=「酒鬼薔薇聖斗の挑戦状」=

ゾディアック事件の犯人の筆跡

「推理・酒鬼薔薇聖斗事件」を読む

「突然の事件解決に思う」を読む


土師淳君を殺害した犯人の挑戦状part1



 本文は定規で書いたような手書き文字で、使用された紙は感熱紙だといわれる。インクの色は赤であるが、マークの部分だけは黒で書かれていたという。
 このうち、いちばんの問題は、ゾディアック事件で使われた丸に十字のマークがよく似ていることだ。
 なお、「SHOOLL KILLER」については、当初、「SHOOL KILL」あるいは「SHOOLL KILL」「SKOOL KILL」など、さまざまな説が報道された。
 ともあれ、たぶん「スクールキラー」と読ませたかったのであろうというのが、今では大方の認識になっている。それは、あとに続く「学校殺死」と呼応しているとするならば、やはり「スクールキラー」と解するのが、正解に近いのであろう。
 ちなみに、「スクールキル」という川がアメリカに実際にあるらしい。そして、それが向こうの小説にも出てくるらしい。だが、多少スペルが違うようだ(SCKUYLKILL)。
 そこで、「SHOOLL」のスペルだが、ゾディアックの特徴として、最後のLを重ねる傾向があったそうだから、これを真似しているとも考えられないではない。
 また、「汚い野菜共には死の制裁を」「積年の大怨に流血の裁きを」の二行は、無理に字数を合わせた形跡が感じられる(日テレのフィリップだけは、まだ「ども」とひらがなに開いている)。まず、「共」は、ひらがなに開いたほうが見た目にもいい。マスコミ関係者ならば、普通はひらがなに開きたくなる言葉である。
 また、通常、「汚い野菜共には」とくれば、次のフレーズは、「積年の大怨には」とくるのが、文章に階調を持たせる場合の一般的な方法ではないかと思う。「には」「に」というのは、やや乱調を導入した韻のふみ方になるのであろうか。
 さらにうがった見方をすれば、「汚い野菜共」は、たぶん英文の直訳ではないかと思われる。ちなみに、全体を通して、酒鬼薔薇聖斗の文章は、やや英語的を訳したときの文章構造になっている。この傾向は、第二の挑戦状の底流に密かに流れているが、こうした英語訳的な文章構造は、最近の日本の小説や一般の文章にもよく見られるので、特別に酒鬼薔薇だけの傾向ではないようにも思える。
 なお、掲載した文章は、この間の報道を総合したうえ、風太郎が真似てフリーハンドで書いたものである(FAX用の感熱紙に赤色と黒色のサインペンを使用)。が、細部に関する情報が、今一つ固まっていないので、あくまでも推測の域を出ないことをお断りしておく。たぶん犯人はもっと達筆であろう。僕のように右上がりなんかにはなっていないことだろう。


【追記1】六月第一週の朝日新聞夕刊であったと思うが、犯人は当初、やはり「SHOOLL KILL」と書いていたと報道された。
 ところが、この報道があったとき、某新聞が、「KILLというのはおかしい。KILLERでなければいけない」といった記事を出したために、第二回目の挑戦状では、「KILL」を「KILLER」に修正したのではないかと観測されている。
 となると「SHOOLL」も「SCHOOL」の単純な書き誤りという可能性が高くなってくる。しかし、こちらのほうは、犯人が直さなかった。その理由は、テレビで南美希子などが、「SHOOLという言葉もありうる」などと発言したからかもしれない。
 考えるに、もともとこの犯人は、英語に関しては、それほど強くないのかもしれない。また、同時に、知的なものに対する劣等感が、人よりも強いような感じを受けている。たとえば、「積年の大怨」などといった小難しい言葉をあえて使うのは、いわば劣等感の裏返しであるとみることもできる。

【追記2】少し大胆過ぎる類推なのでこれまで書かなかったが、「汚い野菜」というのは、「頭がピーマン」といった、かつての流行語からきているのではないかと、僕は思ってきた。また、非行少年などに対して、「腐ったリンゴを取り除く」というような言葉があるが、それとも関連しているように思えた。つまり、「汚い野菜」とは、“野菜のような役立たずの頭脳”あるいは“役立たずの存在”という解釈もできるのではないかと思う。

【追記3】犯人がどうして、感熱紙に書いたのか。僕にはわからないことが多い。当然、手近にあったので、すぐに使えたということが考えられる。また、これもテレビ報道からであるが、感熱紙からは指紋が検出しにくいことを知っていて、わざわざ選んだということも考えられないではない。そういう法医学的な知識が本に書いてあるという。しかしながら、現代の科学捜査では、感熱紙からも指紋を検出する技術が開発されているともいわれる。
 ともあれ、僕も経験があるが(たとえば、他のライターからFAXで送られてきた原稿に手を入れるなど)、感熱紙の上には文字が非常に書きにくい。ボールペンは、最初のうちはスムースに書けるが、そのうち感熱紙に塗ってある薬剤が、ボールペンのボール部分に入り込み、インクが詰まって書けなくなる。実際、上掲の図版を子細に見ていただくとわかるが、少しインクが薄くなっている部分がある。
 マーカーやフェルトペンであれば、ボールペンよりも長く書けるが、それでも、だんだんに目詰まりを起こし、書けなくなることも多い。感熱紙は筆記用具の寿命を縮めるので、僕はいったんゼロックスなどでコピーしてから字を書いていた。
 だから、最初の挑戦状の文章が、極度に短かったとも考えられないではない。つまり、感熱紙という材料に、長い文章を書こうとしても書けなかったのである。そのことが、几帳面な犯人の神経を刺激したことは、考えられる。
 すると、犯人は、この経験から、感熱紙に懲りて、次には、手近にあったところの集計用紙を選んだのかもしれない。感熱紙と集計用紙が手近にある人物とは、どんな人物なのであろう。ちなみに、僕は二つとも持っていない。

 なお、6月30日に神戸新聞のサイトから第二の挑戦状の写真をダウンロードし、それを参照しながら、以前の図版のサイン部分だけを作り替えた。が、その際、朝日新聞の報道を活かして、「SHOOLL KILLER」の署名は「SHOOLL KILL」とした。
 また、この赤字部分以外は、6月27日以前に書かれたものである。(97/06/30 風太郎)


土師淳君を殺害した犯人の挑戦状part2

(6月4日到着、神戸新聞社発表6月6日)

