぶ)である。簡単に言えば、その刊行物を編集する段階で編集者や校正者の注意力不足や力量不足から発生したものだ。
もう一つは、参考にした資料に。その誤記や誤植が存在していたのを知らずに、あるいは原稿に忠実にという姿勢から、無意識あるいは意識しながらもそのまま受け継いでしまったもの(これを仮に「B類」と呼ぶ)である。
このことに関連して、僕が勝手に名づけた二つのキーワードがある。一つは「騎下駄」問題≠ナあり、もう一つは「二人多摩川」問題≠ナある。
「騎下駄」問題≠ヘ、『ドキュメント日本人第10巻』の「阿部定事件予審調書」(以下=「ドキュメント日本人」版)の第六回訊問にあって、「上野で買つた騎下駄がきつくて足が痛かつたものですから」としている部分だ。
これはたぶん「駒下駄」の誤植、つまりA類に属する単純な校正ミスであろう。つまり、印刷する際に、植字工が手書き文字の「駒」を「騎」と読み間違えて活字を拾ったのを校正者が見落としたものだろう。
その証拠に、「ドキュメント日本人」版以外は、「上野で買つた駒下駄はきつくて足が痛かつたもので」(「公判記録」版)と、ちゃんと「駒下駄」になっている。
ところがなんと、この「騎下駄」が「命削る」版では、「上野で買った騎下駄がきつくて足が痛かったものですから」という具合に臆面もなく登場している。
しかも他の「予審調書」の多くが「駒下駄は」としているのに、「騎下駄が」と「てにをは」の訂正までしてしまっている。「前坂版艶恨録」も「駒下駄が」の支持派である。
このことから、「命削る」版や「前坂版艶恨録」は、ひょっとして「ドキュメント日本人」版を参照しながら編集したのではないかと推測でき、その意味で流通 経路を同じくしている可能性があり、しかも、編集権を主張してか、ある意味で文法的な訂正や表記の改変をしている可能性が考えられてくるわけだ。
これが文学作品なら「元の本から勝手に書き換えるのは困る」と堂々と主張もできるが、底本が存在しない「予審調書」では、そんなことすらも主張できない し、それを指摘したところで、誰の利益になるというものではないが、やはり野に置け蓮華草という精神があったら、戦前の調書の見本資料として、それなりの 価値があったのにと、残念でならない。
もう一つの「二人多摩川」問題≠ヘ、第三回訊問と第四回訊問の二箇所で「二人多摩川の待合『田川』に」といったかたちで登場し、どの「予審調書」にも共通する誤りである。もっとも、誤りと断定しているのは僕だけであって、ほかにはほとんど誰もいない。
僕の推理では、これはたぶん「二子玉川(ふたこたまがわ。土地では「にこたま」と呼ぶ)」とすべきところを、「二人多摩川」としてしまったのではないかと思っている。なぜなら、まず新聞報道にある「田川」のあった場所は「二子玉川」とあるからだ。試しに「多摩川」で阿部定事件関連の新聞記事を検索してみたが、ひとつもヒットしなかった。
だいたい、僕のつたない言語経験から言っても、「多摩川」という固有名詞が、具体的な地域名を指すことは少ないと思う。何しろ多摩川は長大な川なのである。もし待ち合わせ場所に「多摩川で」と指定されたら、いったいどこに行けばいいのか迷うことだろう。
ところが、「二子玉川」なら、東京に長く住んでいる人間なら、ああ、あそこかとすぐに思い出せるくらいポピュラーな場所だ。
また、もともと「二人多摩川の」という表現の仕方自体が、どこかしら調書にそぐわない文学的な言い回しに思えて、以前から気になっていたことではあった。
想像の翼を広げることが許されるなら、もしこれが「二子玉川」の書き間違いであったなら、これこそがまさに「予審調書」の先祖に存在したところの、いわば 最古の誤植であろう。たぶん、真正の調書を最初に書き写した者が、たまたま生半可に文章に精通している者だったので、予審調書のこの部分を原稿に書き写す ときに、「玉川」は正しくは「多摩川」と書くのではないかなどと思い直し、親切心から「多摩川」と書き直し、ついでに「二子」のほうを「二人」と読み違え てしまったのではないか、というのが僕の想像である。
そう考えていたところ、最近手に入れた「訊問事項」版を見たら、とんでもない発見があった。先程も言ったように「二人多摩川」は、第三回訊問と第四回訊問に一回ずつ登場するが、「訊問事項」版では、第三回訊問では「二子多摩川」と書きながら、第四回訊問では「二子玉川」と書いているのだ。
「二人多摩川=二子玉川」という僕の推理に同調する資料を見つけたわけだが、ここで新たな問題が起きてきた。どうして「訊問事項」版は、第三回訊問のほうを「二子多摩川」としたのかということだ。
これは僕の勝手な推測なのだが、この部分の最も古い形は、きっと「二子多摩川」だったに違いない。そのほうが自然である。「玉川」を「多摩川」とまで修正 した注意力のある人間が、「二子」を「二人」と見間違える可能性は、少し低い。それよりも、可能性が高いのは、「二子多摩川」に修正されたバージョンを見 て、次のバージョンの「予審調書」を刊行した者が、妙な言葉だと思い、「二人多摩川」として文章を整えた可能性が考えられる。
「訊問事項」版の編纂者は、きっと「二子多摩川」バージョンを見て、最初の登場には気づかなかったが、二回目に登場した「二子多摩川」に対しては、おかしいと気づき、そちらのほうだけ「二子玉川」と正確に訂正した。
そのとき、もっと注意力があれば、前にも「二子多摩川」が出ていたことに気づくべきだったのだが、この「予審調書」の編纂者は、全体の印象から見て、それ ほど高い注意力を持っているとは考えられないので、結局、一箇所のみ修正したままに終わり、そのままになってしまったのではないだろうか。
……とまあ、推理小説好きの僕は、勝手に、そんなストーリーを思い浮かべてしまうのである。
◆「渋谷丸山町」問題≠ニ「東築港の南陽館」問題
引き続き勝手な想像を書き連ねることを許していただければ、今の「二人多摩川」問題≠ニ同様に、ほとんどの「予審調書」に共通する誤記がほかにもある。現在、確認ができているうちの二つほど紹介すると、一つは「渋谷丸山町」問題≠ナ、もう一つは「東築港の南陽館」問題≠ナある。
第四回訊問に登場する「渋谷丸山町」問題 は、一見、ごく単純な校正ミスである。東京の渋谷の裏道をよく知る人なら、その場所が「丸山町」ではなく、「円山町」と書くことを知っている。東京人の常 識とまでいくかどうかは疑問だが、編集者や校閲者は、東京のこの地名の漢字表記くらいは知っておくのが責務というものだろう。
ところが、この何十年もの間、いくつもの出版社で、たぶん100人以上にはなるだろう規模の編集者や校正者の目から、この誤記が零れ落ちて生き残ってきたのは驚きというほかない。
たぶん、全国各地の色町に「丸山町」という地名のものが多いので、それにつられて誤植に気づかなかったのだろう。そこまでしぶとく生きてきたほどの誤植だから、これはまさにB類の誤記の可能性大である。
ところが、「訊問事項」版では、またまたお騒がせなことに、これを「渋谷区園山町」と誤植し、ついでに他の資料にはまったくない「八〇」という番地まで記載するという勇み足をしている。その姿勢は買うのだが、いかんせん、この番地まで誤植しているのは困ったことだ。新聞報道と照らし合わせると、「田川」の住所は「八×」だ。
この誤植から推察できることは、まず、「訊問事項」版は、旧字体バージョンの「予審調書」をもとに編集したのではないかということだ。普通は、「丸山町」 を「園山町」と読み違えることはほとんどありえないから、旧字で「圓山町」とあったのを「園山町」と読み間違えた可能性が高い。
一方、「訊問事項」版以外の「予審調書」の刊行者がもとにした資料は、新字で「丸山町」と書かれてあったため、そのまま原稿どおり「丸山町」としたのかもしれない。つまり、「訊問事項」版と他の「予審調書」とは、流通経路が異なることが推測できるわけだ。
ただ、ここで疑問なのは、「圓」という旧漢字が「予審調書」にはしばしば出てくることだ。それは「百圓」などといった通貨の単位として登場するわけだが、「予審調書」を通読し、その旧字を読みなれていれば、「圓山町」を「園山町」と誤解することは、あまりないと思う。
ひょっとして、「訊問事項」版がもとにした資料では、通貨の単位である「圓」は新字の「円」に書き直してあり、固有名詞だけは旧字のままだったのではない かと想像したりもするが、それよりも可能性が高いのは、たぶん校正段階で通貨のほうの「圓」のほうを、すべて「円」と訂正したものの、まさか「円山」とい う地名が存在するとは思わず、人名にもある「園山」としたのではないかと思う。つまり編集者の勘違いと力量不足が生んだミスだろう。
もう一つの「東築港の南陽館」問題≠ヘ、第三回訊問に登場し、その回以降は「南陽館」とだけしていて、「東築港」という地名が付けられていない。「訊問事項」版を含めて、すべての「予審調書」に存在する誤記なので、これこそ正真正銘のB類と言えるの可能性が高い。
南陽館は現存しない施設なので調べにくいが、まず、東築港という地名を調べてみると、名古屋には存在しないようだ。「築港(ちっこう)」という地名あるものの、東築港はないようなのだ。そこで逆に「南陽館」のほうを調べていくと、とんでもないことがわかった。
この施設は、なんと阿部定事件のあった時代には、「東築地(ひがしつきじ)」という場所にあったことがわかったのだ。ちなみに南陽館は、名古屋教育水族館とともに同じ一角にあった料理旅館らしい。
つまり、「東築港の南陽館」は「東築地の南陽館」の誤りだったわけだが、この誤植は、真正の予審調書には、たぶん存在しなかったと僕は推測している。なぜなら、阿部定が口頭で「ひがしつきじのなんようかんに行きました」と供述したとき、書記官は絶対にと言っていいほど、「ひがしちっこう(東築港)の南陽館」などと書き誤るはずがないと思う。「ちっこう」と「つきじ」ではあまりにも音が違いすぎる。
誤記や誤植が生じるとすれば、それは真正の予審調書を書き写すときとか、書類に書かれた書き文字やタイプ印刷の文字を見ながら書き写したときとか、書き文 字や印刷物を見ながら活字を拾うときくらいしか機会が思いつかない。つまり、最初の「予審調書」が、どんな資料をもとにしたかは別にして、ともあれ、直接 の聞き書きという一次的な情報収集からではなく、二次的な資料をもとに書き写されたものであることを、この「東築港の南陽館」という誤記が証明しているこ とになる。
なぜ、僕がそこまで「予審調書」にある誤記や誤字こだわるのか。そうしないと、かなり経験を積んだ物書きでも、阿部定の「予審調書」を迂闊にもそのまま信じ込み、「二十七日夜、定と吉蔵はそのみつわを出て多摩川の待合『田川』へ行った」(『〈物語〉日本近代殺人史』山崎哲 春秋社)とか、「渋谷の待合『みつわ』をふりだしに、多摩川の待合『田川』へと移動し」(『その時この人がいた』井出孫六 毎日新聞社)といったミスをやってしまうことになるからだ。「予審調書」に書かれていることを全面的に信じすぎてしまうと、どこかで痛い目にあいかねない、というのが僕の感想なのだ。
※○は誤字や誤記を踏襲しているもの。×は誤記を書き換えたり仮名にしたもの。△はどちらとも判断できないもの。
【資料名】公判記録=阿部定公判記録、訊問事項=阿部定訊問事項、D・日本人=ドキュメント日本人
別冊新評=別冊新評'72 JUN、昭和11年の女=昭和十一年の女 阿部定、伊佐千尋版=愛するがゆえに 阿部定の愛と性
命削る=命削る性愛の女 阿部定〈事件調書全文〉、前坂版艶恨録=阿部定手記
誤記・誤植・欠落
初出回
備 考
公判記録
訊問事項
D・日本人
別冊新評
昭和11年の女
伊佐千尋版
命削る版
前坂版艶恨録
出生地は
1
○
○出生地ハ、
○
△出生地
○
△削除か?
○
○
出生地は人定訊問の項目にはない。本籍を訊けば足りる。
父は阿部金吾
2
○
×父は阿部重吉
○
△当該箇所欠落
○
×父は阿部重吉
○
×父は阿部安吉
戸籍名と不一致
母はカソ
2
×母はカツ
×母ハ、カツ
○
△当該箇所欠落
×母はカツ
×母はカツ
○
×母はカツ
「カソ」は単純な校正ミス
黒川ハナ
2
○「黒川はな」が混在
○黒川はな、黒田ハナ
○「黒川はな」が混在
○「黒川ハナ」は当該箇所欠落
○「黒川はな」が混在
×白川ハナ
○「黒川ハナ」のみ
×黒田ユキ
「黒川は×」となるべき
埼玉県入間郡板戸町
2
○
×坂石町
×
△当該箇所欠落
○
△削除
×
×
「坂戸町」の単純な校正ミス
騎下駄
6
×
×
○
×
×
×
○
×
「駒下駄」の単純な校正ミス
二人多摩川の
3
○
×二子多摩川の、二子玉川の
○
○
○
○
○
○二人で多摩川の
「二子玉川の」の誤記の可能性大
石田の妻オトク
4
○
○
○
○
○
○
○おトク
○おトク
普通は「オト×」「おト×」となるはずだが、別の新聞では「とく」となっている
神田の万成館
5
○
○
×神田の萬代館
○
×神田の万代館
○神田の萬成館
×神田の萬代館
×神田の萬代館
すべて新聞報道とやや異なる
大塚の旅館「緑屋」
3
○
○
○
○
○
○
○
○
「みどり屋」とのダブりがそのまま
満佐喜
3
×満左喜
×満左喜
×満左喜
×満左喜
×満左喜
×まさき
○
×満左喜
当時の新聞報道は「まさき」「まさき家」で「満左喜」「満佐喜」は変体がな
小野古着店
6
×小野古衣店
○
×小野古衣店
○
○
○小野古着屋
○
○
どちらにしても新聞報道にある屋号とは異なる
渋谷丸山町の待合
4
○
×渋谷区園山町八〇、待合
○
○
○
×渋谷円山町の待合
○
○
「渋谷区円山町」が正しい。「園山町」は「圓山町」の誤植だろう。番地を記載しているが、これも誤植
芸妓山子さん
4
○
○
○
×芸妓山ふきん
×芸妓山子きん
○
○
○
真相は不明
尾久町四丁目一八八
4
○
×尾久町四丁目一、八一一
○
○
○
×尾久町四丁目一八八一
○
○
「尾久町四丁目一八八一」が正しい
芸者が帳場へ
4
×帖場
○
×帖場
○
○
○
○
○
「帳場」としたくなるが、「帖場」のほうが原本通りか?
一寸菓子を買ってきます
5
○
×一寸水菓子ヲ買ツテ来マス
○
○
○
○ちょっと菓子を
○ちょっと、菓子を
○ちょっと、菓子を
新聞報道では「一寸水菓子を買ってきます」
頸部を緊迫
6
○
○
○
×「繋迫」と誤植
○
×緊縛
×緊縛
×緊縛
刊行年代の古いものに従うべきか?
