本文は定規で書いたような手書き文字で、使用された紙は感熱紙だといわれる。インクの色は赤であるが、マークの部分だけは黒で書かれていたという。 このうち、いちばんの問題は、ゾディアック事件で使われた丸に十字のマークがよく似ていることだ。 なお、「SHOOLL KILLER」については、当初、「SHOOL KILL」あるいは「SHOOLL KILL」「SKOOL KILL」など、さまざまな説が報道された。 ともあれ、たぶん「スクールキラー」と読ませたかったのであろうというのが、今では大方の認識になっている。それは、あとに続く「学校殺死」と呼応しているとするならば、やはり「スクールキラー」と解するのが、正解に近いのであろう。 ちなみに、「スクールキル」という川がアメリカに実際にあるらしい。そして、それが向こうの小説にも出てくるらしい。だが、多少スペルが違うようだ(SCKUYLKILL)。 そこで、「SHOOLL」のスペルだが、ゾディアックの特徴として、最後のLを重ねる傾向があったそうだから、これを真似しているとも考えられないではない。 また、「汚い野菜共には死の制裁を」「積年の大怨に流血の裁きを」の二行は、無理に字数を合わせた形跡が感じられる(日テレのフィリップだけは、まだ「ども」とひらがなに開いている)。まず、「共」は、ひらがなに開いたほうが見た目にもいい。マスコミ関係者ならば、普通はひらがなに開きたくなる言葉である。 また、通常、「汚い野菜共には」とくれば、次のフレーズは、「積年の大怨には」とくるのが、文章に階調を持たせる場合の一般的な方法ではないかと思う。「には」「に」というのは、やや乱調を導入した韻のふみ方になるのであろうか。 さらにうがった見方をすれば、「汚い野菜共」は、たぶん英文の直訳ではないかと思われる。ちなみに、全体を通して、酒鬼薔薇聖斗の文章は、やや英語的を訳したときの文章構造になっている。この傾向は、第二の挑戦状の底流に密かに流れているが、こうした英語訳的な文章構造は、最近の日本の小説や一般の文章にもよく見られるので、特別に酒鬼薔薇だけの傾向ではないようにも思える。 なお、掲載した文章は、この間の報道を総合したうえ、風太郎が真似てフリーハンドで書いたものである(FAX用の感熱紙に赤色と黒色のサインペンを使用)。が、細部に関する情報が、今一つ固まっていないので、あくまでも推測の域を出ないことをお断りしておく。たぶん犯人はもっと達筆であろう。僕のように右上がりなんかにはなっていないことだろう。 【追記1】六月第一週の朝日新聞夕刊であったと思うが、犯人は当初、やはり「SHOOLL KILL」と書いていたと報道された。 ところが、この報道があったとき、某新聞が、「KILLというのはおかしい。KILLERでなければいけない」といった記事を出したために、第二回目の挑戦状では、「KILL」を「KILLER」に修正したのではないかと観測されている。 となると「SHOOLL」も「SCHOOL」の単純な書き誤りという可能性が高くなってくる。しかし、こちらのほうは、犯人が直さなかった。その理由は、テレビで南美希子などが、「SHOOLという言葉もありうる」などと発言したからかもしれない。 考えるに、もともとこの犯人は、英語に関しては、それほど強くないのかもしれない。また、同時に、知的なものに対する劣等感が、人よりも強いような感じを受けている。たとえば、「積年の大怨」などといった小難しい言葉をあえて使うのは、いわば劣等感の裏返しであるとみることもできる。 【追記2】少し大胆過ぎる類推なのでこれまで書かなかったが、「汚い野菜」というのは、「頭がピーマン」といった、かつての流行語からきているのではないかと、僕は思ってきた。また、非行少年などに対して、「腐ったリンゴを取り除く」というような言葉があるが、それとも関連しているように思えた。つまり、「汚い野菜」とは、“野菜のような役立たずの頭脳”あるいは“役立たずの存在”という解釈もできるのではないかと思う。 【追記3】犯人がどうして、感熱紙に書いたのか。僕にはわからないことが多い。当然、手近にあったので、すぐに使えたということが考えられる。また、これもテレビ報道からであるが、感熱紙からは指紋が検出しにくいことを知っていて、わざわざ選んだということも考えられないではない。そういう法医学的な知識が本に書いてあるという。