※挑戦状の本文については、これまで朝日新聞に発表されたものを引き写して掲載してきましたが、6月30日に神戸新聞のサイトにあらためてアクセスし、発表された写真を見ながら、最終的に、段落位置や一字下げの部分、さらにはタイピングミスの部分など細かい点に修正を加えました。が、挑戦状に対する注釈や推理の部分は、今後の試金石にするため、書き直しませんでした。(97/06/30 風太郎)

 本文は、コクヨのA4判集計用紙1枚に、サインペン(ボールペン)の赤い小さな文字で書かれていたそうである。それも、活字のように等間隔の文字であったという。なお、ここではリンク色を目立たせるために、文字は黒色で表示し、また署名だけは縦書きであるようだが、これも編集の関係で横書きとした。(風太郎)


ボクの名は酒鬼薔薇聖斗
      夜空を見るたび思い出すがいい
さかき ばら   せいと
酒鬼薔薇 聖斗


神戸新聞社へ

この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ報道人がボクの名前を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行為はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない
だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。
しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ=ルビ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。
最後に一言
この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名前が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今度一度でもボクの名前を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。
 ――――ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている――――

P.S 頭部の口に銜えさせた手紙の文字が、雨かなにかで滲んで読み取りにくかったようなのでそれと全く同じ内容の手紙も一緒に送る事にしました。

さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
SHOOLL KILLER
学校殺死の酒鬼薔薇



【第二の挑戦状に関する風太郎による注解と推理】
  1. この前ボクが出ている時に
     このあとにも何度か出てくるが、犯人が「ボク」と「ぼく」を混在させているところに注目したい。意識的に使い分けたともいえるが(つまり、多重人格であるという意味を込めようとした)、一方では単純な変換ミスであるともいえる。なぜなら、通常、文字変換では、「ボク」は登録しないと、すぐには文字変換できないが、「ぼく」のほうは文字変換されやすいからである。

     また、この「この前ボクが出ている時に」を、「僕が外出しているとき(外出先で)」といった解釈をしたり、あるいは霊的な意味で外に出ている(幽体離脱)とか、離人症といったような解釈をする人がいるようだ。が、僕としては単純に「ボクがテレビに出ているときに」といった意味に解釈している。すなわち、

    この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ
     の部分に言葉を補えば、
    この前ボクが(テレビで報道される対象として)出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ
     ということになる。ここでいう「出ている」とは、“テレビで自分のことが取り上げられている”という意味になるのではないか? そのほうが素直な解釈であるように思う。
     語弊のある言い方になるが、素人の文章を、まるで意味があるかのように厳密に分析して、大袈裟に騒ぐのはおかしいと思う。もともと、素人の文章は、表記などの統一がとれていなかったり、誤字や脱字、あるいは自分勝手な思い込みによる表現などが多いものである。もっといえば、たいていの人が、文章を書くとき、統一を考えたりはしないのではないか。他人の文章について、そのような神経を働かせてしまうのは、文章を読む人が玄人だからである。

     ともあれ、この部分以後、「ボク」あるいは「ぼく」という単語が頻出することが気になる。
     まず、この意味についての捉え方であるが、通常、英語表現では「私」などの主格が文章内に登場する回数が多くなるが、日本語では通常は少ないという事実を認識しておく必要がある。
     たとえば、欧米の学者などは、学術論文を書く場合にも、I think〜という表現をやたらに使うといわれる。つまり、一見主観的な書き方をするわけである。もし日本の学者が学術論文で、「私は〜思う」などと書いたら、いっぺんに落第になるのだろう。そのあたり彼我には国語感覚の違いがある。

     さて、日本語の文章において、一人称や二人称を抜かして書く傾向が、ことに日本の従来の文学では強くあった。そのことから、酒鬼薔薇の文章が特異だと判断するのは総計であろう。なぜなら、今では、結構、一人称をうるさいほどに入れる作家も多くなっているからである。つまり、翻訳文体が浸透して、日本語の傾向が変わってきていると思うからである。
     さて、酒鬼薔薇聖斗の文章には、「ボク」という一人称が頻出しているわけである。その数は二十数回にのぼるといわれる。このことについて、僕は、テレビでいわれているようなこととは、別の考えを持っている。
     これは、すこぶる個人的な経験からくる意見であるが、たとえばパソコン通信などで会話をしていると、メッセージの中に「僕」などの一人称を多く使う傾向が強くなるような気がしている。かくいう僕自身がそうであった。僕は仕事がゴーストライターであるから、仕事の原稿では他人の文章を書いているわけである。そうしたこともあり、ほとんど一人称を書かない。ひょっとして、その反動で、パソコン通信では、「僕が、僕が」を頻発させてしまったのかもしれない。ともあれ、その経験に照らせば、犯人がパソコン通信をやっている可能性はあるといえる。
     ちなみに、僕がパソコン通信で「僕」を多用するのは、「私」と書くと、パソコン通信のボードという場には、あらたまりすぎて合わない気がするというだけにすぎない。
     そうした経験からいえば、テレビに出てきた某国語学者のような「僕を使うのは、精神的に幼いからだ」という意見は、僕にとっては、ちょっと大鉈で切りすぎた乱暴な意見であるように思える。

     もともと、「僕」と「私」「自分」「俺」などの言葉の使い分けは、心理的な要因もあるのだろうが、むしろ、語りかけようとする相手と自分との人間関係によって、変わっていくものではないだろうか。
     たとえば、会社で社長の前で社員が「僕は……」などといったのであれば、その社員は甘えん坊であるとか、世間知らずだとか思われてもしかたがないかもしれない。が、今回の酒鬼薔薇聖斗の文章のように、人が自分の心情を明らかにしようとする、つまり独白する際には、「僕は……」という表現を多様したとしても、それは自然なことであり、それは甘えとはいえないだろう。
     今もいったが、文章や言葉は、書いた人の状況や立場というものと密接にかかわっている。そして、文章によって語りかけようとする相手によって(つまり読者設定ということである)、どのような言葉を選ぶかが変わってくるはずである。
     だから、単にそこにある特徴的な単語を取り出して、ステロタイプに心理分析するのはおかしいと思う。ステロタイプに物事を整理するのが、プロファイリングの本道ではないと思う。

     ちょっと脱線してしまった。チェックした部分に関しては、問題はほかにもある。たとえば、「この前ボクが出ている時に」の部分である。この部分を、劇作家の山崎哲氏は、テレビで「多重人格に見せたいという意図のあらわれだ」といった旨の発言をした。しかし、僕にはそうは思えなかった。
     妙な言い方になるが、僕が最初にこの部分を読んで思い浮かべたのは、「ちあきなおみ」の「喝采」という歌のツーコーラス目だったか、スリーコーラス目だったかに登場するところの、「耳に私の歌が、通り過ぎていく……」という部分であった。