左腿に其血で定吉二人キリ
6
○
×左腿ニ、其ノ血デ、定、吉二人
○
○
○
×左腿に、その血で、「定吉二人」
△左腿に「定吉二人きり」
△左腿に「定吉二人きり」
実際に「定吉二人キリ」と書いたのは敷布。左腿は「定吉二人」
一字ずつ取って定、吉、二人キリ
5 ○
×定、吉二人、又は定、吉二人キリ
○
○
○
○一字ずつ取って、定、吉、二人きり
○一字ずつとって「定吉二人きり」
一字ずつとって、「定吉二人きり」、
「二人キリ」と書くべきだろう。「訊問事項」版は、妙に正確さを追っている
湯棺
5
×湯灌
○
×湯灌
○
○
×湯灌
×湯灌
×湯灌
「湯棺」のほうが調書らしい。『どてら裁判』にも湯棺とある
聖心女学院
2
○
×聖心学院
○
○
○
○
○
○
正式名は「聖心女子学院」。なぜ通称のまま放置されてきたのか不明
菊屋金物屋
5
○
×菊秀金物店
○
○
○
△店名を削除
○
○
新聞報道の屋号とは若干異なる
味方し毎日家の中がごたごた
2
○
○
○ごた/\
△毎日家中ごたごた
○ごた/\
×ゴテゴテ
○ゴタゴタ
○ゴタゴタ
他の箇所は「ごてごて」だが、ここだけ「ごたごた」になっている
家出した頃で家の中がゴテゴテ
2
○
×ゴタゴタ
○
○
○ゴテ/\
○
×ゴタゴタ
×ゴタゴタ
「ごてごて」ではおかしいと思い用語統一したのか?
喉は良い素的
4
○
×喉ガ良ク素的
○
×喉が良く素敵
○
×よい喉で、素敵
×喉は良く素敵
×喉が良く素敵
文法的にはおかしいが、このままが調書的
東築港の南陽館
3
○
○
○
○
○
○
○東築港の「南陽館」
○東築港の「南陽館」
実際は「東築地(ひがしつきじ)の南陽館」で「東築港(ひがしちっこう?)」という地名はない
手刀
5
×牛刀
○すべて「手刀」
△「新聞包の手刀」のみ
×牛刀
×牛刀
×牛刀
×牛刀
×牛刀
「牛刀」の単純な校正ミス
御内儀さん
4
○
○
○
○
○
×お内儀さん
×お内儀さん
×お内儀さん
ここだけが「御内儀さん」とある問題箇所。最近のものは用語統一してある
十二荘
4
×十二社
○
×十二社
×十二社
×十二社
×十二社
×十二社
×十二社
「十二社(じゅうにそう)」が正しいが、「訊問事項」の誤植は気になる
神奈川区春木町
2
○
○
○
○
○
○
○
○
横浜市神奈川区に春木町は見当たらない。たぶん「青木町(あおきちょう)」の誤植だろう
一そ娼妓に
2
○
×一層
○
×一層
○
×いっそ
×いっそ
×いっそ
もとは「一そ」だったかもしれない
鶯色のもの
2
×鴬のもの
○鶯色ノモノ
×鶯のもの
○
×鶯のもの
×鶯のもの
×鶯のもの
×鶯のもの
多数決では「鶯のもの」か
押収品の二五が欠落
6
×但し二三が欠落
○
△該当箇所欠落
○
○
○
○
○
これを見ると、明らかに「訊問事項」版は他のグループと違っていることがわかる
石田に惚れたのは一時の浮気で
4
×時の浮気で
×一寸浮気デ
×時の浮気で
○
×時の浮気で
○
○
○
「一」が入るのかどうか不明
二十台の男
5
○
○
×二十代の男
○
○
○
×二十代の男
×二十代の男
「二十代」が正しいが、一件書類では「二十台」と誤りやすい。『どてら裁判』にも「二十台」とあるから、調書ではこれが正しい
逃走した径路
6
○
×経路
○
×経路
○
×経路
×経路
×経路
警察で使いそうな言葉は「径路」のほう
中野町新高
5
○
×中野町新宿
○
△部分欠落
○
△部分削除
○
○
中野町新検の誤植と思われる
姉照子は、池袋で
2
×脱落
○
×脱落
△当該箇所欠落
×脱落
△削除?
×脱落
×脱落
『阿部定を読む』では巽照子のことが書いてないとあるが、「訊問事項」版だけにはある
第四章「予審調書」から事件の真相を探る
◆「傷害致死罪」や「自殺幇助罪」はなぜ成立しなかったか
阿部定の「予審調書」を読み進んでいくと、これまで何人かの文学者や評論家たちが抱いたように、果たして阿部定事件に殺人罪を適用すべきだったのかという 疑問が湧いてくる。実際、これまで少なからぬ人たちが、あれは傷害致死だ、いや自殺幇助や嘱託殺人だから、もっと量刑は軽くなっていいはずだ、などと主張してきた。
しかし、これらの主張は、実際のところ、「予審調書」をよく読めば簡単に否定できることだ。いや、多くを読む必要はない。第一回訊問の冒頭にある以下の箇所を読むだけでいい。
答 私はあの人が好きでたまらず自分で独占したいと思い詰めた末、あの人は私と夫婦でないからあの人が生きていれば外の女に触れることになるでせう。殺してしまえば外の女が指一本触れなくなりますから殺してしまったのです。
……なんと、阿部定は、のっけからさっさと、自分の意思で人を殺したことを認めているのだ。つまり、「はい私がやりました」と、殺意をもって人の命を奪ったことを素直に供述している。 どんなぼんくらな検事でも判事でも、最初の供述でこんな言質を引き出してしまえば、あとで被疑者がどんな言い逃れをしようと、殺人罪で起訴できると安堵してしまうことだろう。
そもそも、当時の新聞が伝えるところでは、
定は素直に犯行を認め、一回の否認もなく、一日も早く法の裁きを受けたいと希望して居た為予審は意外に早く終了、起訴通りの殺人、死体損壊罪で公判に附さ れたものである予審で決定した内容は石田を極度に熱愛の余り、他の婦人に渡したくなく殺害の上局部を切断したと云ふのであつて、前後四ヶ月間で終結した予 審は珍しく、公判も来る十一月には開廷出来る模様である。 (昭和11年10月1日付國民新聞)
ということだったのだ。
また、当時の新聞を読むと、阿部定は逮捕されるとすぐにその日から罪を認めただけでなく、そのごく初期の段階での供述が、かなり内容の濃いものだったことがわかる。
凶行の動機は全くさだの変態的性格から身も世もあらず『好きな吉蔵さんを他の女にとられる位なら一層殺して自分も死なう』といつたことから演ぜられたもの である――尾久待合『まさき』に居ること幾日、十六日夜男は非常に疲労しきつてゐた、女はふざけ半分に腰紐で男の首を絞めたところ苦しがつたので驚いて紐 を取つた、男は頸部に傷あとがついて痛み続けたので同夜は、ともかく静かに休ませ、十七日昼頃資成堂に現れカルモチンなどを買求め、夕刻薬などを与へた、 十七日夜も例の如く酒やビールを飲み二人で寝についたが、二人の間にこんな会話がかはされた
女『早く寝なさいよ』
男『寝ればまた昨夜のやうにお前に絞められるからね』
女『今夜は離しませんよ』
男『絞めるんなら絞めてもいゝが、苦しいから途中で手を放さないでくれ』
やがて二人ともすや/\と眠りに落ちた、十八日午前一時頃眼をさましました女は自分の腰紐を解き寝てゐる男の首に一廻して力一ぱい絞めつけた、男は手足をも がきながら苦悶の色を面上にたゞよはせ、そのまゝ絶命した、女はかねて用意の肉切庖丁を取出し、局所を切落とし、更に男の左腕に二世を誓つた印に自分の本 名の『定』の字の一字をほり刻みつけた上、傷口よりしたゝる血潮を自分の人さし指ですくつて『定』の字になすりつけ、更に同じく左の太腿へ『定吉二人き り』と血の入墨をした、それからだん/\つめたくなつて行く男の死体をしつかりと抱きしめ夜の明けはなれるまで愛撫し続けた(昭和11年5月21日付報知新聞)
こうした新聞記事を見る限り、阿部定は逮捕された翌日から、既に事件についてかなりすらすらと供述しているようである。そして、特徴的なのは、その供述 内容が、一気に新聞に垂れ流されているように見えることだ。上記の報知新聞には、捕まるまでの三日間の足取りが紹介され、そこには浜町のベンチに腰掛けて いたことまで克明に報じられている。阿部定の供述がなければ明らかにならなかった事実までもが、新聞に報道されているのだ。これでは、弁護士も腕の振るい ようがなかったと言ってもいいだろう。
実際、細谷啓次郎の『どてら裁判』にも「いわゆるお定事件は、被告人が、もし起訴事実、とくに殺意を否定したとすれば、その審理は、そうとう波瀾があるかもしれないと予想されたが、あっさり事実を認めたので、けっきよく[ママ]問題は刑の量刑にあった」(同書90頁)とある。
ちなみに、傷害致死や自殺幇助説は、既に阿部定の公判当時も巷間に流れていたらしく、その騒ぎを押さえ込むためだろうが、検事はあえて公判の席上で決然と否定説を唱えている。
検 本件は当法廷に於ける被告人本人の供述に依つても一点明かな如く殺人、死体損壊罪を構成するものである事を確信する。世上間々本件を指さして石田と被告 人との間の飽くなき痴戯の途上に於ける過失に因る傷害致死であるが如く云ふも、被告人は重ねて殺意を認めて居り、又謂ふところの嘱託殺人でもない只ここに 申したい事は被害者石田が待合「まさき」で最後の夜被告人に対し「俺が眠つたら、今晩も俺を絞めるだらうが、若し絞めたら手を離さず、絞めて置いてくれ」 と云ひ残した一言である、之を其のまま解訳すれば本件を目して或ひは嘱託殺人即ち心中の如くにもとれるが、本件は斯くの如きものではない事は当時の石田の 事情を考慮、考察すれば自ら分明する、即ち当時石田には、被告人と死なゝければならぬ事情は毛頭存しなかつた、石田は被告人と常に屡々「殺す」とか「殺し てくれ」と云ひ合つた事だが、之は心中を意味するものではなく、愛情の諷刺に過ぎない (昭和11年12月9日付國民新聞夕刊)
……と主張はきわめて明快で手厳しく、文字通り勝ち誇ったような堂々たる主張の仕方をしている。
一方、裁判で弁護にあたった竹内金太郎(たけうち・きんたろう)弁 護人の弁護方針を見ても、彼は殺人罪の成立に対して疑念を抱いていなように見え、主として心神耗弱や心神喪失による犯行であることだけを弁護の中心に据え ているかのようだ。ただし、それはある意味では無罪主張であり、阿部定を刑に服させないための主張であったと見ることもできる。その弁護人の主張につい て、
其の事実関係に於ては遺憾ながら検事の主張通りに是認せざるを得ないが、本件は完全な意思能力の下に行はれたものであるか、それとも心神耗弱又は同喪失の状態で演じられたものであるかを十分検討する必要ありと論じ(昭和11年12月9日付國民新聞夕刊)
……という具合に新聞報道にあるように、竹内弁護人は情状証拠を中心に弁論を展開したようだ。竹内金太郎弁護士(弁護人は法廷で弁護する役割の人間で、弁護士は職業名あるいは資格名。つまり弁護人には弁護士でない人間でも原則的にはなれる=筆者註)が無能だったからと思われる人もいるかもしれないが、彼は、今で言えば右傾化した人物ではあったが、ゾルゲ事件で尾崎秀実(おざき・ほつみ) の弁護をしたほどの敏腕であった。その敏腕弁護士であっても、予審調書の第1ページ目から殺人を素直に認めている被告に対して、あえて傷害致死や嘱託殺人を 主張して裁判をひっくり返すことは難しかったのではないか。もっといえば、現在のような法体系のもとではなく、戦前の法体系のもとでは、たぶんどの弁護士も、そんなことは難しいことだったのであろう。だから、竹内弁 護人はまっとうに裁判を闘ったと見るべきだろう。
ちなみに、当初、弁護人には太田金次郎(おおた・きんじろう)が あたっていたようだが、阿部定が何か誤解したのか、公判開始前に解任されて、竹内金太郎が弁護に立ったようだ。ただし、太田金次郎は、阿部定の姉の要請に よるもののようで私選だが、竹内金太郎のほうは私選なのか国選なのかははっきりしない。太田金次郎は、血盟団事件をはじめ、戦後はA級戦犯の土肥原賢二(どひはら・けんじ)陸 軍大将の弁護にあたるなど、相当優秀な弁護士だったようだが、阿部定とはどこかそりが合わなかったのか、それとも弁護方針に阿部定は反発したのかもしれな い。太田金次郎の「阿部定と語る」では、そのあたりの事情があまりよく汲みとれないが、新聞などにさまざま報道されて気に病んでいた阿部定は、ともかくなんでもいいから裁判を早 く終わらせて、噂の根を早急に絶ちたいという思いが強かったようで、事件の真実を追及するというまっとうな弁護をしようとした太田金次郎は、裁判を長引かせたり、さらに話題づくりをしそうな気配があると思ったのではなかろうか。そのあたりで弁護方針をめぐる食い違いがあったのかもしれない。
◆それでも「過失致死罪」は成立する?