しかしながら、現代の科学捜査では、感熱紙からも指紋を検出する技術が開発されているともいわれる。 ともあれ、僕も経験があるが(たとえば、他のライターからFAXで送られてきた原稿に手を入れるなど)、感熱紙の上には文字が非常に書きにくい。ボールペンは、最初のうちはスムースに書けるが、そのうち感熱紙に塗ってある薬剤が、ボールペンのボール部分に入り込み、インクが詰まって書けなくなる。実際、上掲の図版を子細に見ていただくとわかるが、少しインクが薄くなっている部分がある。 マーカーやフェルトペンであれば、ボールペンよりも長く書けるが、それでも、だんだんに目詰まりを起こし、書けなくなることも多い。感熱紙は筆記用具の寿命を縮めるので、僕はいったんゼロックスなどでコピーしてから字を書いていた。 だから、最初の挑戦状の文章が、極度に短かったとも考えられないではない。つまり、感熱紙という材料に、長い文章を書こうとしても書けなかったのである。そのことが、几帳面な犯人の神経を刺激したことは、考えられる。 すると、犯人は、この経験から、感熱紙に懲りて、次には、手近にあったところの集計用紙を選んだのかもしれない。感熱紙と集計用紙が手近にある人物とは、どんな人物なのであろう。ちなみに、僕は二つとも持っていない。 なお、6月30日に神戸新聞のサイトから第二の挑戦状の写真をダウンロードし、それを参照しながら、以前の図版のサイン部分だけを作り替えた。が、その際、朝日新聞の報道を活かして、「SHOOLL KILLER」の署名は「SHOOLL KILL」とした。 また、この赤字部分以外は、6月27日以前に書かれたものである。(97/06/30 風太郎) |
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※挑戦状の本文については、これまで朝日新聞に発表されたものを引き写して掲載してきましたが、6月30日に神戸新聞のサイトにあらためてアクセスし、発表された写真を見ながら、最終的に、段落位置や一字下げの部分、さらにはタイピングミスの部分など細かい点に修正を加えました。が、挑戦状に対する注釈や推理の部分は、今後の試金石にするため、書き直しませんでした。(97/06/30 風太郎) 本文は、コクヨのA4判集計用紙1枚に、サインペン(ボールペン)の赤い小さな文字で書かれていたそうである。それも、活字のように等間隔の文字であったという。なお、ここではリンク色を目立たせるために、文字は黒色で表示し、また署名だけは縦書きであるようだが、これも編集の関係で横書きとした。(風太郎) ボクの名は酒鬼薔薇聖斗 夜空を見るたび思い出すがいい
この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名前を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた 人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行為はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。 しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ=ルビ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。 ――――ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている―――― さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を 積年の大怨に流血の裁きを 学校殺死の酒鬼薔薇 |
【第二の挑戦状に関する風太郎による注解と推理】