     うがった意見になりそうだが、酒鬼薔薇にとって今回の犯罪は、一個の芸術
    なのではないだろうか。そうであると考えるなら、この部分も何となく納得がいく。
     元来、作品というものは、外に向かって発表された段階から、作者のものではなくなり、ひとり歩きしはじめる。だから、ちあきなおみの「喝采」のように、自分の意思に反した場面で、自分の歌声を聞くというようなシーンが展開されるわけである。
     すなわち、自分が作り上げた作品というものは、自分の状況とは関係なく、不意の拍子に、作者自身の目の前に現れてくる。その際、作者は、自分が産み出したはずの作品という存在が、作ったときの意図とは別に、そのものが独立した存在になり、そして、その存在が独自に自己主張していることに気づくのである。
     この現象は、誰でも作品やメッセージを公衆の面前などに公開した場合に、起こりうることなのである。そして、当然、パソコン通信では日常的に、そうした現象と出くわす。それは自分の書いたメッセージに対する「誤読」とか、予期せぬエキセントリックな反応といったカタチで、現れてくることもある。
     ディスコミュニケーションとでもいうか、ともあれ作品と作者の乖離というものを、酒鬼薔薇は言おうとしたのではないかと思っているのだ。

    【追記】
     事件が起きてから、これまでずっと、酒鬼薔薇聖斗の文章の中で「ボク」と「ぼく」を使用した数を問題にしている人が多い(たとえば、有田芳生氏など)。しかし、僕としてはむしろ、使用頻度よりも、「ボク」と「ぼく」の混在のほうに注目している。
     先述したが、今回の挑戦状は、告白文という性格があるかぎり、「ぼく」という一人称が数多く使われることについては、それほど奇異な現象ではないと思っている。
     くり返しになるが、僕は6年前にパソコン通信をはじめたが、その数年後のある日、過去に自分が書いたものを書き直しているうちに、自分の書くメッセージ中に「僕」という単語が頻出していることに気づいた。そこで僕は、「僕」という単語を懸命に削りはじめたのである。それでもまだ、僕自身はパソコン通信のメッセージに、「僕」という文字をかなり多く登場させてしまっている。これは、結局、そういう表現を使わなければ明らかにできない事柄をボードに書いているからである。
     僕が酒鬼薔薇聖斗の挑戦状で注目したのは、それよりも「ボク」と「ぼく」の混在のほうである。
     通常、同一人が書いた文章(時間的経過の違いもあるが、当面は無視する)の中で、「僕」と「私」、あるいは「俺」と「自分」が混在することは、結構よくある。ある意味で、無意識的に、混在させてしまうことも多い。
     これは、たとえば各センテンスごとに、自分と相手(読者)との距離感が違っているといった場合に起こりうる。いうなれば、その場にふさわしい表現を選んでいった結果、「僕」と「私」が混在することになる。

     もともと、日本語には一人称の表現が、数多くある。これは要するに、場や相手の違いによって使い分けてきたのであろう。つまり、一人称は、これから自分が発言しようとする「相手」や「場」と、「自分」との関係がどのようなものであるか、そして、その「相手」や「場」に対して、「自分」が何を言おうとしているかという内容によって変わっていくといえる。現代的にいえば、コミュニケーションの質や形態、あるいはTPOによって、どの一人称を使うかが、変化するということである。

     しかしながら、これも経験的な意見であるが、そうして「僕」と「私」を混在させた場合でも、「僕」を使ったあとに、「ボク」と書いたりすることは希であるように思う。
     なぜなら、ひらがなをカタカナにする(カタカナをひらがなにする)ときの心理的抵抗よりも、漢字をカタカナにする(カタカナを漢字にする)ときの心理的抵抗のほうが強いと思うからである。「僕」を使用することを決めたときは、「ボク」という書き方は排除されている。というのも、「僕」と「ボク」では、視覚的な印象も違うし、また“あらたまり度”?も違うからである。
     ということで、人称について、どのような表記形式を選ぶかは、非常に指向性が強いのではないかというのが、僕の意見である。
     それが、酒鬼薔薇の文章の中では、混乱して使われているということは、もちろんうっかりミスということも考えられるが、同時に、普段はその人称の表記を頻繁に使っていないために、間違ったということも考えられる。あるいは、それこそが、酒鬼薔薇という存在そのもののあやふやさ(犯人自身の内面の中でも、酒鬼薔薇聖斗という存在が、あやふやな存在になっているという可能性も含めて)を物語っているといえるのかもしれない。

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  2. テレビがついており、それを見ていたところ、
     少しうがった見方かもしれないが、最初読んだときに、犯人の年齢を感じさせる表現であると思った。
     通常、ライターや編集者など、日ごろ文章と携わっている人たちは「テレビがついていて、」という表現をすることが多い。ことに雑誌のライターは、そのような易しい表現を心懸けている。「テレビがついており、」は、やや古臭い表現である。
     あるいは、彼はここで“あらたまり”をしているのかもしれない。ともあれ、何等かの背伸びをしているといった表現に受け取れる。
     また「テレビがついており、それを見ていたところ、」という説明はやや迂遠である。いわゆる“説明的でありすぎる”表現であろう。もっと単刀直入でストレートな表現をなぜしなかったか。たとえば、これは「テレビを見ていたら、」というだけですむ。ここに、犯人がなるべく自分を(あるいは自分の行為を)重厚であるかのように見せようとしている、といった姿勢を垣間見ることができないだろうか。
     あるいは、別の考え方をすれば、何か日記的な書き方をしたくなったということもできるだろう。

     妙な部分、つまり枝葉末節の部分で、自分の状況を詳しく書きすぎるというのは、文章のアマチュアであることを示すと同時に、何らかの精神的な病を持っている場合が考えられる。精神科では、これを「迂遠」と呼んでいるはずである。
     たとえば、会社であったショッキングな出来事を説明するとき、「私は今朝は七時に起きて、顔を洗って、歯を磨いて、電車に乗って会社に行きましたら……」などといったぐあいに、周辺のことをしつこく事細かに逐次説明していかなければ、本題の説明にたどり着けないという心理のことである。
     単に要領が悪いということもあるが、心理的にそういう説明になってしまう場合もあるということである。これを心理学では「迂遠」と呼んでいるわけである。酒鬼薔薇の文章のこの部分は、まさにその「迂遠」である。