ところで、阿部定の罪状に関して、僕自身は、予審調書を読んだ当初からしばらくの間、過失致死罪を適用すべきだったのではないかという考えを持っていた。 端的に言えば、首を絞めれば快感を得られるという性戯にふけっていたところ、つい強く絞めすぎて、過って死に至らしめたといった筋書きを考えたのだ。
この種の殺人は、推理小説にもときどき登場するが、これを過失致死罪とするか、殺人罪とするかについては、さまざまな法律論議があるところだろうが、阿 部定自身も、また弁護人も、そのような主張をできなく はなかったと思う。なにしろ、外形的にでは、阿部定が石田吉蔵を絞殺した事実には変わりようがないが、そこにどれほどの殺意があったのかについては、阿部 定本人以外には証明できないことであり、強い殺意を証明するだけの証拠も、それほど明確に提出されているとは言いがたい。だから、本人の意思しだいで、い かようにも言い逃れができそうでもある。
しかし、あるときふと、この過失致死説も、ちょっと成立しがたい面があることに気づいた。それは、殺害までの時間的経過の問題があるからである。
石田殺害までの経緯を振り返ってみると、まず「予審調書」の第五回訊問には、事件前日の昭和11年5月16日の晩(5月17日深夜)に阿部定が、「石田に抱かれて居るととても可愛くなりどう仕様か判らなくなり、石田を噛んだり息が止る程抱き締めて関係する事を思ひ付」く。そして2、3日前に既に試していた石田の頸を手で絞めるという性の戯れをエスカレートさせて、今度は、「枕元にあった私の腰紐を取り石田の頸に巻き付け」たうえで、両手で紐の端を持って絞めはじめた。この結果、最初は「少し頸を締めると腹が出てオチンコがビクビクして気持ちが良いものですから」と感じた。
下司な言葉で言えば、要するにチョー気持ちいい♀エじになったわけだが、その結果とんでもないことが起きる。それは「二時間位巫山戯て居る内十七日午前二時頃でしたが私が下の方の具合ばかり見て遂い力が這入りギュウと頸を締めた為、石田は『ウー』と一声唸りオチンコが急に小さく」なるという窮地に陥ったのだ。阿部定は事の推移に驚いて紐を放し、行為を中止させられることになってしまった。
この供述を見る限り、被害者の石田自身は、過去にも誰かに首を絞めてもらった経験があるよう思えるが、それについては「予審調書」でははっきり語られていない。ただ、「予審調書」に従えば、ともあれ阿部定が石田の頸を絞めながら関係をするという 快楽追求のための倒錯した遊戯に突入したのは、石田が殺される前夜だったということだけだ。
もし長年にわたって、頸を絞めて性的快感を得るという遊びを経験してきて、その果てに、つい力を 入れすぎて殺してしまったというのなら、あるいは過失致死説も説得力を持ったかもしれない。だが、昨日今日に始めた倒錯遊戯なのだから、到底そんな主張は堂々とできない。
しかも、阿部定自身は、この性戯をあまり積極的には歓迎していなかったようにも思える。それはあくまでも石田の求めに応じてやりはじめたことであり、自 分から持ちかけたことではないのだ。それに、この事件のあと、赤くなった石田の頸を冷やしてやるだの、資生堂に薬を買いにい ってやるだのという、ちょっとした騒動になった。その様子を語る阿部定の口調には、困った状態に陥った旦那の世話をかいがいしくみる女房の喜びは感じら れるが、性愛の極地を追っている妖婦のイメージはあまり感じられない。考えてみれば、この頸絞めシーンの供述を素直にとれば、過失致死は否定されてしまう。なぜなら、緩く絞めているときには、「オチンコがビクビクして気持ち が良い」と、阿部定は、いわゆるエクスタシーを味わっていたことになるわけが、強く絞めたときには、「オチンコが急に小さく」なるという、興ざめな経験をしてしまったからだ。
このような興ざめな経験したあとは、普通なら、次にはもっと強く絞めてやろうという気持ちを失うはずである。つまり、快感を求めるあまり、つい強く絞めてしまいました≠ニいう主張は、そこで跳ね除けられてしまう。
「私が下の方の具合ばかり見て遂い力が這入り」 という箇所は、阿部定が、もっと強い性的な刺激を求めて、石田のオチンコの具合を気にしていたことを示すものだろう。つまりもっと強く絞めれば、もっとビ ンビンしてくれるだろうと思いながら、つい力を入れすぎてしまったが、その結果、石田は気絶し、オチンコも小さくしぼんでしまったので、阿部定の快楽追求 は、中止の憂き目にあってしまったのだった。
その経験は、トラウマにはなりこそすれ、もっと励もうという気を起させるようなものではなかったはずである。いわば苦い経験≠ナあったはずだ。
そんなトラウマにも似た苦い経験をしてから、たった24時間弱しか経っていないのに、次にはあえて人を死に至らしめるほど頸を強く絞めることが、果たし てあるのだろうか。それはもう「殺意をもって絞めた」としか言いようがなくなる。つまり、そこで過失致死説は否定されてしまうと思うのだ。
◆殺意はどこで生まれ、どのように発展していったか?
それにしても、この頸絞による倒錯性戯のシーンは、一読しただけでは、かなり詳細に犯行の様子が語られているように感じられるものの、その前の文脈から 注意深く文脈を辿っていくと、肝心の殺意 がいつ形成されたかに関して、どこかはじけ飛んでしまっている感じがしてくるのは、僕だけだろうか。というのは、なぜ阿部定は、たった二回しか頸を絞て性 の快楽を得るという遊戯をしてこなかったのに、その二回目で、石田を殺害するまでに気持ちが一気にジャンプしてしまったかということについて、「予審調 書」では詳しく語られていないように思えるからだ。
その疑問を解き明かす前に、阿部定の殺意の中身について考えてみよう。阿部定が語った殺害の動機と考えられるのは、同じく第五回訊問の中にある次の箇所である。
石 田の寝顔を見て居る内石田が家へ帰れば自分が介抱した様にお内儀さんが介抱するに極って居るし、今度別れればどうせ一月も二月も会へないのだ。此間でさえ 辛かったのだからとても我慢出来るものではないと思ひどうしても石田を帰し度くありませんでした。石田は私から心中して呉れとか何処かへ逃げて呉れと云っ た所で今迄待合を出させて末永く楽しもうと云って居たし、石田としては現在出世したのですから今の立場で死ぬとか駈落するとかは考へられませぬから私の云 ふのを断ることは判り切って居るので、私は心中や駈落は、てんで問題にして居なかったから結局、石田を殺して永遠に自分のものにする外ないと決心したので す。
この箇所の供述では、阿部定はいわゆる八方塞の閉塞感を覚えている。そして、今の立場では、これから立ち行かないのではないかと心配している。
しかし、これだけで殺人の動機とするには、僕には、少し説得力に欠ける気がする。というのも、ここで語られているのは、昭和2年に自殺したときの芥川龍之介の遺書ではないが、いわば将来に対する漠然たる不安≠ナあって、今緊急に迫っている不安ではないと思えるからだ。
確かにそのとき石田のほうから、いったん別れようというニュアンスの話を持ち出されている。流連という不安定な状態もちょっと長く続いている。
しかし、冷静に考えれば、まだ金がすっかりなくなり素寒貧になってしまったわけではなく、ある程度の金はあったわけだ。頸が傷ついたことを石田が気に し、それをまともに治療する時間が必要だったということもあるし、このままでは二人の将来が立ち行かないのではないかと感じはじめていたということもある が、そのことだけでストレートに殺意にまでつなげるというのは、ちょっと短絡的なように思える。
ただし、そんな心理状態でも、充分に殺意を形成する切迫感を覚えると言う人もいるかもしれない。実際に、判決文でも同じような説明の仕方をしている。殆と終日連夜只々情痴愛慾の限りを尽したるか、偶々五月十六日の夜半吉蔵との情痴の刺戟を求むる為め、同人の頸部を自分の腰紐にて緩縛したる際、過て同人 を一時気絶せしめ、為に其の顔面に充血せしめ且変相せしめたるより、被告人は驚き種々手当を施したるも其の効無き為め、吉蔵は之を苦慮し其の治療の為、一 時帰宅静養せんことを欲求するに至り、爰に於て被告人は、前 記別離中の嫉妬焦躁思慕の念に堪へ難かりし苦痛を想起し、且右手当中他人より右全癒するに至る迄には一二個月を要すへき旨聞知し居りたるより、吉蔵との痴 戯も当分望み難きを察知し、之を峻拒したるも吉蔵の容易に容るるところと為らさりし為め、如何にせは同人を独占し得へきかを焦躁苦悩したるか、同月十八日午前二時頃、酔余焦躁の念に駆られ、突如遂に吉蔵を独占せんには同人を殺害するに若かすと決意し、(傍線及び太字は筆者。また当時の法的な文書や公文書などでは、かなは濁点をつけずに記載し、読む際に濁点をつけて読むことが通例になっていたので、原文のママにしてある)
…… という具合に殺意の中身と殺意を抱くまでの経過説明をしている。それでも僕には、とことんまで追い詰められてしまっていたとは思えない。というのも、そう した状態になっても、たとえば、単なるセックスフレンドとして遊ぶだけの関係だったら、もっといろいろと別の選択肢があったのではないかと思うからだ。
つまり、阿部定が石田を殺す決心を固め、それを実行に移したのには、もう一つ別の、つまり、判決文には語られていないところのもっと強い心理が働いていたからではないかと僕は考えている。
そのことについて、実は判決も、触れてはいるのだ。今引用した判決文をじっくり読んでいくと、一箇所だが謎のような短い言葉があることに気づく。それは先程の判決文の最終行にある太字で示した部分、つまり「酔余焦躁の念に駆られ、突如遂に」という短い文言だ。この文言の意味は、要するに酒に酔ったあまり焦燥にかられているうちに、突然ついに≠ニいうことである。特にこの「突如遂に」という文言は、阿部定が、どうして殺人行為を実行するまでに至ったかという心理を非常にうまく表現したものだと思うが、ある意味で、これは逃げの表現≠ナもある。
つまり、酔った勢いで駆られはじめた嫉妬や焦りによるイライラが、そのとき一気に殺意へとジャンプしていった心理的プロセスが、法律家独特のたった一言の修辞的文言で片付けられてしまっているのだ。
ただし、僕は裁判長を責めているのではない。たぶん、裁判官のほうにも、その突然の殺意の噴出を明確には言い表せなかった事情があると、僕は思ってい る。つまり、裁判長はあくまでも正直に、誠意をもって、そのような表現を採用したと思える。そのように誠意ある判決文として、僕自身は評価しているが、実 際は、その修辞的な一言の文言によって、阿部定の本当の殺意そのものが、闇に葬られてしまったことも否めない。細谷裁判長が、なぜ、そんな表現しかできな かったのか。その原因は「予審調書」にあるのだが、それはちょっとあとにして、まず、本当の殺意は、どこにあったかを述べてみよう。
◆「あの人は喜んで死んでいった」という謎の言葉
いったい阿部定が「突如遂に」という文言で表現された衝動に駆られた原因は何だったのだろうか? その謎を解く鍵は、ずっとわからなかったが、事件から二十数年後にテレビが阿部定におこなったインタビューを見て、僕はそれを感じた気がした。
1968年か1969年頃と思われるが、「事件を語る63歳の阿部定さん」とテロップにある、ごく短い時間のテレビ報道が流された。当時、僕もこれをリ アルタイムで見た記憶がある。しかし、なかなか再放送の機会を得ず、ぜひとももう一度見たいと思っていたところ、YouTubeにあることを発見し、早速 ダウンロードした。たぶん、彼女が東京の下町で小料理屋を開いた直後くらいにおこなわれたインタビューなのだろう。そのビデオで老境に達した和服姿の阿部 定は、
あの人はねえ、まあ、喜んで死んだんだからね。別に、何も、ないのよね。それなのに、もう、なんか、みんな、こう……言うのは、今でもおかしいのよね。……厭なのを殺したんじゃないんだから。殺してくれって、何遍も私に言ったんだからね。(筆者がビデオから筆耕)
……とはっきり言い放っていた。二十数年経っても、「殺してくれ≠ニ言われたから殺した」と主張していることに、まず驚きを覚えた。それは、判決文にも、また「予審調書」にも、強く主張されていない事柄である。
もちろん、「殺してくれ」と言われて、「はい、そうですか」 と殺してしまうのは、普通人の感覚からすれば、どうかとも思うが、それが阿部定という女性の、いわば人生の確信≠セったのだろう。
石田吉蔵が、本心で「殺してくれ」と言ったのか。本当に言ったことだとしても、どんなニュアンスで発言したことなのか、殺された本人しかわからないことだ が、阿部定にとって、石田殺しは、彼の喜びためにやったことであるという信念を、出所後何十年間も、ずっと持ち続けていたことになる。そこに僕は、彼女の思い込みの 強さを見ると同時に、われわれが抱いていた事件の核心は、違っていたのではないかと思った。
確かに石田は、「お前に殺されてもかまわない」と言ったのだろう。普通の人間なら、そんなことを言われても、「まあ、ご冗談でしょう」と受け流すところを、阿部定は本気で信じてしまった。そこが阿部定特有の思い込みの強さである。
が、その思い込みがあるだけでは、やはり、モラルや良心といったものに阻まれて、いざというときには殺人を実行するまでには至らないことが多いだろう。 しかし、たぶん、確実に、そのときの阿部定は、その特有の奇妙な確信を持って、「あの人は殺してくれと言ったんだ」と頭の中でこだまさせ続けながら、愛人 の頸をキュウと絞め続けたに違いないのだ。
◆「突如遂に」の一言で闇に葬られた阿部定の本当の殺意
では、細谷裁判長は、なぜ「突如遂に」の一言で、阿部定の本当の殺意を片付けてしまったのだろうか。それは、そうとでも言わなければならなかったという事情があったからだ。
もちろん、今言ったことは、僕の推理でしかないことだが、「予審調書」の第五回訊問に書かれている殺人の実行行為に関する供述部分を分析していくうちに、いくつかの不自然な文章の展開を発見したことから、その推理を持った。それは、以下の箇所だ。
石田がウト/\して居る時、私は南枕に寝て居る石田の右側に横になり、石田の右手は私の脇の下から背中の方へ延びて、私を抱へる様な恰好になつて居り、私 は左の手で石田の頭の方を抱へる様な恰好をし、左手を左肩の辺に置き、寝顔を見守つて居ると石田は時々パツと目を開き私が居るのを見て安心して又目を閉ぢ る様にして居たが、其間「オカヨお前俺が寝たら又締めるのだらうな」と云ひ、私は「うん」と云ひ乍ら、にやりとすると「締めるなら途中で手を離すなよ後が とても苦しいから」と云ひました。其時私は此人は自分に殺されるのを望んで居るのかしらと不図思ひましたが、そんな筈のないことは色々の事から判り切つた事ですから、勿論冗談だと直ぐ思ひ直しました。其 内石田が寝た様子ですから、右手を延して枕元にあつた私の桃色の腰紐を取り上げて、紐の端を左手で頸の下に差し込み、頸に二巻まいてから紐の両端を握り少 し加減して締めた処、石田がパッと目を開けて「オカヨ」と云ひ乍ら少し身体を上げ私に抱きつくやうにしましたから、私は石田の胸に自分の顔を擦り付けて 「勘弁して」と泣き、紐の両端を力一杯引き締めました。