[総評] 犯人は、たぶん自分の国語力に密かな自信か、あるいは自負を持っているのではなかろうか。外国語に関しても、同様に密かな自信を持っているともいえる。 とはいえ、彼の国語力が、現実の社会で、どこまで生かせるような立場にいるかどうかは疑問である。そこには我流で鍛えた文体は存在する。そして、自分の文体について、ある程度は、他人からのチェックがなされた様子もうかがえる。 たとえば、会話文の語尾が、「君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」などという具合に、日常の会話口調を活かしているところなどは、玄人っぽさを感じさせる部分である。 しかし、彼が完全なる文章の玄人かというと、それを疑わせる部分もある。たとえば、“である調”と“ですます調”の混在だ。もともと、プロとアマの違いは、自分の文章をどこまで、統一されたかたちで提出できているかというところにある。プロは素人よりも混乱の少ない文章を書く。だから、プロは、ですます調とである調の混在は、まずしない。 しかしながら、この点については、実は僕らプロライターでも、結構、そういうことをやることがある。僕も、混在は嫌いではない。ただし、それは文章的な効果を狙ってのことである。 この犯人の場合、追伸の部分に「今度一度でもボクの名前を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。」という具合に、ですます調になっている。 これは、類推するに、第一に、犯人の内向的な面というか、引込み思案をあらわしているように思える。つまり、「三つの野菜を壊す」とか「三つの野菜を壊すぞ」、あるいは「三つの野菜を壊すから、覚悟しておけ」というような言い方のほうが、文章の流れからはスムースなのだが、犯人は、ここでなぜかあらたまっているのである。この遠慮は、慇懃ともとれるが、強いことを言えないという性格をあらわしているともいえないだろうか。 あるいは、人を脅すときに、たいていの人が、言葉をあらためる。これは、そうした慇懃さが、脅迫的な口調を際立たせるという効果があるからである。たとえば、ケンカの際には丁寧な言葉を使えば使うほど、相手の神経を逆撫でるのである。 また、特徴としては、句読点の打ち方などを結構知悉しているように思えるのに、それを隠そうとしている形跡が見えることだ。たとえば「そこでぼくは、」「すると彼は、」といったように、明快な句読点の使い方をしている。 ところが、一方では、ほとんどすべての段落にわたって、段落末には句点がない。これはわざと消したのであろうか。つまり工作したのであろうか。 通常、句読点がうまく打てない人でも、センテンスの最後には句点くらいは入れる。入れないとすると、それは広告のコピーライターであろう。コピーライターにとっては、文章を句点で結語することに、かなりの抵抗をおぼえるものである。 全体として感じられるのは、犯人はそれほどは若くないという感触である。言葉づかいからみると、三十代から四十代の前半という感じを受ける。とはいえ、二十代であることを完全に否定する材料はない。が、もし二十代だとしたら、精神的には老成しているように思える。 あと特徴としては、活字のような等間隔の文字を1300字もきちんと書いていることである。ここで僕が個人的な経験から思い浮かぶ職業は、デザイナーである。多くのデザイナーは、活字のような文字をレイアウト用紙にしょっちゅう書きこんでいる。それは、測ったように、指定したい活字の大きさと同じときがある。そして、ときには、活字そのままの書体で書くこともある。 さらに、今もいったように、各パラグラフの最後に句点がないこと、そして、活字のような等間隔の文字を手書きできるという点だけから見れば、犯人がデザイン関係者であることが類推される。デザイン関係者ならば、文章感覚からいっても、肯ける点は多い。日本語の怪しさという点からみても、デザイン関係者という条件を備えているように思えてならない。 が、もうひとつの可能性として考えられるのは、文章の書き手と、文字の書き手が違っているという可能性である。これは、文章の内容にはまとまりがみられるのに、なぜ、単純な誤字や脱字をおかしてしまっているかというギャップからくる推理である。 主犯が元原稿を書き、共犯がそれを清書したということであれば、犯人がなぜ、ワープロやパソコンで印刷したものを直接送り付けてこなかったのかという疑問も解決できる。つまり、共犯であるところの書き手を逮捕しても、主犯を逮捕するまでにはいたらないという読みを、犯人は持っているのではないかという可能性である。 ともあれ、犯人は、たぶん独身で独り暮らしか、あるいは、家族がいても離れに住んでいるとか、普段、家族との交流がない状態なのかもしれない。そうでなければ、早朝、生首をぶら下げて行って、校門の前に置き、しかも一時間くらいも見張っていて、首の位置を入れ替えるなどという自由な行動ができない。 