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  3. 報道人
     常識的には、「報道陣」の誤変換と考えるのが妥当であろう。ただし、「新聞人」や「マスコミ人」という言い方も存在するから、そこからの連想で「報道人」という言葉をつくりあげたとしても、マスコミの事情を知らない一般の人なら、無理からぬことであろう。
     ちなみに、日常使用する語彙の数は、職業によって違うという報告がある。あるアメリカの調査によると、アメリカでは、ブルーカラーや庶民は日常的に2万語くらいの単語を知っていて、それを操っているが、ジャーナリストは5万語程度の言葉を知っていて、使っている。学者はそれ以上で10万語程度になるということである。残念ながら、日本での同様の調査にはお目にかかっていない。
     ともあれ、全体の文章の流れなどから考えると、犯人は、最初にワープロで文章を打ちこみ、推敲した後、それをもとに、手書きで、手近にあった集計用紙に、定規で書いたような文字を手書きしたような気がする(あるいは、ワープロで書いた元原稿があり、それを別人に手書きで筆写させたかもしれない)。

     もっと具体的に言えば、ワープロで書いた文章を、まず集計用紙に印字して、字数調整をし、出来上がったものを、新しい集計用紙の下に敷き、上からなぞるようなかたちで書き上げたのであろう。
     もちろん、集計用紙は不透明度が高いので、トレーシングペーパーのように、下の文字が弁別できるほどではない。だから、下に敷いた文字を読みながら、上からなぞることはできない。単に、文字をきちんと同じ間隔で並べたいときの、いわば「スケール」のような役目を果たすだけである。だから、単語を拾い上げるためには、傍らにワープロかパソコンを置いて、同文をディスプレイに表示させ、その画面を参照しながらでなければならないだろう(印刷物を横に置いてということもできる)。
     このために、ワープロで書いたときの誤変換がそのままに書き移されたり、また、ワープロのディスプレイフォントの文字そのままの画数で、漢字を書いてしまったのではなかろうか。
     この場合、犯人がもし単独犯ならば、間違った文字を書かないように、手もとに神経を集中しすぎたために、誤変換文字や、誤字をチェックするほうの集中力がお留守になって、気づかなかったとも考えられる。しかし、その場合は、それほどミスが頻出するとは思えない。人によって違うだろうが、ミスする箇所は一定のまとまりをもって生じるような気がする。つまり、ミスのないきちんとした箇所と、ミスだらけの箇所が、はっきり区別されて混在するということになる。
     報道によると、「嘘」は旧字で書かれていた(残念ながら、僕のパソコンでは変換できない。たぶん旧字に変換できるのはワープロ専用機だけであろう)というし、左図のように「正」の字には縦棒が一本足りず、また「達」の字にも横棒が一本足りなかったそうであるが、それはそのことを示してはいないだろうか。

     一方、共犯者がいるという可能性も否定できない。文章の内容の高度さと、誤字脱字のミスの水準とが、ちょっとかけ離れているように思えるからだ。
     この場合、まず国語力に自信を持っている文案起草者が、ワープロに書いた文章を書く。それをもとに、あまり国語力に自信のない共犯者が、ワープロの画面表示に、馬鹿正直といっていいほどの忠実さで書き連ねてしまったために、誤字などをしでかしてしまったということになる。
     あるいは、この場合、共犯者がディスプレイを持っていたとは断言できない面もある。つまり、その共犯者は、印刷されたものを受けとるしかなかったという場合である。その印刷物が印字状態がよくなかったために、忠実に清書した結果、各所で奇妙な字を書いてしまったという可能性である。だいたい「は」の横に「丶」を打つという、極めて単純なミスをする人間が、あのような文章を書けるのであろうか。
     だが、その推理を採用するとすると、ここで一つの疑問が生じる。あとで述べるが、文中の会話文の箇所に対して、文章全体を書き上げたあとから、慌ててカギカッコをつけたということの説明ができなくなるのである。
     これも別の箇所で述べるが、会話文と地の文を弁別するというのは、意外に難しい。多少高度な国語力を必要とする。「は」の横に「丶」を打ったり、「正」の縦棒を抜かすような国語力とは、あまりなじまないと僕には思われる。

     すると、この場合、最も合理的な説明を考えるとしたら、まず文案を考えたもの(挑戦状の起草者)が、別の人間に清書方を発注する。そうして出来上がった清書文書を、再び文案起草者が受け取り、最終チェックしたのちに、郵便で発送したということが考えられないではない。
     だが、果たしてそのような面倒なことをやりえたのであろうか。むしろ、一般的には、犯人は単独犯であり、その人物は、心が病んでいるために、極端な鋭敏さと鈍感さが同居しており、そのようなケアレスミスをおかしていると考えるのが自然かもしれない。
     ただし、ワープロやパソコンを使って長年文章を書いていると、単純な漢字でも度忘れして、手書きで書けなくなることも多い。たとえば僕などは、なんとあるとき、自分の住所が書けなくなってしまったのである。だから、文案起草者が、手書き文字を間違えたというのもうなずけないことではないのだ。
     さて、もし共犯がいたとしたら、主犯と共犯の関係は、なかなか特異な人間関係になっていることが予想される。というのも、これは決して「かい人21面相」事件のように、利潤を追求するというような目的がありそうにもないからだ。そこには、もしあったとしたら、精神的なつながりであろう。
     すると、たとえば夫婦や恋人(同性愛を含む)、あるいは、いわば戦友や学友、不良仲間といったような緊密な関係、さらには“いじめ”にみられるような腐れ縁的な人間関係であるといえるかもしれない。
     この点について付記すれば、パソコン通信で知り合った関係というのも考えられないではない。パソコン通信は、文章と文章でコミュニケーションをはかるため、通常の対面した直接会話による関係に比べ、精神と精神の感応といったものが、短時間で深くなることもある。パソコン通信で知り合って結婚した男女は、僕の周りにも結構いる。顔も見えない、素性もわからないからこそ、ときには、通常ではなかなかなさそうな深い関係を結ぶこともありうるのである。
     なお、犯人がワープロ専用機を使っていると断定するのは、第一の挑戦状を感熱紙に書いたということからである。感熱紙は、パソコンでは古い型のサーマルプリンターを使っていれば所持しているが、今、パソコンに接続するプリンターは、ほとんどがレーザープリンターか、インクジェット方式になっている。だから、感熱紙を持っていることは少ない。
     一方、ワープロ専用機は、多くが熱転写方式を使用しているので、感熱紙のストックを持っている人は多いことだろう。ちなみに、僕は感熱紙とは数年前以上からつき合いがない。あるのはFAXのロール用紙だけである。