「予審調書」のその箇所では、石田がカルモチンを飲んで寝込んでしまったあと、寝顔を見守っていたら、石田がときどき目を開けて「オカヨお前俺が寝たら又 締めるのだらうな」と言い、阿部定が「うん」と言いながらにやりとすると、「締めるなら途中で手を離すなよ後がとても苦しいから」と石田が答える。そのと き、阿部定は「此人は自分に殺されるのを望んでいるのか知らと不図思ひました」と考える。つまり、阿部定が老境に達してからテレビのインタビューに答え て、「あの人は殺してくれてと言ったんだからね」と言い放ったと同じ内容が、そこでは語られている。(上の引用箇所の緑色部分)
ところが、そうしてふと思った考えは、その直後に「そんな筈のないことは色々の事から判り切った事ですから勿論冗談だと直ぐ思ひ直しました」(上の引用箇所の赤色部分)という供述があって、阿部定が自らすっかり打ち消してしまったことになっている。
普通なら、そこで殺意はしぼんでしまうわけで、この文章を素直に受け取れば、彼女がその後実行行為にまで及ぶはずがないと考えて当然だと思う。
ところが、なんとその直後のセンテンス(上の引用箇所の青色部分)には、「其内石田が寝た様子ですから」というちょっと理解に苦しむ言葉で文章を繋ぎ、続いて阿部定は、一気に殺人の実行行為の説明に及んでいる。この文脈の流れが、僕には引っかかってしかたがない。一読した限りでは、スムースに頭の中に入り込んでくる状況説明の仕方なのだが、それは修辞にごまかされているだけで、実際に仔細に分析していくと、どこかで辻褄が合わないという、齟齬を感じる。
どうしてなぜ辻褄が合わなくなっているかというと、やはり、赤色部分が途中に挟まっているからである。もし赤色部分を、文章の途中に挟み込むとしても、次には、たとえば「それでもと思い直し」などといった文言でも入れなければ、緑色部分と青色部分が、文脈的につながっていかない。
どうして、こんな奇妙な文脈の乱れが生じているのか、それはたぶん判事の横槍が入ったからだろうと思っている。
つまり、当初から阿部定は、緑色部分のように、「石田が殺してくれと言ったんだ」と主張し続けていたのだろう。だから、二十数年後のテレビインタビューにも、同じことを言い放ったのだ。
ところが、この阿部定の主張は、検察側にとって、いささか都合の悪いものと受け止められたのではなかろうか。というのは、その主張を認めると、嘱託殺人 の要素が生まれて、純然たる殺人罪が成り立ちにくくなるおそれがあるからだ。そこで、「それは冗談だったと思わなかったのか」などと言って、阿部定を押さ え込もうとする。その語気の強さのために、阿部定は、結局折れて、赤色部分のように「勿論冗談だと直ぐ思ひ直しました」と答えざるを得なくなり、調書もその供述を挟み込む。
そのように、すべて冗談事にしてしまうと、普通ならそこで殺意はどこかへ消し飛んでしまうことになってしまうのだが、「予審調書」では、それを補うために、次のセンテンスでいきなり青色部分のような殺人の実行行為についての詳細な説明を展開して、阿部定は実際にこうして殺したのだという説明のほうに読む者の注意をそらして、文脈の破綻を補っている。
まさしく文章のアクロバット≠ニでも言うべき離れ業に思える。この離れ業によって、阿部定の本当の殺意は消し飛んでしまい、細谷裁判長をして「突如遂に」としか言いようのない判決を書かせてしまったのではなかろうか。
また、これは単なる推測だが、細谷裁判長が、予審調書を超えて独自の判断を下すことができなかったのは、当時の法制度からくるもだったのではないかとも 思う。当時の予審裁判は、起訴するかどうかを事前に判断するためというよりは、本裁判を円滑に進めるための予備裁判のようなものであった。と言うより、今 日の法制度から言えば、本裁判にかけるための法廷資料を整えるための検察の取り調べだ。
かつ、公判廷の検事席にいるのは、事件当初から事件現場に出張って関わってきて、予審裁判に付するための一件書類を作った酒井検事であり、その予審裁判で予審調書を作成したのは、これまた事件当初から事件現場に出張っていた正田予審判事だったのだ。
要するに、公開の公正な法廷とは言っても、事件現場を直接知らないのは細谷裁判長をはじめとする3人の裁判官と、弁護人だけだったのだ。そんな状況の中で、裁判長が予審調書の内容について、異を唱えられようがない。
◆阿部定の本当の殺意を封じ込めた第一回訊問
どうして、そんな文章の離れ業をしなければならなかったのだろうか。たぶん、予審裁判の段階で、予審判事が、この事件を純粋の猟奇殺人事件として証明したいという意図を持っていたからだと思う。いわば、つかこうへいの『熱海殺人事件』にあるように、阿部定を立派な殺人者として成立させたかったのだ。
第五回訊問で展開されている殺害状況の供述は、第一回訊問と中身として通底している。そこで、第一回訊問の状況を見ていくことで、なぜ第五回訊問にある文章の離れ業が生じたかを説明してみよう。
まず、第一回訊問の判事の質問を出現順に並べていくと……、
「どうして吉蔵を殺す気になつたか」
↑殺意が生じた理由を問う。
「吉蔵も被告を好いて居たのか」
↑心中か否かを問うための導入の質問。
「石田がそれ程好きなら何故心中する相談を持ちかけなかつたか」
↑心中であるかどうか、そしてもし心中ならどちらがその話を持ちかけたかの問い。
「石田を殺す晩も死んで呉れとは云わなかつたか」
↑「一緒に死んで呉れ」の「一緒に」が脱落した可能性あり。さらに心中か否かを問う。
「其の晩石田は被告に殺されることを予期して居た様子があつたか」
↑合意の心中ではなく無理心中の可能性を問う。
……という具合に読むことができる。つまり、判事としては、まず無理心中の線を消すために、しつこく質問を重ねたと思われる。
が、このとき、阿部定は、「あの人は私のために死んでもいいといってくれたんだ」と、テレビのインタビューと同じような内容を供述したことだろう。それが第一回訊問にある「石田が眠る時私に先程の様に締めるなら途中で離すな等云つたのですが、私はさう云はれた瞬間自分に殺されても恨まないと云ふのかなと考へました」という供述だ。そこで、嘱託殺人の可能性が出てくる。
しかし、予審判事には、これを純然たる殺人事件として立証しなければならないという思いがあったのかもしれない。だから、「あの人は殺してくれと言った んだ」という阿部定の供述を枉げようと、圧力をかけた可能性がある。そこで、阿部定はきっと腹を立てて、供述を拒んだのではないか。前に紹介した正田予審 判事の証言に「(阿部定は)心のうつり変りが多くて、取扱が気にいらないと、妙にすねる点があった」とあるのは、阿部定がなかなか自分の供述を枉げなかっ たことを示している。
そこで、たぶん正田予審判事は、「そんなことは冗談だろう。世間の人は、お前の言うことを信じないぞ」とでも脅かして、すべてを冗談だったと無理に言わせたのではないか。
もともと、第一回訊問を逐一検証してみると、全体の流れがちぐはぐで、質疑と応答との関係が歪曲している感じを受ける。
というのは、この回の訊問では、前半部分では、予審判事の問いに対して阿部定が短い言葉で答えるという、普通の調書のかたちをとっているのに、突如、最終部分になって、「夫れは何故か」という具体性のない質問に対して、一括してまとめて供述するというかたちになっているからだ。
しかも、ここで非常に興味深いことは、たかだ600字程度の文章なのに、「冗談」という文言が、しつこく三度も登場していることだ。
夫れは以前石田の頸を締め乍ら関係をすると感じが良いと話した事がありましたが、五月十六日の晩、私が石田の 上に乗り初めは手で石田の咽喉を押す様にして関係しましたが、手では少しも感じが出ないから、私の腰紐を石田の頸に巻き、私が夫れを締めたり緩めたりして 関係して居る内、下の処計り見て居た為め力が入り過ぎ、石田が「ウー」とうなり局部が急に小さくなつたので、私は驚いて紐を離しましたが、其の為石田の顏 が赤くなつて治らないので翌日迄水で顔を冷して居りました。そんな事があつた為め十八日の午前一時頃石田が眠る時私に先程の様に締めるなら途中で離すな等 云つたのですが、私はさう云はれた瞬間自分に殺されても恨まないと云ふのかなと考へました。私が同時に其時「ウン」と云つて笑つて居たのだし、石田も私の 顔を覗き込んで笑い乍らさう云つたのであり、又死ぬ気なら私に殺して呉れと云ふ筈ですから、冗談に云つたゞらうと思ひました。夫れですから其後三十分位石田の眠つて居る傍に眠つて居ましたが、石田には殺すと云ふことを云はなかつたのです。夫れに石田は私の身体が弱さうに見へる為め肺病だと思つて居り、始終「オカヨ俺はお前の為めなら何時でも死ぬよ」等と云つて居りましたが、無論皆冗談事でありましたから、其晩石田が私に云つたことも冗談だと思つたのです。尚私が殺す心算で最初私が静かに石田の頸を締める時「オカヨ」といつて私に抱きつく様にしましたから、殺される等とは考へても居らず吃驚したのではないかと思ひましたが、私は紐を緩めず心の中で勘忍してと思ひ乍ら其儘キュウと紐を締めたのです。
その前にもある「冗談にも死ぬ等云つたことはありましたが」「夫れは冗談に云つたのだと思つて居ます」と合わせると、五回も「冗談」ということが強調されている。第一回訊問は、予審調書全体から見ると比較的短いのに、そのような文章展開になっているのは、とても奇妙な気にさせる。
このことは、予審判事が阿部定に、それだけ強く、「そんなのは冗談だろう」と強く迫ったことを示しているのではないかと思う。そうして、阿部定の真意は、予審判事によって無理矢理に冗談事にされ、結局闇に葬り去られることになった、というのが僕の推理なのだ。
もっと言えば、第一回訊問の当初は、一問一答がスムースにいっていたのだが、殺害時の供述になった途端に、予審判事は阿部定の強い抵抗にあってしまい、 調書がまとめられない状態になってしまった。そこで、力ずくでねじ伏せるように最後に、まとめて供述させたように装ったのだろう。しかし、質疑応答で直接 答えた内容ではなかったため「夫れは何故か」という具体性のない問いかけをしたように見せかけて、総括的な供述として付け加え、訊問のまとめとしたのだろう。
ついでに言えば、実際の訊問では、阿部定の言ったことをそのまま記録したのでは、訊問が右往左往していたことが知れてしまう。そこで、都合のいい箇所 や、阿部定がすんなりと供述した箇所だけを残して、言い争いをした部分や、判事の思いに合わない部分を削ってしまったのかもしれない。だから、あとで述べ るような、主語の不明な問いかけになったり、上の引用文の先頭にある「夫れは以前石田の頸を締め乍ら関係をすると感じが良いと話した事がありましたが」という具合に、既に話して聞かせたことをもう一度言って聞かせる、つまり「以前お話ししたことを繰り返しますが」といった雰囲気で供述して、話の流れにちぐはぐ感を生じさせてしまった原因になったと思われる。
言うなれば、第一回訊問は、その意味で失敗作であり、その失敗に懲りた予審判事は、以後、素直に一問一答を記述すると、二進も三進もいかなくなることを 恐れ、第一回訊問の最終部分で成功したことに味を占めて、供述全体を物語のようにまとめて記載したほうが、阿部定の了解をとりやすいことを学んだのではな かろうか。それが、第二回訊問以降の、物語的な書き方をされた調書となっていった原因のような気がする。
さらに言えば、その僕の仮説からすれば、第七回と第八回は、文章の雰囲気が違い、予審調書全体の流れから外れてしまう。そのことが、僕に、第七回と第八回は、どこかから別途に持ってきて貼り付けたもの、という疑いを抱かせる理由となっている。
◆「オカヨ」と「お加代」の分布から見える調書切り貼り疑惑
ところで、少し寄り道になるが、この第一回訊問と第五回の訊問の挙げれば、第一回訊問で、「問 石田を殺す晩も死んで呉れとは云はなかったか」という不思議な質問が予審判事からなされている。この質問の奇妙なと ころは、主語が誰なのかが判然としないことだ。「死んで呉れ」と言ったのは阿部定なのか、それとも石田吉蔵なのか。どちらともとれそうな曖昧な質問の仕方である。
もともと、 このように主語を省いた曖昧な会話をするのは、普通は初対面の相手と最初に話すといったときにはほとんどありえないことだと思う。会話で主語が省かれやす いのは、ある程度会話が進んできてからであろう。つまり、主語が誰かということをあえて明示しなくても、質問者も応答者も、互いに主語が誰かを認識できる までにコミュニケーションがとれている場合に、主語が省かれやすいのだ。
ところが、阿部定は、その主語のあやふやな問いに対して、「予審調書」では、即座に答えているように見える。その応答の仕方から見ればすれば、既にかなり 話し込んでいた段階で、この問いが発せられたように思われる。だが、第一回訊問を読む限り、そんなに話し込んだ様子はうかがえない。つまり、何かが欠落し ているとか、あるいは、別途に取られていた調書を、どこからか持ってきて、そこにぽんと切り貼りしておいたとかといった可能性を拭い去れない。
第一回訊問で気になる箇所は、もう一つある。それは石田吉蔵が、阿部定に「オカヨ」と呼びかけているとなっている箇所だ(ただし、「訊問事項」版では、第一回から第六回まで一貫して「お加代」となっている。ひょっとして編集の際に表記統一をしたのかもしれない)。 もちろん、その当時、阿部定は「田中加代」という偽名で、吉田屋に勤めていたのだから、「オカヨ」と呼びかけるのは当然である。おかしい点は、そういうこ とにはない。第一回訊問以後は、「オカヨ」という表記は登場しなくなり、「お加代」となっている。ところが、第五回訊問も途中、それも殺人シーンになって から、どうしたわけか「オカヨ」が突如、復活して再登場してくるのだ。そのことを明示するため、下のような「オカヨ・加代」分布図を試作してみた。(「オカヨ」と「加代」が登場してくる順にすべてを拾った)
語句 第一回訊問 第二回訊問 第三回訊問 第四回訊問 第五回訊問 第六回訊問 第七回訊問 第八回訊問 オカヨ・お加代 ▽「オカヨ俺はお前の為めなら(石田)
▽オカヨといつて私に抱きつく× ▽田中加代と云ふ偽名で
▽田中加代と偽名して▽「お加代さん離れにお客さんですよ」
▽黒川加代と云ふ名で其旅館に泊り▽お加代と遊び歩いたのだが(石田)
▽お加代に引張られたのだ(石田)
▽お加代とは絶対に関係しない(石田)
▽「お加代」と云ったり
▽オカヨお前俺が寝たら(石田)
▽「オカヨ」と云ひ乍ら
× × × ひょっとして、途中で書記官が交代したために、表記のぶれが生じたとも思えるが、僕の推理は、第一回のその部分と第五回のその部分は、同じく殺人に至る シーンで内容的にも関連があるところから、同じ日、あるいは同じ訊問回の内容として、同じ書記官によって作成されたものではないかと思っている。要する に、一つのつながりのある一本の調書が既にあって、それを第一回と第五回に振り分けて切り貼りして付け加えられたものではないかという推理だ。すると、第 一回にあるあの主語の不明な問いかけも、俄然意味を持ってくる。
ただし、そうした調書の切り貼り作業が、「予審調書」の刊行者の手によるものとは必ずしも言えない。予審裁判の書記官が、そのように調書の切り貼りをし た可能性も否定できないからだ。なお、今後も、この言葉の分布図は、さまざまに言葉の対象を変えて作成していくつもりだ。
◆殺意の形成を解く鍵は事件前日の行動にある?