また、僕自身は、宮崎勤の事件との相似性を強く感じている。つまり、都市に隣接する、あるいは都市の中のある程度豊かな緑に囲まれた、人口が密でもなければ疎でもないといった郊外的な地域と、子供に対する異常な犯罪との関連性である。僕の住んでいる下町のような密集地では、子供を襲う方法も、死体を隠す方法も、たぶん変わってくるであろう。 萩原朔太郎ではないが、都会人は田園風景に憧れるが、そこに住む人は憂鬱を味わっていることも多いのだろう。周囲に緑があるということは、逆に、孤独を助長することもある。たとえば、何をしても風景の中にとけ込んでしまい、目立たない、人がわかってくれないという孤独感である。 しかも、緑のある風景の中にいる人物というのは、たいていは自分の理想の中では、人の良い、人情味あふれる、素朴な人達である。だが、人間は都会に住んでいるから素朴ではなく、田舎に住んでいるから素朴であるとは、言い切れないものなのである。 何か、田園が持つ本源的な孤独といったもの、そして郊外にはいろいろな隠れ家があり、そこにとけ込んでしまうと、誰もわからなくしまうという存在感のなさ。田園地帯は、本来は、人に対しては無関心ではなく、むしろ人間関係のとても濃密な土地であったはずである。それが、突如として住宅地化することで、そこに都会の無関心が急激に入り込んでくる。が、それでも田園は田園でありつづける。 そのために、都会的な考えと田園的な考えが混在し、あるいは反発し、そして、都会の真っ只中とは違った人間関係を作り上げる。そういった郊外独特の立地環境が、この種の犯罪の発生と、底流で結びついているような気がしてならないのだ。 それは、何といえばいいのか? 都会の孤独と、田園の孤独とが混ざりあって、まだ本当の意味で融合していないというか、身についていないというか、そう、いわば人間関係の「汽水湖」みたいになっていて、そんな場所に、こうした特有の犯罪が起きる苗床があるのではないか。僕は、そういう感じを覚えているのだ。(風太郎) 【追記1】第一の挑戦状と第二の挑戦状の文章的な雰囲気の違いから、共犯者がいるという推理をしているテレビ局が多くなっている。つまり、第一の挑戦状は情緒的、第二の挑戦状は論理的という違いがあるというところからきている。 しかし、僕はそれほど第一と第二の違いを感じない。確かに違いはあるが、それは積極的に別人が書いたと証明するほどではない。 第一の挑戦状が、情緒的に見えるのは、たぶん詩というか、歌の形式をとっているからではないかと思う。最近の歌もそうだし、60年代の和製ポップスもそうであったが、歌の最後とか途中で、英語の歌詞が出てくるパターンが実に多い。華原朋美の歌だって「hate tell a lie」とリフレインしたあとで、日本語の歌詞を歌う。つまり、日本の歌の大半は、今、英語と日本語の混合物である。 酒鬼薔薇聖斗は、たぶん自分の主張を詩的に書こうとしたのである。そのとき、さまざまな流行歌がふと思い浮かんだに違いない。そして、過去に何かで見て、自分が気に入った語句を入れたくなったのである。そのために、文章の最後に「SHOOLL KILL」という英語らしきものを挿入したくなったのではないか。もし、学校に対する復讐していることを告げたいなら、「学校殺死」と日本語で書けばすむことである。「SHOOLL KILL」「学校殺死」と、同じ意味のことをくり返す必要はない。 それより何より、「スクールキラー」よりも「スクールキル」のほうが、語感としてはおさまりがよく、そして語感として重さがあるように思える。「キラー」という語は、もはや手あかがつきすぎて、軽くなってしまっているのだ。 作詞家は、情緒的な歌詞を書くが、しかしその考え方は、情緒的でないときも多い。むしろ、理屈っぽい作詞家も存在する。だとしたら、別段、他人が書いたということを証明する証拠にはならないのではないか。 |
| ゾディアック事件の犯人の筆跡 | |
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「ヴァレイホ・タイムズ−ヘラルド」に掲載された犯人の手紙。独特の暗号めいた用語を使っているようで、意味不明な単語がある。 |
ゾディアックが凶行後に、被害者のハートネルの車に黒のフェルトペンで書き残した文字。(いずれも『未解決事件19の謎』現代教養文庫より) |