    【付記1】
     なぜ、ワープロを使う必要があったかであるが、新しい情報では、コクヨの計算用紙にぴっちり過不足なく文字が収まるように書かれていたという。そこから考えれば、ワープロを使った理由がわかる。つまり、紙の中にきちんとびっしり文字を収めるために、まずワープロで書いて印刷した上で、文字数や字詰めなどを調整し、それを下原稿にして、上から赤いペンでなぞったといったことが考えられるわけだ。犯人は奇妙なところで律義なのである。

    【付記2】
     今回の事件とは直接関係ないかもしれないが、定規で書いたような文字といえば、僕たち団塊の世代が思い出すのは「ガリ版刷り」である。そのガリ版刷りの例が左図である。
     ガリ版刷りは、ヤスリの上で鉄筆を使って書く関係で、どうしてもカーブのある文字を書きにくく、直線的な文字になる。また、文字の大きさも揃ってしまう。さらに、画数の多い文字は、一部の画を省略してしまうときもある。
     ちなみに、僕は二十年前に会社破産闘争でガリ版で情宣ビラを作成するという経験を持ってしまったが、そのときのガリ版印刷は、既にヤスリ+鉄筆は既に過去の遺物になっていて、「ボールペン原紙」と呼ばれるものになっていた。ボールペン原紙は、ほぼ通常のボールペン書きの文字と同じ程度に書けるので、曲線がうまく出る。
     今回見本として紹介したのは、左図の左側が昭和36年10月6日に発行された「松江北高新聞号外」から、同じく左図の右側が財団法人紙の博物館が昭和49年10月に催した「歌謡碑展目録」の一部である。不鮮明であるが、何とか鉄筆+ヤスリとボールペン原紙の違いがわかるであろう。
     また、これは大胆過ぎる観測であるが、犯人が、この金釘流の文字を考案したのは、最初の挑戦状を書いたときではなかろうか。先述したが、感熱紙に文字を書くと、大抵の筆記用具では、うまく筆が運ばない。直線はなんとかうまく書けるが、曲線を多用しはじめると、筆が滑ったりする。ちょうどヤスリ+鉄筆で書いたときのように、直線だけで書くことを強いられることになるわけだ。

    【付記3】
    「週刊文春」(6月26日号)に、「声明文には、いくつかの不自然な形状の漢字が含まれていますが、それはワープロではなく、パソコンによるものであることがわかった。しかも、米国大手メーカー系七社の製品であることも突き止めました」という捜査関係者の談話が掲載されている。
     しかし、これは本当だろうか。
     もともと、ことにアメリカ系のパソコン(DOS/V機、PC/AT互換機)自体は、日本語のフォントというものを持っていない(日本の旧98シリーズや、旧98コンパチシリーズは、本体内に漢字ROMを持っている)。だから、基本的にフォントはOS(オペレーティング・システム)によってロードされるものである。言い換えれば、フォントはOSに付属しているのである。
     だから同じOSを使っていれば、標準の状態ならば、誰でも同じフォントを使うことになる。もしOSを変更したりすれば、あるいは別のベースフォントや、アプリケーションで提供されているフォントをインストールすれば、フォントを自由に変更できる。
     たとえば、同じマシに、IBMのPC−DOSをインストールした場合と、マイクロソフトのMS−DOSをインストールした場合では、真っ先に画面フォントに顕著な違いが生じる。
     そういう事情だから、もしアメリカ製のパソコンで書かれたものであれば、パソコンを特定することはできない相談である。ましてやアメリカ製のパソコンは、大抵がマレーシアとかの組立工場で組み立てられたものであり、メーカーによって顕著な特徴があるというわけではないのだ。特徴があるとしたら、BIOSなどの面であって、それはフォントとは違うのだ。
     だから特定できるとしたら、それはパソコン本体ではなく、OSの種類か、あるいは使用しているフォントの種類でしかないだろう。あるいは、プリンターは内部にフォントを持っているので、たとえばシステムフォントを指定して印刷した場合、プリンターの内蔵フォントで印刷されるわけだから、使用したプリンターを特定できるということはありうる。しかし、プリンターは、決してパソコンとは呼べないのだ。
     それよりむしろ、ワープロ専用機のほうに、特有のフォントの違いが存在する。しかも、ワープロ専用機は、すべて漢字フォントはROMに入っている。そして、このフォントは、JIS準拠といえども、各メーカーで、かなりの癖があるし、そして同じメーカーでも、機種の新旧により、かなりの違いがある。もちろん、このことは印字書体にも、ディスプレイフォントにもいえるのである。
     たとえば「森鴎外」をきちんと表示できるワープロがあれば、できないワープロもある。「葛藤」の「葛」を正字で表示しないばかりか、正字で印刷できないワープロも存在する。さらに、ワープロ専用機では(JISフォントそのものがそうなのだが)、画数の多い文字は、一部の画数を省略して表示したり、印刷したりすることもある。この点、むしろパソコンはJISフォントしか持っていないために、機種の特定は非常に難しいものがある。
     だから、やはり、ワープロ専用機を使用したと見るほうが、自然だと思うのだが、どうであろうか。たぶん、週刊文春の記者が、ワープロとパソコンの区別がつかない捜査員に取材したので、このような記事になってしまったのではなかろうか。
     ただし、僕の説の弱点は、ワープロ専用機であった場合、それはインターネットができる装備のあるものでなければいけないということだ。そうしたワープロは、最新機種の限定される。もっとも、インターネットに「酒鬼薔薇」や「死ね」の文字が現れたということと、今度の事件の関係はまだ証明されているわけではない。


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  4. 鬼薔薇(オニバラ)
     あとでも同じように、難読と思われる漢字に(一般的には特別に難読漢字とは思われないが……)わざわざ読み仮名を振ってある個所がある。この犯人には、全文を通じて老婆親切なところがある。文章をわかりやすく書くという訓練を普段受けているためなのだろうか。
     そうすると、やや特殊な職業に就いているのかもしれない。知的程度が高く文章にも支離滅裂さが少ないところから、何らかのかたちで文章と携わっているかもしれない。しかし、それは公務員ではないような気がする。公務員はここまで親切な文章を書けないのではないかという偏見からではあるが……。