阿部定が、愛人の石田からそれとなく別れ話を切り出されて、それが一気に「石田を殺して永遠に自分のものにする外ない」という決心にまで到達してしまったのか。その鍵は、事件の前日の行動の中に隠されているのではないかと思っている。
これについて、阿部定自身も、5月17日という日を特別に取りあげている。
石田とあの待合(東京都荒川区尾久四の一八八一、まさき)に泊ったのが十一日(昭和十一年)でした。わたしと吉蔵さんはその晩からまる一週間、どの夫婦 よりもむつまじく、世界のだれよりも幸福にくらしていたのでした。一週間も極端な生活をつづけると、どうなるのかは、ご想像におまかせする以外ありませ ん。十七日の昼ごろから、もう二人は、なにがなんだかわからなくなってしまいました。
こうした普通でない、ふかしぎな気持の中で、あの人は自分の首を、自分でしめていたのです。(「わたしは石田を殺さない」阿部定 『阿部定伝説』七北数人編 ちくま文庫)
では、いったい阿部定は、5月17日の昼ごろから、どんな思いでいたのだろうか。念のため、事件直前までの行動を振り返ると、まず、昭和11年5月17 日になったばかりの真夜中に、頸を絞めて性的な快感を得るという戯れに興じはじめた石田と阿部定は、その行為の結果、石田の頸が赤くなるという困った事態 が引き起こされたため、その日の午後に、その処置をするべく阿部定が一人で銀座の資生堂に行って、薬を買っている。
この日の行動を分析するための、最も大きいファクターとなるのは、第一に、久しぶりに外に出掛けたということだと思う。しかも、金策にからまない、石田 の世話をする目的だけのための外出であった。そんなふうに外出したことは、3週間以上にわたる愛の逃避行の期間中、初めてのことだ。阿部定としては、当初は、医者に診せてすまそうと思ったが、石田が「それは嫌だ」と言い出した。それで近所の薬屋で適当な薬を買ってこようかと、持ちかけると、石田 は反対しなかったので、阿部定が一人で外出したという経緯になる。
しかし、それなら、近所の薬屋で間に合わせればいいわけだが、阿部定はわざわざ銀座まで遠出してしまった。
尾久四丁目の「満左喜」から銀座までは結構距離がある。近くを走っている王子電車(王電。現在の都電荒川線)を利用して王子まで出て省線に乗るという手もあるが、阿部定はそれまでほとんど市電を利用していないようなので、まず候補から落ちる。
省線を利用するにしても、田端の駅まで女の足なら歩いて20分近くかかる。田端から有楽町まで、あるいは最初から資生堂を目指していたなら新橋まで乗っ たことだろう。今なら山手線で20分くらいしかかからない距離だが、当時は電車の性能も、今より低いことが考えられるから、もう少しかかったことだろう。 それよりも上野に出たほうがよほど早い。
しかし、阿部定は省線を利用したとは言っていない。どんな交通手段を使ったか供述にないので不明だが、たぶん逃走時にも利用した尾久三業のタクシー会社に 頼んで、円タクで銀座まで行ったのだろう。だが、その場合でも上野のほうが距離的にも近いから、上野まで円タクで行って、そこで買い物をするというのでも よさそうである。それなのに、阿部定は石田に言われたわけでもないに、わざわざ銀座に出たような感じが予審調書の行間にはある。しかも、銀座ならいくらでもほかに薬局があ りそうなのに、銀座では端っこのほうにある資生堂を選んでいる。化粧品で有名な資生堂に、昔からパーラーがあることは知っていたが、薬局があろうとは、長 年東京に住んでいる僕も知らなかった。そこに阿部定の気位の高さと同時に、この外出が阿部定の心の中で、何か特別な位置を占めているのではないかと感じさ せるのである。
しかし結局、資生堂では、最初は石田の赤くなった目を治すために、目薬だけを買ったのだが、阿部定は、そのまま帰ろうとはせず、「モナミ」という、当時としてはモダンな名前の喫茶店に寄って、夕食に当時としては洋食の代表格であるチキンライスを食べてコーヒーを飲み、土産に野菜スープと西洋菓子を買うという、まさにモダンを地で行く行動を取っている。しかし、これではいけないと思ったのか、また資生堂に戻って、今度は30錠入りのカルモチンを買う。それでさっさと帰るのかと思ったら、そのあとさらに、これまた銀ブラの定番とも言える高級フルーツの千疋屋に寄って西瓜を買い求めて、ようやく尾久の満左喜まで帰ってきたのだ。
「予審調書」ではさらりと語られているので、一見すると、特段変わったこともなさそうに思える一連の行動だが、僕は、この行動の中に、伝法な女の変奇なエピソードではなく、困った亭主の世話を焼くことに喜びを感じはじめた世話女房の姿を見る気がしている。
そこには、借金の申し込みという辛い思いを味わうことのない、久しぶりの気楽な外出という背景があり、それも自分から言い出したことではなく、石田に頼まれてやっているという精神的な支えのようなものがあるようにも思える。
わざわざ遠出してまで情夫のために薬を買い求めるなど、普通なら面倒くさいことであろうが、その反面で、阿部定の心の中には、石田のために自分がここまで尽してやっているという、世話女房的な喜びがあったのではないかと僕は思ったりする。
もっと言えば、そのとき阿部定は、まるで本当の女房になったような世話の仕方をしながらも、結局は女房にはなれない自分の悲しい立場を、あらためて痛感させられ たのではないか。それが、用事がすんだはずなのに、相変わらず銀ブラを続けていた理由のような気がする。つまり、心が乱れていて、帰りにくかったのだ。
ただ、そこには少しだけ開放感のようなものがあって、そのため、洋菓子を買ったり、喫茶店に寄ったり、チキンライスを食べてみたり、西瓜を買ったり、文字通り銀ブラを楽しんでいるふうである。
が、そうして開放感を味わいながら銀ブラを楽しんでいたが、それにのめりこめなかった。つまり、途中で、現実に引き戻されたのである。それが資生堂に再び引き返して、カルモチンを買うという行為につながっていったように思える。そこに、僕は阿部定の逡巡を見る。これは単に素人の類推にしかすぎないが、誰でも長時間にわたって一つのことに懸命に熱中し続けてきたあとで、ふと開放的な雰囲気に置かれてみると、そこにどこか しら隙間風が吹いてくるような感じを受けることがある。いわゆる「荷下ろし症候群」とか、燃え尽き症候群と呼ばれる心理状態だ。心が空虚感に襲われ、ぽっ かり明いた穴に隙間風が入り込んでくる。
その隙間風は、「こんなに私が尽しているのに、結局あの人とは夫婦になれないのだ」という思いであったはずだ。それは「石田が家へ帰れば自分が介抱した様 にお内儀さんが介抱するに極って居るし、今度別れればどうせ一月も二月も会へないのだ。此間でさえ辛かったのだからとても我慢出来るものではないと思ひど うしても石田を帰し度くありませんでした」という供述に代表される感情である。
「石田を殺して永遠に自分のものにする外ない」という思いは、言うなれば、愛人から本妻への脱却欲求が引き起こすところの心理だろう。妾になるのを嫌っていた阿部定は、正妻に憧れていたはずだ。単なる遊びや浮気、あるいは性の快楽だけを追求する遊女(あそびめ)の感覚しかなかったなら、そんなふうには考えはしないだろう。相手の命を奪ってまでも添い遂げたいという、芸能マスコミでいうところのいわゆる略奪愛≠フ感情が、そこにある。
◆殺人決行の堅い扉をこじ開けたもの
しかし、「石田を殺して永遠に自分のものにする外ない」という殺意を持っていても、誰しもその実行にあたって、良心がとがめたり、モラルは破れないという 葛藤に悩み、さまざまに逡巡すると思う。その良心やモラルの壁を破ったキーワードが、「あの人は、殺されてもいいと言ったんだ」という、阿部定特有の思い 込みだったのではないか、というのが僕の推理なのである。
つまり、「厭なのを殺したんじゃないんだから。殺してくれって、何遍も私に言ったんだから」という阿部定の思い込みが、殺人の決行という実行行為に突き進ませたのではないだろうか。
もともと、阿部定が思い込みの強い女だったのかどうかはわからないが、その思い込みの強さは、事件の一週間前に観た芝居の感想にもあらわれている。出刃包丁を買おうと思いついたあの芝居だ。
この「つや物語」という芝居は、泉鏡花の原作ではあるが、当時上演された芝居そのものは、台本が書き直されているようだ。ともかく、阿部定はこの芝居を見て、「その狂言は小きんと云ふ芸者が出刃庖丁で可愛いゝ男田之助を殺してその血で襖に字を書くのを見てとても感動した」(昭和11年11月26日付時事新報)として、出刃包丁を買おうとした行動と、「定吉二人キリ」と死体や死体の横に血文字で書くという行動につながっていったと証言している。
ところが、「新派の花道」というサイトでは、阿部定が証言した芝居の筋は、「実際はまったく反対の筋で、清(せい)の左腕をへし折った悪役の代議士篠山(ささやま)を(芸者の)小今(こきん)が出刃包丁で刺し殺し、自分の腋の下も刺し流れ出た血で清に自分の姿を襖に描かせ、自分は喜んで死んでいくのです」(カッコ内は筆者の註)とあって、阿部定の記憶違いが指摘されている。これは、僕には、記憶違いというよりは、思い込みの強さが生んだ誤解としか思えない。つまり、芝居の筋を勝手に解釈して、芝居の筋とは違う行動をしてしまったのだ。
ただし、この芝居を観た時期は、恋しい男に会えず、焦燥にかられていたわけで、多少なりとも神経が衰弱していたため、芝居の筋を間違えて解釈してしまった可能性もある。阿部定自身も「身を入れて見る気はなく役者を見ても石田の方が良いなあと矢張り石田の事ばかり考へて居りました」(第五回訊問)と供述しているくらいだから、まともに芝居の筋を追っていたとも思えない。ただ、出刃包丁で人を刺し、血で襖に絵を描かせるという強烈なシーンが目の前で展開されるに及んで、芝居とは別の自分だけの考えを触発されたのではなかろうか。
僕の考えは、単なる想像でしかないが、それよりも大きな問題がある。それは、そうした阿部定の記憶違いを、どうして警察も検察も、また裁判長も指摘し なかったのかということだ。阿部定の記憶違いくらいは、実際に芝居を観れば、すぐにわかる。いや、芝居を観なくても、劇場に訪ねるとかして、「阿部定という人間がこう言っているが、芝 居の筋は実際はどうだったか」と問えば、説明してくれるはずだ。なにしろ、芝居に触発されて、殺人行為の演出を思いついたというのだから、社会に与える影響は大きいはずで、模倣犯を防止するうえでも、捜査はきちんとやっておかなければならないと思う。
調べれば容易にわかるこの事実を、なぜ裁判が結審するまで、司法は追及しなかったのだろうか。なぜ、阿部定の供述を、そのまま公判廷に持ち出してして平 然としていたのか。弁護人はなぜ、そのことに気づかなかったのか。あらゆる関係者が怠慢、杜撰と言われても仕方がないと思う。
ともあれ、石田の言った言葉は本心だったのか。それは単に恋しい女を喜ばすための方便だったのではないか。阿部定は、本気で信じてはいけなかったのではな いか。石田の本当の気持ちがどうだったのかは、今では誰もわからないし、類推することも危険である。だから、理論的にはどうあれ、嘱託殺人だったとはっき り断言することも、また自殺幇助だったとも明確に断言できない。ともあれ、その日の外出中に、阿部定の心の中で、何か確信のようなものが生まれた可能性は あると思うのだ。
いずれにしても、と僕は思う。実際のところ、阿部定は本当に強い殺意を抱いて、石田吉蔵を絞殺したのだろうか。これは案外、偶発的な殺人であったのではな いか。そんな推測から、僕自身はいまだに抜けきれないでいることも確かだ。つまり、たとえば、まだ昨日今日の経験で、頸を絞めて性的快感を得るという遊び に慣れていない者が、昨日の厄介事は記憶にあったものの、今度こそ強く絞めても快感が得られるように、再び挑戦してみたところ、男が死んでしまったという 偶発事故の可能性である。
しかし、それがそんな無様なことが真実であったとしても、たぶん、阿部定自身は否定することだろう。「予審調書」その他の資料を見て感じるのは、阿部定の 極端な気位の高さである。そんな気位の高い女が、「自分が慣れないため、へまをして、愛人を殺してしまいました」などと女の沽券にかけても、主張できない と思う。
どちらにしても、首を絞める性戯をきっかけに、相手を殺してしまいたいという殺意にまで発展していく彼女の心理的なプロセスは、「予審調書」では、逐一つ まびらかにされているように見えるものの、実際はどこかでぽんと跳躍しすぎている感じがある。いったいどの時点で、阿部定の殺意が生まれたのか、本当に殺 すつもりがあったのか。僕自身の中でも、まだ結論は出ていない。
◆凶器は本当に「牛刀」と言っていいのか
阿部定事件で、やや見過ごされてきたのが、局部を切り取った凶器についてだ。そう言うと、「そんなことは決まっている」と答える人が多いかもしれないが、実際は、 この問題は、調べれば調べるほど、どんどん闇の奥へとはまり込んでいく。阿部定が使った刃物は、いったいどんな刃渡りがあり、どんな形状をしていたかということが、存外あやふやなのだ。たとえば、
「性器を刃もので斬りとられていた」(中田耕治)
「凶行に使用した刃渡り五寸の肉切庖丁は、枕もとの蒲団の下から出てきた」(戸川猪佐武)
「急所を根元から剃刀のようなもので完全に切り取られており」(昭和史全記録)
「『石本のおちんちんがあれば石本と一緒のような気がして淋しくないと思い』下腹部を庖丁でえぐったという。切ったあとも、切口を撫でたり、指を挿入してみたりした」(岩川隆)
……という具合に、現代の作家や著者でさえも、その凶器の名称に関する表現は同一ではない。このことは、結局、その凶器が特定されずに、曖昧なままで今日まで来たことをあらわしてもいる。つまり、たぶん切断したという事実に押されて、凶器の種類まで記憶することがなかったためだろう。あるいは、凶器などどうでもいいと思っている人が多いためかもしれない。しかし、いったん凶器の問題を考えはじめると、実に深い闇の中に押し込められてしまうのである。
そのことを考える前に、まず、その刃物を購入したきっかけをおさらいしてみよう。これについては、まず「予審調書」を見るしかないが、そこには次のようになっている。
まず、阿部定は、昭和11年4月23日早朝から、石田との愛の逃避行を開始する。しかし、途中で、石田からの提案で、いったん別れることになり、石田は自分の家に帰り、阿部定は遠縁の稲葉方に戻る。そこで、孤独の寂しさで嫉妬と焦燥にかられながら、阿部定は再び石田から連絡がくるのを待っていた。そんな昭和11年5月10日の晩に、外出ついでに明治座で見た芝居がきっかけとなり、「自分も出刃庖丁を買って石田に巫山戯てやろうと云ふ気に」なっていたところ、その夜(5月10日の晩)11時頃稲葉方に帰ると、石田から電話があったことが告げられ、喜び勇んで、翌日(5月11日。芝居を見た翌日になる)、上野に出掛けたが、小遣いが不足したので半天と袷を古着屋に売ろうとしたものの小僧しかいなかったので、主人の帰るのを待つ間に、活動(映画)を見て、ウイスキーの入ったコーヒーを飲んだあと、寿司屋で土産の寿司を買ったら、その寿司屋の二、三軒先に金物屋があったので、そこで出刃包丁ではなく牛刀を買ってしまうという経緯になっている。