     妙なのは、これまで「報道人(報道陣)」たちは、「鬼薔薇」だけを切りとって、読んだことはなかったのではないかということだ。もし、どこかのキャスターがいったとすると、たぶん「さけ・おに・ばら」といったような区切った読み方をしたのではないかと思う。なぜ犯人は、ここで「さけ」を抜かしたのだろうか。ここに僕は、犯人が鋭敏と鈍磨の落差の激しい人間である部分を見る。あるいは、それほど記憶力がよろしくない人間なのであろうか。
     ちなみに、TBSラジオでは、「さかきばら」という読みを当初から採用していたように思う。このことをなぜ犯人は、“かい人21面相”ふうに「TBSは、えらい」などといったように評価の対象に加えなかったのか。関西ではTBSが聴こえないという事情もあるのかもしれないが……。

    【追記】
     犯人が、単に自分の名前の読み間違いに怒っていると考えるのは、当初、不自然であると、僕自身は思ってきた。というのは、そんなふうにこだわる理由が、何となく希薄に思えたからだ。「今度一度でもボクの名前を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。」というが、犯人はそれほど厳密に、「報道人(報道陣)」のいい間違いをチェックしているのであろうか? 何となく疑わしい。
    たとえば、「学校殺死」に対して、過去も今も「がっこうさっし」とわざと読むアナウンサーやレポーター、そしてキャスターが多いのである(まるで、犯人を挑発しているかのようで、僕には不快であるが)。これに対して、酒鬼薔薇聖斗は、なぜ何も言わないのか? 「学校殺死」は、酒鬼薔薇聖斗の挑戦状のレターヘッド?において、酒鬼薔薇聖斗という名前に次ぐ重要部分なのに、である。
     僕はこの部分は、当初から、単に「お前らに、正式な読み方を教えてやろう、知っているのは俺だけなんだから」といった、自負というか嘲笑というか、誇示にすぎないのではないかと思ってきた。自分が知っていることを、他人が知らないということを自慢して喜ぶというのは、かい人21面相の脅迫状にも見られる傾向である。
     ちなみに、「学校殺死」は、やはり「がっこうごろし」と読むのであろうし、そして、それは、「よろしく」を「夜露死苦」と書いた、かつての流行を反映しているのではないだろうか。
     また、これもうがった意見であるが、このようにハンドル名?の前に、「○○の」といった形容や、自己紹介的な文を付加する書き方は、パソコン通信では日常的に行われてきた文書の形式である。酒鬼薔薇も、それに習っている可能性がある。(文例:今日は二日酔いで死んでいる 風太郎)

     ともあれ、それよりもむしろ、酒鬼薔薇のイライラの本体は、なぜ校門に生首を置いたかについて、誰もはっきりとその理由を類推してくれたり、詮索してくれないところにあるのではないかと、僕は思っている。
     今回の犯罪は、殺すことが目的というよりは、むしろ、校門に首をさらすということを主目的に、計画が練られたのではないかとさえ思える。つまり、僕等には到底理解できないが、それが酒鬼薔薇にとっての「作品」の完成した姿であったのではないか。
     もし、性的な変質者であれば、ロリコン趣味から少女を狙うはずであり、少年を狙うのは、少数の部類に入ることであろう。また、もし性的変質者であれば、通常は、胴体や下腹部に対して何等かのいたずらをするはずであろう。
     つまり、酒鬼薔薇は、ただひたすら(被害者は誰でもいいという意味である)知的弱者の首が欲しかったのではないか。そして、自分が校門に首を置くという行為が、彼にとっては、非常に意味のある行為であり、その行為を世間はわかってくれるはずだという思いがあったと思うのである。
     うがった見方をすれば、「首」は、「知」の象徴であるように、僕には思える。もっといえば、彼にとっては、「首」こそが「汚い野菜」ではないのか。
     つまり、先述したが、かつて「頭がピーマン」とか、「頭がキャベツ」とか、流行語で言い表されたように、酒鬼薔薇の学校時代の頭脳(学業成績)も「野菜」になぞらえて、周囲から批判されたという背景があったことを示しているのではないかと、僕は思うのだ。何しろ、犯人が「知」というものについて強い劣等感を持っていることは、文章の各所にあらわれているのである。


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  5. 表の紙に書いた文字
     上記文章の「酒鬼薔薇聖斗」という署名部分を指すが、例のマークなども書いてあったようだ。また、この署名は縦書きであり、ルビは原則通り右側に書いてあったようであるが、現物が示されていないので、本当のところはわからない。
     ところで、なぜ犯人は、「さかきばら」という名前を好んで使ったのか。犯人が捕まってみないとわからないが、ぜひ聞いてみたい気がする。それは、宮崎勤被告が、「今田勇子」という名前を使ったことへの興味と同じである。作家が、どのようにして登場人物の名前を考えるのかということについての興味である。その方面に関しては、まだ僕には研究が足りない。今後の課題である。
     ちなみに、僕は「聖斗」を、最初「せいんと」と読むのだと思っていた。これは漫画からの連想である。だから「せいと」と聞いたとき、なんとつまらない読みであろうと、がっかりした。

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  6. 愚弄な行為
    「愚弄」は、「愚弄する」というサ変名詞として使うのが普通である。「愚弄」には形容動詞活用はないと思う。犯人が普段から勘違いして使っているか、あるいは、もともとこの言葉の意味を知らないでいることが考えられる。
     たぶん「愚鈍」などの上に「愚……」のつく他の漢語と間違えて使っているのであろう。「SCHOOL」を「SHOOLL」、「KILLER」を「KILL」と書いてしまう犯人であれば、日本語についても、若干の錯覚を持っていたとしても不思議ではない。
     とはいえ、平均的にいえば、誰でも、自分が日常的に使っている言葉の中で、最低4パーセントくらいの言葉が、間違って覚えてしまった言葉であるという統計があるそうだから、酒鬼薔薇聖斗についてだけ国語力を責めるわけにはいかない。ちなみに、僕は中学を卒業するまで、ずっと「横柄」を「おうがら」と、間違って読んでいたのを気づかなかったし、大学時代まで「七」を「ひち」とふりがなを振っていた。僕の学校時代を通じての国語の成績は、ずっと「4」であった。