このとき牛刀を買った理由は、凶器として威力がありそうだったからではなく、単にその店に出刃包丁がなかったからだと、阿部定は公判で証言している。
さて、この経緯から見えてくることは、まず、この刃物は、石田吉蔵を殺すためにぜひとも手に入れようという強い意思で購入されたものではなかったということである。要するに判決文 に「痴戯のため予め購い置きたる」と表現されているように、石田を驚かすための遊び心で購入したものである。だから、かなり軽腰の感じで、この刃物を買い求めたことになる。
もっと、簡単に言えば、石田に再会できるという嬉しさに舞い上がって上野に出掛け、映画を見たりコーヒーを飲んだりしてうろうろしているうちに、近所に金物屋が見えたので、「そうだわ、ついでにこのあいだ芝居で見た出刃でも買っておこうかしら」と思い出したという、いくぶん安直な感じだったと思われる。そうした軽い感じで買い求めた刃物だから、凶悪なものでなかった可能性は高い。そのことを考えるときに参考になるのが、公判廷での阿部定の証言だ。「出刃包丁」から別の刃物にした事情について、第一回公判の様子を伝えた新聞報道では、次のようになっている。
裁「九日に明治座に行つてつや物語を見たんだね」
定「その狂言は小きんと云ふ芸者が出刃庖丁で可愛いゝ男田之助を殺してその血で襖に字を書くのを見てとても感動した」
とてお定が吉蔵殺しに用ひた「定吉二人キリ」の血書のヒントはこの泉鏡花の原作品から得たことを語り五月十一日の晩に下谷黒門町の上田金物店で出刃庖丁を買ふ心算で入つたが出刃庖丁がなかつたので肉切庖丁を買つて戻つたと述べる(昭和11年11月26日付時事新報)
……要するに、出刃がなかったから、別の包丁を買ったという、これも少し安直な選択だったのだ。
ただし、ここで、ちょっと寄り道を許していただきたいが、この公判でのやり取りには、いくつか問題点がある。
第一の問題点は、裁判長の言い方を素直にとると、5月9日に明治座で問題の「つや物語」を見たことになってしまうことだ。ところが、「予審調書」にしたがえば、これは5月10日の誤りだ。
この点については、多くの評伝や解説書でも疑問符を付けられているが、僕の推理では、たぶん裁判長の単なる勘違いだと思う。実は、この混同は無理からぬことでもある。つまり、「予審 調書」の書き方が悪いせいで、多くの人が混同してしまうのだ。その「予審調書」の問題箇所は次のとおりだ。
九日は稲葉方で成田様へ行く為め留守番を頼まれ、留守居したが、本も碌々読まず、矢張り石田の事許り考へて居りました。其晩も碌々寝られず十 日は大掃除だつたので、近所の喫茶店に行き、ビールを飲んで夕方帰ると七日に注文した羽織が届いたので、紐を買ふ為め浅草に出掛けて、明治座で芝居を見ま したが、身を入れて見る気はなく役者を見ても石田の方が良いなあと矢張り石田の事許り考へて居りました。其芝居には出刃庖丁を使う場面があったので、自分 も出刃庖丁を買って石田に巫山戯てやらうと云ふ気になり、其晩十一時頃稲葉方へ帰りました。(「ドキュメント日本人」版)
「予 審調書」のこの部分の文章は、ちょっと読みでは、文章がすんなり頭の中に入ってくるように思ってしまうが、詳しく読むと、文章が整理されていないせいか、誤読を引き起こしやすい文章構造になっている。
まず、日付がたくさん出てきて、それに惑わされる。さらりと読んだくらいでは、時系列が摑みにくく、まるで9日に包丁を買ったような気にさせてしまう。とくに「十日は大掃除だつたので」以降の文章の時系列の解析は、掛かり具合を注意深くたどっていかないと、勘違いしやすい。
そのことを考えているうちに、ちょっと面白いことを発見した。阿部定裁判の裁判長だった細谷啓次郎が書いた『どてら裁判』の中で予審調書の一部が引用さ れているのだが、それを読むと、どうしたわけか、上の引用文中で傍線で示した「九日は稲葉方で〜其晩も碌々寝られず」の部分が欠落しているのだ。細谷啓次 郎が行数調整のために削除した可能性もあるが、もともとの予審調書にはなかった可能性もある。
それはそれとして、この部分では、ほとんどどの「予審調書」でも、その前の段落にある「八日の日も同じ様な気持ちで一日暮しましたが」とあるのを受けて、次の段落では「八日の晩も矢張り寝付かれず」という具合に日付を理解しやすいように手を入れてある。ところが、この「八日の晩も」の部分が細谷啓次郎が引用した予審調書では、「その晩も、やっぱり寝つかれず」と指示代名詞で処理されている。
細谷啓次郎が引用した予審調書が本当のものだったとしたら、それを読んだ細谷啓次郎にとっては、阿部定の行動を日付を追って理解するのが、二重三重にさらに困難になったことだろう。細谷裁判長が、日付を間違えたのも無理はない、と僕は思う。
細谷裁判長は、粋のわかるちょっと軟派系の人であったというのが僕の感想だが、新聞で伝えられた裁判長の公判廷での質問内容は、マスコミ的にデフォルメ されているのか、そこいらのエロ親父と変わらなく見え、事件の真実を追求するという態度に欠けていたようにも思わせる。だから、ひょっとして裁判長は肝心 な部分を読み飛ばしてしまったのではないかとさえ考えられないではない。いや人のことは責められない。かく言う僕も、最初はずっと9日だと思い込んでいた のだ。
第二の問題は、出刃包丁を買うつもりで金物屋に行ったが、出刃包丁なかったから別の刃物にしたというくだりに対する疑問だ。これは僕にはにわかに信じがた いことだ。小さな田舎町の金物屋ならともかく、下谷区上野町と言えば、今では上野のまん真ん中であり、当時でも一大繁華街であったはずで、そんな場所の金物屋に出刃包丁が置いてないはずがない。すると、もっと別の理由があるのではな いかと思ったのである。そこで僕が真っ先に考えたのは、ひょっとして阿部定は包丁の種類を見分けられなかったのではないかということであった。その推理の根拠は、阿部定が逮捕される前年に妾として囲っていた横浜在住の男の聴取書からだ(この聴取書は、「訊問事項」版、「公判記録」版、「前坂版艶恨録」などに収録されている)。その男性の聴取書には、
私の働いて居る事務所にはいつも五六人位の使用人が居るので之に一食宛やるにしても一日相当の額に上るので材料を買つて来て定に炊事をさせてやつたら安く上るだらうと思つてそのことを定にいいつけましたがあの女はそんなことは全然駄目で(「公判記録」版)
……とあって、阿部定は普通の主婦仕事がからきし苦手な女だったと指摘している。しかし、この男の言うとおり、いくら主婦仕事の苦手な阿部定でも、既に芝居で、たとえ作り物であろうと出刃包丁を現認(げんにん)しているわけだから、出刃包丁とほかの包丁の違いくらいは見分けがついたはずである。なにしろ、牛刀と出刃包丁とでは、形状の差において歴然としている。そこで、僕の推理は的外れとなった。
◆出刃包丁を買えなかった阿部定の気後れ
ところが、もっと調べていくと、ひとつ興味ある記述に出くわした。岩川隆の『殺人全書』(光文社文庫)に「そこで金物屋に行って出刃包丁を買おうとするが、しかし、言い出せず、肉切包丁を買ってしまう」(太字及び傍線は筆者) とあったのだ。
実際に、この岩川隆の記述には、裏付けもある。それは、「九日本人ガ『明治座』ニテ芝居見物中『新作艶物語』ノ中ノ『小金』トイフ芸者ガ出刃庖丁ヲ懐ニ入レテ、ソノ色男ノ親元ノ所ニ行ツテ啖呵ヲ切ル所ガアリ、芝居見物中モ石田ノ事バカリ考ヘテ居タノデ、コレヲ見テ畜生出刃庖丁デ嚇カシテヤラウト思ツタト云ヒ、五月十一日石田ニ会ヒ度クテ我慢ガ出来ズ、新宿ノ「明治屋」旅館ヘ行ク途中出刃庖丁ヲ買ヒニ金物屋ニ寄リタルモ、他ノ客ニ遠慮シテ出刃庖丁ヲ下サイト云ヘナカツタノデ肉切庖丁ヲ買ヒ」(「阿部定の調書」相対会研究報告)とあるからだ。
つまり、阿部定は他の客の存在に気後れして「出刃包丁をください」とはっきり言えず、そこいらにあった適当な刃物を買ってしまった可能 性が出てくる。それがたまたま肉切庖丁と呼ばれる部類の刃物であったということになる。
阿部定がもし台所仕事に慣れた普通の主婦だったら、「出刃包丁くださいな」と言って買うくらいは簡単にできただろうが、ハイティーンから三 十路まで主に娼妓として暮らしてきて、主婦仕事にほとんど慣れていなかった阿部定には、出刃包丁を買うという簡単な行為ですら、何かしら心理的な抵抗を覚 えることだったのかもしれない。
そんなふうに、ある意味で、自分の無様さをさらけだすような気恥ずかしさをともなった購入の経緯だったから、阿部定は公判で包丁の種類の正確な名称につい て追及されても、わざとそれに拘泥しなかったのかもしれない。たとえば、堀ノ内雅一の『阿部定正伝』には、公判でのこんなやりとりが載っている。
裁判長――お前は五月一一日の晩、下谷区元黒門町五上田という家で出刃包丁を買ったが、それは何にするつもりだったか。
定――その頃、私は石田と別れていましたから、とにかく石田が別な女と変な真似をしているだろうから、脅かしてやる考えで出刃を買ったのです。
なんと阿部定は、「出刃を買ったのは何に使うつもりだった」と訊かれて、実際は出刃など買わずに牛刀を買ったはずなのに、「はい出刃を買いました」などと平気で 証言しているのだ。そこには、出刃だろうが牛刀だろうがどうでもいい、裁判長が言うからには出刃でいんでしょといったような自暴自棄さえ垣間見てしまうの は、僕の穿ちすぎた見方だろうか。
ただし、ここでもいくつか別の問題が出てくる。疑問の第一は、『阿部定正伝』をそのまま信じると、新聞報道と矛盾が生じてくることだ。
これについて僕は、たぶん堀ノ内雅一の筆のすべり、あるいは勢いあまっての勘違いではないかと思ったりする。この本のこの部分は「『報知新聞』より抜粋」 と注記されているが、堀ノ内が現代語表記に合わせて書き直したような気がする。その際に、彼はひょっとして、つい勇み足をして出刃包丁と書いてしまったの ではないか。それとも当時の報知新聞の記者が、間違ってメモしたかだ。
第二の問題は、先程の時事新報の記事をよく読むと、阿部定が買ったのは「牛刀」ではなく「肉切包丁」になっていることである。この報道にも少々違和感があ るが、実は、事件当初から、この刃物の呼称については、報道でも混乱があった。事件当初は「柳葉包丁」と新聞では伝えていたが、阿部定が逮捕されてからは 「肉切包丁」とする新聞も数多く出ている。これはたぶん警察が、阿部定逮捕後に「柳刃包丁」から「肉切包丁」に言い換えたからだろうと思う。現物を見たわ けではない新聞記者が勝手に包丁の名前を言い換えるはずがない。ところが、そうした情勢に逆らってか、阿部定が予審裁判の間、ずっと「牛刀」と主張し続けたせいなのか、「予審調書」では、終始「牛刀」路線を貫いてい る。そして、検察(予審裁判は、いわば検察と同じだから予審を含む)も、それに倣って「牛刀」路線を守ってきた。たとえば、昭和11年9月30日に出された予審決定書を報道した新聞には、「同室に持ち込みゐたる被告人所有の牛刀を以て吉藏の陰莖及び陰嚢を切り取り」となっている。
そうして予審段階で「牛刀」となっていたにもかかわらず、公判で裁判長から質問された阿部定は「肉切包丁」と証言しているのだ。そして、その後の判決でも凶器は「予め購い置きたる肉切庖丁」と認定している。
すると、予審段階では「牛刀」と表現されていたものが、ほぼ1ヵ月間に3回おこなわれた裁判を経るうちに、いつの間にか「肉切包丁」へと文字列の置換されていたというおかしなことになる。これを時系列的に整理すれば……、
S11/05/18 S11/05/20 S11/06/09〜 S11/09/30 S11/11/25〜12/21
事件発覚時━━━━━→阿部定逮捕━━━━━→予審裁判━━━━→予審決定書━━━━→本裁判━→判決報道(剃刀様or刃物)→(柳葉庖丁or肉切庖丁)━━━━━━━━━→(牛刀)━━━━→(肉切庖丁)━━→
検察・司法━━(報道と同じ?)━━━━━→(牛刀)━━━━━━━━━━━━━→(肉切庖丁)━━→
……というような推移の仕方になっている。
このように、特段に何の理由も明確にされないまま、刃物の名称が変化していったのはどうしてなのか。そのことを考える前に、実は、ここで少し妙なことが出てきて いるので、紹介しておきたい。それは、「予審調書」の第六回訊問の終わりごろの部分に、なんと「肉切包丁」が登場していることだ。これまで10年以上も「予審調書」と付き合ってきたのに、そのことに気づかなかったとは、まさに迂闊だった。
その名称が出てくるのは、先程示した、どこかほかから取ってきてつけたような箇所、つまり、阿部定の前に29点の押収品が提示される箇所なのだが、その押収品リストの19番 について、阿部定は、「一九の肉切庖丁は買つたもので石田の局部を切り取つたり名を石田の腕に彫り付ける時使つたものです」とすらすら供述している。それ まで延々と死体損壊に使った凶器は牛刀だと供述し続けてきたはずなのに、突如、それが「肉切包丁」であったと証言を翻していることになる。この変化を指摘した人は、これまでたぶんいなかった。
そこから、またまたいくつか新たな疑問が生じてくる。一つは、当時の報道が、この刃物を「牛刀」と呼んだのは、「予審決定書」が出された時点だけである ことだ。それまでは「剃刀様の刃物」あるいは「刃物」と呼び、次には「柳刃庖丁」あるいは「肉切庖丁」としていただけだ。つまり、この刃物を「牛刀」と呼 んだのは、「予審調書」だけである。
すると、「牛刀」という呼び名は、「予審調書」と、それを受けて作成された「予審決定書」の中にしかない。ここから生まれる推理は、阿部定は、この刃物 を「牛刀」と思い込んでいた可能性だ。つまり、警察や予審判事に「これは牛刀というものだ」と言われたか、それとも阿部定自身が、この刃物を「牛刀」とい うものだと思い込んでいたかのどちらかであろう。
主婦仕事が苦手だった阿部定でも、出刃包丁と他の庖丁くらいの区別はできただろうが、牛刀と普通の包丁との区別はできなかったのかもしれない。
第二の疑問は、「予審調書」には「肉切庖丁」という供述があったのにもかかわらず、どうして予審決定書では「牛刀」と断定していたのかということだ。被 告人の主張を枉げて「牛刀」と断定して本裁判に送るなどというのは、当時も今も、司法の現場で普通はありえないことだろうと思う。
先程の時系列表をあらためて見ていきながら、この謎を考えていくと、一つの可能性として浮かんでくるのは、その証拠調べの部分は、別の日に聴取されたの ではないかということだ。第六回訊問の主要部分は、たぶん予審裁判で供述したものなのだろうが、「予審調書」に第六回訊問回としてまとめられているもの の、最終部分にある証拠調べに関するその部分だけは、予審決定書を出したあと、つまり、9月30日以降11月25日までの期間に、聴取し直した供述調書な のではないかという推理が成り立つ。