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  7. 本命
     犯人はきっと「本名」を普通は「ほんみょう」と読むことを知らないのであろう。あるいは、「本名」を「ほんめい」と読んでも、誰も咎めないといった世界に住んでいるのかもしれない。「氏名」からの連想で、普段から「ほんめい」と読んでいるために、「本命」のほうに誤変換しても気づかなかったのではないか。
     あるいは、その勘違いから、「本名(ほんめい)」と「本命(ほんめい)」が似ていると錯覚し、「本命」と書きたいと思ってしまった可能性もある。
     もともと「続柄」を「つづきがら」だけでなく「ぞくがら」と読む人もいるし、「お手数」を「おてすう」ではなく「おてかず」と読む人もいる。また「出生証明書」は、法律用語や官庁では「しゅっしょうしょうめいしょ」であるが、一般的には「しゅっせいしょうめいしょ」である。だから、「本名」を「ほんめい」と読み違えている人がいても不思議ではないというのは、強弁だろうか。

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  8. ぼくには国籍がない。
     当然にも、酒鬼薔薇聖斗という名前は、犯人の本名とはかけ離れているのだろう。もし犯人の本名が「榊原」であったとしたら、お笑いぐさにしかならない。
     犯人が空想上か、あるいは憧憬としてか、創作としてか、ともあれ、自らが生み出したところの人物であろう。そのために、「ぼくには国籍がない」のである。意味合いは違うが、ちょうど夏目漱石の「吾輩は猫である」の猫に、漱石が最初は名前をつけなかったのと同じといえるかもしれない。が、酒鬼薔薇の場合、まだ自分でも完全につかみえていない存在であるために、国籍を持たせることが出来ないのかもしれない。
     または、「国籍がない」というのは、犯人の願望であるような気がする。つまり、日本人でいたくないという憧れの現われでもあるとも考えられる。さらには、彼の誰にも省みられなかった不遇な人生を象徴する存在であるとも考えられる。
     ただし、国籍がないことが、すなわちストレートに民族問題と結びつくかどうかは定かではない。が、ともあれ、あとで出てくる「透明な存在」と呼応している言葉なのであろう。
     とはいえ、少なくとも僕にとっては、「透明な存在」と「国籍がない」とは、素直には結び付けられない概念である。というのは、「透明な存在」には哲学的、あるいは美学的なセンスを感じるが、「国籍がない」は、生臭い現実感を感じさせずにはおかない言葉だと思うからである。ちなみに、僕が「国籍がない」で思い出したのは、トロツキーの「査証のない旅」という本の題名であった。そこにはトロツキーなりの浪漫はあったはずなのだが……。
     さて、この部分の直前のセンテンスまで、犯人は「ボク」を使いながら、ここで突然「ぼく」を使っている。単なる僕の推測であるが、ここで犯人は何らかの中断を強いられ(電話が入ったとか)、あるいは何らかの理由で、間を置いて再びワープロに向かったためではないかと思っている。そうした中断があると、僕自身、直前に書いていた文章の流れを忘れてしまうことがよくある。
     あるいは、言葉が詰まって出なくなったので中断したということも考えられる。

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  9. 楽しむ事
     以後も「こと」という形式名詞を「事」と書いている。こうした形式名詞に漢字を使用するのは、文章を書くことを商売にしている人には、あまり見られない傾向である。が、最近、若い人たちは「こと」と書くところを「事」と書いたりすることが多くなっている。また、ワープロを使うと、ときにデフォルトでこうした文字変換になることも多い。
     形式名詞を漢字で書き、逆に何でもない漢字をひらがなに開きたがるといった傾向が、素人の文章にはよくみられることだ。が、ちょっと仕事の立場からいうと、何を開き、何を開かないかという判断は、すこぶる難しい。出版社によって、あるいは編集部ごとに判断基準が違っている場合が多いからだ。

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  10. 今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。
    「透明な存在」に感じられるというのは、自分の精神世界の中で生み出した存在だからであろう。そして、自分が作り出した存在であるということを、作り出した本人が自覚していることになる。つまり、自分でも確かめることができない(できなかった)、そして、自分ですらも呼びかけ、話し合うことができない存在という意味なのではないか。
     この透明な存在であるが、類推に過ぎないが、「本源的な部分から発する欲望」とか、あるいは「自分の中の他人」、さらには「憑依霊」というような解釈もできる。酒鬼薔薇聖斗は、霊的なものに多少関心を持っていることがうかがわれるので、これは霊的な存在とみるのが有力かもしれない。
     それにしても、この犯人は、「透明な存在」という表現を、もっと工夫できなかったのだろうか。三個所も同じような表現を使用するというのは、通常は、文章の素人である。プロは、同じ言葉を繰り返さねばならないときは、できるだけ表現を変えて書く。たとえば「バスの停留所」と書いたら、次のセンテンスでは、「バスが止まる場所」などというぐあいに書き換えてしまう。このことにプロは結構、こだわりに近い感じのものを持っているのである。
     ただし、文章的な面では、酒鬼薔薇聖斗は優秀な部類であろう。というのは、たとえば、「〜でもなく、〜でもなく、〜でもない。」といったように、次々と違った意味を持つセンテンスを重ねあわせるように挿入していった場合、素人は多くの場合、途中でか、あるいは結語部分でつまづき、文章的な破綻をしてしまうものである。
     これは、そうした重畳的な言葉を挿入する際には、精神的に高揚しすぎているために、うっかり文脈を見失うからであり、また細部の表現にこだわり、文章の流れ全体を失念してしまうからであろう。
     自分が書きたいと思っていることが、一定の流れのもとに文章にあらわせるということは、文章技術の高さを示すものである。その意味で、酒鬼薔薇聖斗の文章には破綻がない。かなりの文章上手であると思われるが、そこには残念ながら「心」というか「魂」が感じられない。「心」「魂」と僕が呼んでいるものは、平たく言えば「生臭さ」というか、「肌の感触」というか、そういうものである。
     ちなみに、少なくとも今田勇子の犯行声明文は、文章的には水準が高くないとしても、「肌の感触」を感じ取ることができる。
     また、気づくのは、全文を通じて、句読点が省かれている個所が多いことだ。このことは通常は、文章を書くことに慣れていないか、専門には文章を書いていないことをあらわしている。が、この犯人の場合、表現が実に適切である。これは、犯人の知的程度の高水準を示すものであろう。ただし、性向としては理屈っぽいという特徴があげられるだろう。それが各所に見られる迂遠な表現になっているものと思われる。
     とはいえ、酒鬼薔薇聖斗にも素人臭い部分がある。たとえば、「みとめて」をひらがなに開きながら、「頂きたい」と漢字を使うといった不統一な使い方をあげることができるだろう。(この部分は、風太郎の誤記による間違った分析であった。本文は「認めて」と漢字になっている。97/06/30)
     加えて、犯人は、一度だけだが文脈を見失っている。これは、素人の特徴的な失敗である。それは、以下の文章を検討することでわかる。
    ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間としてみとめて頂きたいである。
     プロのライターでも、長いセンテンスを書くときは、こうした文脈の見失いをやってしまうことがあるが、その数は少ない。それを恐れて、長いセンテンスを書かない人もいる。ともあれ、上記の部分は文法的にいえば、以下のようになるのが普通ではないだろうか。
    ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間としてみとめて頂きたいからである。
     上記のように赤字部分を置き換えないと、文章のおさまりが悪いはずである。
     酒鬼薔薇の文章の中で、顕著に乱れているのは、ここだけともいえるが、たぶん犯人はこのとき、自分の意見を主張したいという意志が前面に出すぎてしまったため、文脈の流れを見失ってしまったのではないだろうか。あるいは、鈍磨と鋭敏の落差が激しい性格のためとも思われる。