要するに、この部分だけは、第六回訊問にはもともと含まれいなかったのではないかという可能性がある。その部分を欠いた、というより、その部分が付け加 えられていない予審調書をもとに9月30日の予審決定書が出されたが、そのあとになって、これではいけないという意見が入り、予審が終了してのちの別の日 に、あらためて聴取されたものではないだろうか。
「予審調書」を最初に刊行した者は、たぶん阿部定が出所した頃くらいの時期、つまり事件から5年以上経過したくらいの時期に、誰かから漏洩されてきた本物 の予審調書を手に入れ、それを刊行した可能性が高いわけだから、その漏洩資料の中に、予審裁判が終了したあとで改めて録取された訊問調書が混じっていて も、気づかなかった可能性がある。
だから、編集段階で、この問題の部分が、時系列的に符合しないことなど疑うことなく、単純に、この内容なら締めくくりとして都合のいいと思い、第六回訊問の最後に付け加えてしまったのではなかろうか。
もちろん、今言ったことは、僕の単なるアームチェア・デテクティブでしかないわけだが、この推理がもし正しければ、予審裁判が既に終了していたのに、ど うして別途に調書を取り直す必要があったのかということになる。愚考するに、それは、たぶん本裁判で矛盾を起さないための予行演習だったのではないかと思 う。
つまり、司法関係の偉い人が、本裁判では凶器を「牛刀」から「肉切包丁」に変更しなければ、おかしなことになると気づいて、慌てて、既に裁判所に送られ ている予審調書との整合性を保つために、あらためて凶器は「肉切包丁」とする供述調書を取る必要があったのではないか。そう考えると、「予審調書」の最終 段階になって、あえてやらなくてもいいのに、どうして、すべての証拠品を一堂に集めて、阿部定の供述を得ようとしたかのという理由も説明できそうな気がす る。
◆なぜ「牛刀」という表現は途中で消えてなくなったか
では、なぜ予審段階での「牛刀」という名称が消え、「肉切包丁」という名称に変わってしまったのだろう。これも僕の個人的な推理でしかないが、要するに 「牛刀」という表現は、あまりにもおどろおどろしくて、その刃物の実体に合わず、かといって、単なる「包丁」と表現したのでは、猟奇事件の凶器というには 迫力に欠けることになる。そこで、猟奇事件の凶器というイメージを損なわず、かつ実際のその刃物が持っていたちんけさを覆い隠すために、取り調べの後半段 階から「牛刀→肉切包丁」という文字列の置換がおこなわれたのではないだろうか。つまり、「牛刀」という表現を排除したのは、その表現が、この刃物と実体 的に合わなかったからではないか。
だいたい、局部を切断するための道具という条件だけで考えれば、かつての小学生が鉛筆を削るのに使っていた肥後守(ひごのかみ)でも、切って切れないことはない。何しろ既に死んでいる肉体なのだから、痛さに騒いで暴れることはなく、女性でも時間をかければ可能だろう。
切って持って行こうと思ひ額の裏に隠した牛刀を出して根元に牛刀を当てて切って見ましたが直ぐは切れず、可成り時間が懸りました。その時牛刀が滑って腿の辺に も創を付けました。それから睾丸を切り取る為、又、嚢の元に牛刀を当てて切りましたが仲々切れず、嚢が少し残ったように思ひます。
……と、阿部定は切断にはかなり苦労したと供述しているのだから、どこまで鋭利な刃物であったか疑問が残るところだ。意外にやわな刃物だったのではないかという印象を持つ。
それなのに、事件当初の新聞報道では、この刃物を「一尺五寸の柳刃庖丁」と伝えていた。包丁の長さまでは書いていない新聞も多かったが、「柳刃包丁」という点では各新聞がほぼ一致している。しかし、予審裁判では、これを「牛刀」と認定したのだ。
もともと牛刀と柳刃包丁とでは、形状から言ってもまったく異なる。柳刃包丁は刺身包丁とも呼ばれ、刃渡りが長く細い。これに対し牛刀は、形状のうえでは文 化包丁系列で、長いものもあるが、それほど大きくないものもある。ローストビーフを切り取るための刃物はちょっと凶悪そうに見えるが、あれはカービングナ イフと呼び牛刀とは言わない。牛刀はもともと欧米では、キッチンナイフと呼ばれる包丁で、これで野菜も切れば肉も切る。つまり一般家庭用の料理包丁なの だ。たまたま日本に住んでいた西洋人が、これで肉を切って料理している場面を見かけることが多かったので、「牛刀」というおどろおどろしい名前がつけられただ けである。言うなれば「和包丁」に対する「洋包丁」とでも表現すべきだろう。
ところが、日本には、昔から「牛刀をもって鶏を裂く」という中国のことわざが浸透していて、たとえば「前坂版艶恨録」の脚注にあるように「【牛刀】牛を切 り裂くのに使う大きな包丁」という意味にとる人が多い。しかし、阿部定が買った刃物は、「牛刀」という俗名こそついてはいるものの、今日の名称で言えば単なる普通の包丁であった。 そこで、司法としては、誤解を避けるため、急遽、「肉切包丁」と言い換えてしまったのではないだろうか。
そして、その言い換えの整合性を取るために、あらためて、阿部定に、買った包丁は肉切包丁であったことを確認させる調書をとったのだろう。だいたい、「予 審調書」をつぶさに読むと、この刃物が実際は、凶悪性のある長さと形状をそれほど持っていなかった可能性さえ見出せる。
まず、傍証として挙げられるのは、阿部定は、この刃物に関して、買ったあとでは、それほど強く意識していなかったふしがあることだ。たとえば、第五回訊問 には牛刀を買ってきたはいいが、「翌十二日になって女中に見られるといけないと思い牛刀は額の裏に隠して置き」とある。
額の裏というのは、主婦ならずともへそくりなどを隠すきわめてポピュラーな場所だ。つまり、バレないように厳重に隠したではなく、誰でもすぐに気づくよう な安直な場所に、それを隠したのである。
しかも、そのあとで出掛けたついでに西瓜を買って帰ったので、それを切ろうとしたときに、「その時は牛刀を忘れて 居たものですから女中に庖丁を借りて西瓜を切り」と、阿部定は牛刀の存在すら忘れ去っていたのだ。この無頓着さは何を意味するのだろう。
もし殺害や、人を害するための凶器として牛刀を決然として買い求めたのだとしたら、その凶器について「ああ、うっかりしてた、あれで西瓜を切ればよかった のに」などと後悔をめぐらせることがあるとは思えない。そこにあるのは、きわめて平凡な主婦感覚≠ナあって、禍々しい凶器で恋しい男の殺人を決行しよう とする妖婦感覚≠ナはないと思うのである。まして、この牛刀は当初から局部切断の目的で購入したものではない。殺したあとで「石田のオチンコをいじって居る内、切って持って行こうと思ひ」という具合に、人を殺したあとで、ふと、「そういえば、あれがあったわねえ」と思い浮かべたというような軽い感じの動機で、死体損壊の凶器として使ったのである。
それに、他人が見たとき、それを凶器と感じるようなものだったのかということにも疑問を抱く。そう考える周辺の証拠としては、阿部定の買ってきた牛刀を突きつけられても、石田吉蔵が、あまり恐怖を感じていないと見られる供述が「予審調書」にはあるからだ。
矢 張りその晩牛刀を出して逆手に持ち「ヤイ吉」と云って切付ける真似をする、石田は「小道具が足りない、逆手に持つ時は出刃にして貰いたいね板につかない よ、そんなものでは殺せない」と嬉しがって居り、又、牛刀を石田のオチンコの根元につけて他の女と何も出来ない様に切って仕舞う、と云うと石田は笑いなが ら「此奴馬鹿だな」と云って喜んで居りました。(第五回訊問)
石田は、阿部定が突きつけてきた牛刀にいったんは驚いた様子を見せたものの、その恐怖はあまり長く続かなかったようで、「出刃にして貰いたいね」などと軽くいなしている。つまり、これは脅迫シーンではなく、たぶん阿部定としては、恋人同士の戯れ合いとでもいうべきラブシーンとして語ろうとしたのではないだろうか。
芝居好きの石田は、舞台で映えるのは出刃包丁のほうだというイメージを持っていたのだろうが、実際に、阿部定の持っていた牛刀は、出刃包丁に比べて、それ ほど迫力がないものだったので、石田がおどけて見せたとも考えられる。もし、その牛刀が出刃包丁よりも凶悪に見える刃物であったら、石田はもっと違う反応 を示していたことだろう。
そうして、ある意味で猟奇事件にはそぐわない迫力に欠ける刃物であったために、裁判官は、あえて「牛刀」という凶悪なイメージを持つ表現を避け、実際に人 の肉を切り刻んだのだから「肉切包丁」と言い換えればいいといった感じで、言いかえがおこなわれたのかもしれない。そのため、普通なら裁判をすれば事実が 明確化するはずなのに、逆に「牛刀」という具体的な名称から、「肉切包丁」という漠然とした名称に、凶器の名称を拡散させるという、いわば司法判断の後退 とも言えなくもないことをしてしまったのだろう。
だいたい、実際は、刃渡り五寸、つまり刃の部分の長さが、たかだか十五センチくらいの、要するにちょっと大ぶりのぺティナイフくらいの刃物だったという説 もあるのだ。事件の強烈なイメージに押されて、凶器の長さをはじめ、さまざまな事柄を過大評価しがちになる傾向が、事件当初も今もあるのではなかろうか。
それに、もともと、もし芝居に触発されて牛刀を買い求めていなかったら、阿部定は局部切断などという真似ができただろうか。もし刃物が買えなかったこと で、局部を切断することがなかったならば、そんじょそこらに転がっている単なる愛人殺人となって、今では誰の口の端にものぼらない小さな事件となっていた ことだろう。
「新派の花道」というサイトによると、阿部定が見た芝居は、当時いろいろな事情があって、早く公演を切り上げていたという。阿部定が少しでも遅い時間に明治座に行っていれば、その芝居を見逃していた可能性が高いという。
要するに、偶然の恐ろしいほどの一致が、この事件を本人の意図とは関係なく、世紀の猟奇殺人にまで仕立て上げてしまったというのが真相かもしれないのだ。
◆凶行時間は本当はいつだったのか
「予審調書」を詳しく読んでいくと、なんとなく引っかかる箇所がある。それは、石田吉蔵はいったいいつ殺害されたかということである。この点では、「予審調書」には、なんとなく矛盾する箇所がある。まず第五回訊問で阿部定は「十八日夜明方石田を殺す迄寝床を敷いたまま石田と二人裸で寝て許り居りました」と言っている。
ところが、同じく第五回訊問の供述には、ちょっと違う時間経過が供述されている。まず、二人は昭和11年5月17日の夜12時(18日午前零時)ごろから首を絞める行為をはじめたのだが、そのうち「石田が『ウーン』と一度ウナリ両手をブルブル震はせてやがてグッタリしてしまったので紐を離し」た。つまり、このとき石田は死亡したと思われるが、石田を殺した興奮から、阿部定は身体の震えをとめるために卓子(たくし。テーブルのこと=筆者註)の上にあったお銚子をラッパ飲みで全部飲んでから、「石田が生き返らない様に喉の正面の辺りで腰紐を堅く一度結び、残りの部分を頸にグルグル巻き付けて両端を石田の枕の下に差し込んで」殺害を確実なものにする。そしてそのあと「様子を見る為帳場に降りて時計を見ましたが午前二時一寸過ぎて居ました」とある。この供述どおりだと、犯行は5月18日の深夜1時から2時の間くらいということになる。だから、逮捕直後の新聞報道にも、
定が石田を絞殺した正確な時間は十八日午前一時ごろで殺害後一たん待合の階下に降りて人の気配を見たが、別に變つたこともないのに安心して死體のそばに引きかへし約四十分位死體と戯れたのち切斷したもので、切斷後も死體を愛撫しつゞけて夜を明かした。(昭和11年5月22日付讀賣新聞夕刊)
……とあって、「18日午前1時殺害」説を唱えている。ところが、この2日前の別の新聞には、実は非常に興味あるデータが掲載されている。
石田吉蔵(四二)の死体は十九日午前東大法医学教室で村上博士執刀のもとに行はれたが死因は絞頸による窒息死と判明、兇行時間は十八日午前五時ごろ胃の中には菜葉魚肉、少量の水が残つてゐた、兇器は鋭利な刃物であつて急所は死後切つたものと判明した(昭和11年5月20日付讀賣新聞)
……とあって、まさに阿部定が最初に主張した「明け方殺害」説を支持しているのだ。ただし、この記事は「兇行時間」と言っているだけで、その「兇行」が殺害を示すものなのか、死体損壊を示すものなのかが判然としない。同日付の東京朝日新聞も讀賣新聞と同じように「兇行時間 十八日午前五時頃」と報道している。実に新聞記者らしからぬ隔靴掻痒の表現だが、たぶん警察の発表そのものが、そのように曖昧なものだった可能性もある。また、事件の最初の報道では「犯行は同日拂暁に行はれたものらしく」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とあって、「明け方殺害」説を支持している。
ところが、この「午前5時凶行」説は、どうしたわけか予審決定書でも判決文でも無視されてしまった。
まず予審決定書では「同月十八日午前二時頃前記待合『まさき』方さくらの間に於いて熟睡中なる吉蔵の頸部に自己の腰紐を二重に巻き付け、その両端を両手を以て強くひきしめて即時同人を窒息死に至らしめ」となっている。
同様に判決文でも、まず犯行の経過として、「同月十八日午前二時頃、酔余焦躁の念に駆られ、突如遂に吉蔵を独占せんには同人を殺害するに若かすと決意」したあと、腰紐で窒息死させ、そののちに「数時右吉蔵の死体に痴戯し居りたるか、同日午前五六時頃更に同人の死体をも独占せむとし、其の情痴の表徴たる局部を切取り、且自己の名を刻まんとし、予め痴戯の為め購ひ置きたる肉切庖丁(前同押号の一九)を取出し、之を使用して、右吉蔵の陰茎及陰嚢を、順次切取り」云々と説明している。つまり判決は、「午前2時殺害、午前5、6時頃死体損壊」説を唱えている。一見、法医学者の見立てと矛盾がないように思われるかもしれないが、なんとなく折衷案風で、素直に頷けない部分もある。
1時だ、2時だ、いや5時だ、と諸説紛々として複雑怪奇だが、もちろん、午前1時が午前5時になったところで、阿部定が無罪になったり刑が減軽されるとい うわけではない。しかし、そこにあるなんともいえない好い加減さというか、捜査や裁判での詰めの甘さが、今でも僕には少しばかり気にかかっているのであ る。
当時は、というよりも、特にこの事件に関して司法は、凶行時間をはじめ凶器や動機などにおいて、それほど頓着していなかったのかもしれないとも思う。つま り、現代の警察捜査のように、じっくり時間をかけて科学的なデータや根拠をもって犯人を追い詰め、真実を徹底的に明かしていくという姿勢をとるのではな く、犯人がさっさと自白しているのだから、無用な疑問を抱いて解決を長引かせることはない。事件のほとぼりは早く冷ましたほうがいいというような気持ち が、当時の警察や司法には先行していたのかもしれない。いや、それは警察や司法の意思というよりは、戦争遂行を混乱させるような事態は避けるべきだとする 国家の意思の反映だったのだろう。事件後、半年くらいで結審するという異例のスピード裁判になったのは、当時の国家のいろいろな思惑が絡んでいたと思う。
◆阿部定の思い込み≠ニ世間感覚≠ニのずれ
阿部定の「予審調書」を読み終えると、阿部定の供述が、まるで彼女の半生における金銭出納簿のような側面を持っていることに気づく。いつどこで芸妓屋に前 借何百円で住み替えて、その前借金を何に使ったといったふうに、調書にはしばしばお金の話が登場する。石田吉蔵との愛の逃避行中も同じで、彼女の供述に は、どこの待合でいくら払って、金が足りないときは、誰にいくら貰ったという話が、常に行動の底流にある。
このことにあるとき気づいた僕は、愛の逃避行中だけでもいいから、金銭の流れ、つまりバランスシート(貸借対照表)を作り、それを二人の行動経過と重ね合わせてみれば、これまであまり人が語ってこなかった阿部定事件の別の側面が見えてくるのではないかと思った。
ところが、その作業はそう簡単ではなかった。だいたい、どこからどこへ何時ごろ移動したか、手持ちの金はいくらあったのかということが、判然としない箇所がしばしば出てくるのだ。一度きちんと整理して、そのバランスシートを作ってみたい。
ただし、そこで思うのは、阿部定はお金をはじめ数字に対する記憶力にかなり自信を持っているということである。10代から30代に至るまでの前借金の歴史など、いちいち記憶しているのは、やや驚異でもある。
とはいえ、その阿部定の数字的記憶力は、思ったほどには物凄いものではないことが、そのうちわかってきた。たとえば、第二回訊問に、阿部定が丹波篠山にいたとき、金を盗んで警察の世話になる場面があるが、そのときの様子を阿部定は、「私が逃げる為、客の百円を盗んだのも此頃のことです」と言っている。ところが、公判になると阿部定は「丹波篠山で娼妓をしてゐる頃客の懐中から九十八円を盗み」(昭和11年11月26日付時事新報)と証言しているのだ。たぶんのちの捜査で、盗んだ金額は100円ではなく98円だったことが確定されたので、公判でそう証言させられたのだろう。100円も98円も大差ないと思うかもしれないが、公判でそのように証言するからには、100円を98円 に訂正するための調書をどこかで取りなおしておく必要があると思う。ところが、どの「予審調書」にも、その訂正部分が含まれていない。つまり、可能性とし ては、その訂正を記載した調書が欠落しているのわけである。そのことをもってしても、「予審調書」の信用性が少しだが疑われてくるのだ。
というよりも、少なくとも今日われわれが手にできる「予審調書」には、どこかしら欠けた部分があるということを推測させるものである。ともあれ、この例で見ても、阿部定のこと金銭に関する記憶力は、高いものの、やや大雑把なものであることがわかる。
しかし、そうした漠然たるが金銭的な記憶力が、彼女の金銭感覚の実態だったとも思われる。彼女は、金に金ばかりに固執した汚い女という色眼鏡で見られがちだが、実際は、ちょっと大雑把で、金に拘泥しないところがあったことが「予審調書」を読むとわかる。
たとえば、逮捕されるときに宿泊していた品川駅前の旅館に宿泊する際、自殺するつもりで買った品川―大阪間の三等切符を、番頭に命じて払い戻させている が、「予審調書」ではその金額をなぜか明示していない。「予審調書」にあるのは、「大変な事になった、もう生きては居られない、大阪へ行くどころではない からこの宿屋で死なうと決心し、買った切符は番頭に頼んで金を取り戻して貰ひました」というように、なぜだか知らないが、そして調書にそんな必要もないは ずなのに、文学的にさらりと心境が語られているだけだ。
また、この品川駅前の旅館に投宿中、阿部定は結構いろいろなことをしている。それなのに、そのことも語られず、同じく文学的にさらりと流されている。たとえば、「予審調書」では、「湯に這入ってからビールを一本飲み按摩を呼んで貰ひました(中略)所が警察から誰も来なかったので部屋で死なうと思い、朝女中に頼んでそれ迄の勘定を全部払ひ離れの部屋に移して貰ひました」とだけあっさり供述していて、支払った金額はいくらだったのかということや、何を飲食したかといった細かいことにまでは、阿部定は拘泥していないふうである。しかし、新聞報道では、かなり細かい内容が伝えられている。
兇行後女は男の現金と兇行に使用した兇器を持つて逃走したもので」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とあって、まるで阿部定が窃盗をはたらいたかのように報道されていることだ。逮捕後の阿部定は、この報道に接して、「たゞ石田の金を取つて逃げたと傅へられたことが心殘りでならなかつたと係官に訴へてゐた」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と報道されたように、そのような誤解をされたことに、とても残念がっていたらしい。
また殺人の動機について、事件直後の新聞報道には、「美 貌を鼻にかけ傲慢なところがあつた石田は定に待合を開いてやるからとか小料理屋を開かせるとか云つて定をひきずつてきた、定も打算的の女で石田から金をひ き出す為に色々と手段を講じてゐたが結局それは成功しなかつた、男に瞞された恨みから兇行を演ずるに至つたものではないかと見られてゐる」(昭和11年5月20日付讀賣新聞)と、阿部定は美人ゆえの傲慢さがあり打算的な女だと断じている。
しかし、「予審調書」を読む限り、実際は、石田吉蔵との愛の逃避行の最中には財布はすべて阿部定が握っていて、しかも金に窮すると愛人である大宮元校長に 借金しにいったりもしている。一方、被害者の石田吉蔵のほうは、店から持ち出した金を使い果たすと、金を工面してくるどころか、待合の部屋にこもったき り、阿部定の帰りを待つだけで、所在なくぶらぶらしていた。こんな猟奇殺人を犯すくらいの妖婦だから盗みくらいするのは当たり前だろうという世間の固定観 念で、阿部定像が歪められて伝えられていたのだ(現代の物書きにも、そんな誤解をしている人が時折いる)。
もう一つ世間の誤解の例をあげると、阿部定の遺書の筆跡についてだ。事件直後、凶行現場の様子を伝えた新聞に「外に便箋には『馬』と書かれてゐるなど猟奇に彩られる凄愴な情景だつた」(昭和11年5月19日付東京朝日新聞)とか、「枕元の便箋にも血で『馬』といふ謎の文字が書かれてあり」(昭和11年5月19日付都新聞)と いう一行がある。妖婦だから馬のような大きな局部を持った絶倫男性を求めてのことだろうとでも解釈したのか。ところが、この「馬」と読まれた文字だが、あ とでなんと「定」を読み間違えたものだったことが判明している。ただし、「予審調書」には、この手紙のことは書かれていない。本当に、そんな手紙などあったのか。それはそれとして、そんな読み違いを誘うような阿部定の拙い筆遣いに対して、新聞では、「遺書三通が發見されたが、いづれも品川館の封筒と便箋を使つて相當達筆にペンで書かれて居た」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)というように高い評価をくだしている。しかし、いったい、「定」の字が「馬」の字に読み違えられるような、ある意味できわめて読みにくい筆遣いを「達筆」と呼んでいいものかどうか。そこにも世間の固定観念を感じる。
ところで、阿部定の性格について、公判で検事が公式に明らかにしている。それによると、「お定の性格並に特異な感情から本件を惹起したもので」として、事 件の原因に阿部定の性格が影響していると断じ、その性格は「被告は何ものをも考へずに慾望通りに實行する、殺人の如き大罪も躊躇せずにやる、何事をも思ふ 通りやらねばならぬといふ氣質、性格、性癖をもつてゐた」として、以下のように列挙している。
一、我儘で衝動のまゝに行動する
一、虚栄心が強く濫費驕奢の精神高い傲慢不遜で反抗心が強い
一、勝氣で剛情で意地張りで懶怠性がある(こゝで檢事は痛烈に學校時代その他を指摘す)
一、破壞性がある
一、好奇心のまゝに動く
一、酒、煙草を嗜む
一、意志薄弱で情に脆い
一、熱しやすく冷め易い。機嫌が變り易く好悪著明、感情が激しい
(昭和11年12月9日付東京朝日新聞)
精神鑑定の結果から断じた発言のようだが、その鑑定人・村松常雄の作成した精神鑑定書の中には、こんな文章があったという。
現 在に於ける被告人の精神状態は、生来性変質性格異常か幼児よりの環境に依りて甚しく助長せられたるものにして、精神的及身体的にヒステリー性特徴を呈し、 且著しき性的過敏症(淫乱症)を有するを有するものなるか、本件犯行当時に於ける被告人の精神状態は、前期の如き性格異常と性的過敏との基礎の上に、其の 犯行前一週間に亘る極端なる性的耽溺の生活に因る、道徳的感情の麻痺身体的疲労、連日の飲酒と当夜の軽度の酩酊性的焦燥の因子か、其の実行を容易ならしめ たるものにして、殺害後数時間に亘り死体を玩弄し逃走を決意するに及んで、其の死体を損壊し、性器血液肌着等を形見として携帯し、自己の名を死体に刻み、 更に、流血を以て自己の名等を死体及敷布に記し、血液淋漓たる切断部を弄びて指を挿入し、指に余れる血を自己の襦袢に塗り、逃走後、宿屋に於ても切取りた る性器を弄びたる如きは、残忍性淫乱症(サヂスムス)及節片淫乱症(フエチスムス)に属する倒錯的傾向を有する衝動の相当に強く存せるものを暴露せるもの と為すべし、との旨記載(『どてら裁判』より)
素人だからはっきりとはわからないが、学術的にはかなり正鵠を射ている部分があるのかもしれないものの、何かしら、その底流に、阿部定に対する偏見がまっ たくなかったかというと、そうでもないような気がする。そこには、懸命に阿部定を淫乱症と決め付けようとしている姿勢が見えなくもない。
が、精神鑑定の結果を記したといわれる『阿部定の調書』は、残念ながらまだ手にしていない僕としては、これ以上は言えない。
ただし、阿部定事件の公判での担当弁護人であった竹内金太郎は、阿部定の性格について、「お定さんは勝気で、女の神田ッ子で、淡泊青竹を割った様で、操行頗る堅実」(「智照尼と阿部定」竹内金太郎 文藝春秋1951年9月号)と述べている。むしろ、竹内金太郎の評価のほうが、阿部定の実像に近いのかもしれない。
考えてみれば、どんな変質的な性格を持っていようと、それがストレートに犯罪へと結びつくわけでもなかろう。また、阿部定の猟奇的な行動は、誰に対して もそのようにしてきたといったものではない。ある意味で一過性のものである。阿部定事件で、もし阿部定がそのとき逮捕されず逃げ回っていて、次にも同じよ うな事件を起したのであれば、彼女の異常な性癖と断定することもできるが、阿部定は一度の殺人事件で逮捕されたのだ。
これはあくまでも私見だが、戦時には、ほとんどの国家で、精神面へのフォローをないがしろにしがちだと思う。精神病に対しては当然のこと、精神疾患と言 えないようなごく軽度の精神失調にも、対応がおろそかになりがちな傾向があると思う。日本の戦時中は精神注入棒と言って、尻を引っぱたいて、ちょっとした ノイローゼ気味の人間を、ケアもせずに軍隊へ戦場へと送った。
その事情は、今でも変わっていない。たとえばアメリカが仕掛けたイラク戦争にしても、退役後にさまざまな精神障害で悩んでいる人がいると、テレビの報道番組で報道されていた。
二・二六事件が起き、それに参加した兵士たちの処刑がおこなわれた直後に起きた事件ということで、それこそ淫乱症になりヒステリックになっていたのは、むしろ司法や精神医学者、そして報道のほうではなかったかと思ったりする。
ともあれ、この検事や鑑定人の指摘は、阿部定事件を見つめるための参考にはなると思う。
しかしながら、「予審調書」と本裁判、そして事件報道と「予審調書」を比べて読んでいくにつけ感じることは、捜査も審理も、果たして尽されたものだった のかという疑問である。何か適当に状況や証拠を分析して、えいやっとばかり駆け足でやっつけていったという感じが否めない。僕の考えでは、もっと事実審理 を充分におこなうべきだったのではないかと思う。
だからといって、阿部定事件が冤罪だというわけではない。そして、素人ながら量刑も妥当だと思っている。が、同じ量刑になるとしても、もっときちんとした判断が下されてもよかったのではないかと思える。細谷裁判長は、裁判の前に二人の陪席判事に、奥さんのメンス(月経)はいつかと、それとなく探って、妻がメンスでない時期を公判の期日を決めたという。「そんなくだらない心配をしたのは、まえにいったように、お定事件の記録を通読した結果、それを審判するにあたって、冷静に、厳粛に、なんらの性的興奮を起さないで、具体的に、卒直[ママ]に、詳細に尋問して行こうとする考えを抱いたにほかならなかった」(『どてら裁判』)という理由からだった。要するに、エロ裁判になりかねないことを考慮して、居住まいをただそうとしたのだろう。
だが、素人の目で、僕は思う。それは考えすぎではないですか、と。たとえ、どんなにエロい事件であろうと、事実を事実として突き詰めていく姿勢を持ってあたれば、エロ裁判に堕す危険はないと思う。そうした考えが、細谷裁判長にはあったのだろうか。
だが、穿った見方をすれば、細谷啓次郎の著書にあるこの公判期日を決めるときの話は、細谷特有の洒落ではないかとも思える。普通なら、公判期日をどうし て決めたかという話など、それほど世人の注目を浴びる内容ではなく、いわば楽屋落ちというか内輪だけの話なのだから、わざわざ著書に、数行も費やして語る ことでもないだろう。
何か、公判期日の決定に関して、いろいろと取りざたされたために、本当の理由を隠す言い訳として、陪席判事の妻のメンスという話をもってきたのではない だろうか。だいたい、その話ですら、要するにそれとなく陪席判事に聞いたわけだから、聞かれた本人ですら記憶にとどめにくいことだろう。つまり、妻のメン スの日を聞かれたか聞かれなかったかさえも、証明できない。実に老獪な言い訳だと思う。
阿部定の第一回公判があった昭和11年11月25日という日は、戦前の日本にとって、いや、日本史を語るうえで、きわめて重要な日付となっている。この とき、ベルリンで、日独防共協定が締結されているのだ。つまり、日本が世界大戦へと引きずり込まれていった、きっかけの一つとなった協定が結ばれた日なの だ。
この戦前の日本にとって重大な日に、阿部定の裁判を持ってくることで、国は世論操作をしようとしたのではないかとさえ疑われる。つまり、公判期日を決め る際には、必ずや上からの圧力といったものがあったと思われる。その圧力によって、たぶん、年内に決着をつけることという大命題をまず与えられ、そこから 逆算して第一回公判の期日を決めることになったが、そのとき、日独防共協定の日にぶつけろという、もう一つの命題を与えられたに違いない。
そんな圧力があったことを、誤魔化すために、細谷啓次郎は、陪席判事の妻のメンスの日という話をでっち上げたのではないか。もっとも、でっち上げといっ ても、普段から、細谷がちょっとした興味から、陪席判事たちに、日常会話の中で、実際にそんな探りを入れていたという背景はあったのだろう。だから、まる きりの噓ではないはずだ。
ともあれ、彼は戦前を生きた裁判官なのだ。今の僕らとかなり雰囲気の違う時代に彼は生きたのだ。彼を責めるだけの資格は、僕らにはないことだろう。
(了)