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  11. 造り出した
    「つくりだした」を文字変換すると、通常は「作り出した」というのが変換第一候補であろう。また、「造り出した」と変換してくれるFEPやIMEでは少ないのではないだろうか。つまり、犯人がこの言葉が好きなので、わざわざこういう変換にしたのではないか。
     なお、「作る」と「造る」の使い分けについてだが、まず「作る」は、
      作家 作曲 作詩 作者 作品 作文 /工作
    などのように、「物をつくる」「つくった物」を示す。一般には、文芸創作、手工的製作、農業作物の方面で用いられる熟語が多い。
     とあり、また、「造る」については、
      造園 造花 造語 造作 造船 造幣 造林 /醸造 製造
    のように、「物をつくる、仕上げる、建設する」の意味のときに用いるが、「作る」よりも、規模の大きいもの、工業的なもの、有形のものをつくるときに用いることが多い。

    (いずれも「ことばシリーズ15 言葉に関する問答集7」文化庁より引用)
     とある。今回の挑戦状では、いわば「ひとづくり」という語と同様な「つくる」の使い方になるわけだ。が、この場合、「作る」でも「造る」でも、しっくりこないとされ、結局、「つくる」とひらがなに開くほうがベターであると、「言葉に関する問答集」の筆者や、新聞用語では判断している。
     つまり、この部分を一般的な表記基準で直せば、「つくり出した」あるいは「つくりだした」にするほうがいいということになる。

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  12. 義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐
     犯人は、なぜか義務教育に対してこだわりを持っているかのようだ。義務教育しか受けられなかった不幸な境遇だったのであろうか。そして、義務教育期間中に、何らかのかたちで精神的外傷(トラウマ)を味わったのではなかろうか。もし義務教育期間中に何かあったとしたら、それは中学時代のことに限定してもいいだろう。なぜなら小学校では、それほど教師と生徒の関係も、また生徒同士の関係も軋轢が少ないと思えるからである。
     が、僕にとっては、義務教育がなぜ透明な存在を生み出したのか、いまひとつ理解できない。常に周囲に遠慮し、目立たぬように行動しなければならなかった窮屈な学校生活という意味でとらえるべきなのだろうか。
     ともあれ、なんらかの理由で学校生活からドロップアウトした(しかけた)ことはあったのであろうと思う。しかし、義務教育への復讐が、校門の前に生首を置く行為と結びついてしまうのは、犯人独特の考え方になるのだろう。

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  13. 「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」
     犯人は、人を殺すという目的を当初から持っていたが、それに復讐というファクターを付加することにより、さらにその行為をゲームとして楽しむことで、存在理由(レーゾンデートル)を確認できるのではないかという意味になるのだろうか。
     理屈っぽいわりに、彼の理屈を理解することがなかなかできにくい面がある。

     この部分のキーワードは「みじめでなく」であると思う。
     認識の相違といわれればそれまでだが、もともと復讐というのは、復讐したいという強烈な意思があって、成り立つものだと思う。それは、呪いと同じく、自分の全存在を賭けての、相手との闘争であろうし、そしてその結果、自分をも滅亡させることがある。
     弱いものが強いものに反逆するとき、そこにはなりふりかまわない反撃がなければ、その反撃は簡単につぶされてしまうことであろう。つまり自分がみじめであるから復讐するのであり、復讐すること自体にみじめさや美しさは、普通は求めないと思うのである。それよりも、どうしたら徹底的に復讐できるかということのほうが優先するはずだ。
     もちろん、僕の考え方は、団塊の世代特有のものであろうし、今の世の中では、古臭い考え方なのであろう。
     しかし百歩ゆずって、酒鬼薔薇の復讐の美学を認めるとしても、「みじめでな」い「価値ある復讐」というのは、あり得るのだろうか。僕にはわからない。
     まあ、そんな反論をしても仕方のないことであるが、ともかく僕は、この「みじめでなく」という言葉に、まず、カタチから入ることがそのものに迫る方法であり、カタチのカッコ良さだけを常に大切にするという現代感覚のようなものを見てしまう。
     そして、酒鬼薔薇は、本心では「みじめである」ことに、人よりも強い恐怖感を抱いているのではないかと思ったりする。つまり、人前でみじめになることが嫌いなのである。もっといえば、自分が過去に、みじめさを味わったなんらかの屈辱的な体験があって、それを嫌い、厭わしく思い、そして恐怖しているのではないかと類推される。
     誰でもそうだろうと思うのは、少なくとも間違いである。たとえば僕などは、惨めであろうが惨めでなかろうが、生きていかねばならないというような考え方を持っている。そして、みじめな体験は早く忘れさるに限ると思っているので、だいたいが思い出せなくなっている。

     ともあれ、この部分が最も犯人の言語感覚を象徴するパラグラフであると思う。句読点が突然少なくなっているということ。そして迂遠な表現などは、犯人が、自分の思いの丈を一気にこの部分に凝縮して書いたことがうかがわれる。つまり、文章を書くまでは具体的にイメージできていなかったものが、ここにきて、何とか説明できたというような感じを受ける。
    「友人」とは、もう一人の自分を指すというのが一般的な見方となる。あるいは、実在する人物とも考えられるが、孤独な対話の中で生まれた存在と考えるほうが、素直であろうか。あるいは複数犯であるとカムフラージュしたいという願望が生み出した虚像かもしれない。
     さらには、犯人が通信をしているとしたら、誰か特定の人間とのメールのやり取りの中で、そのような会話が成された可能性も否定できない。
     さらには、なにかの本を読んでいて、触発されたという可能性もある。その場合、その本が彼の教師になっている。

     また、ここで注目すべきはカギカッコとじの部分に句点(。」)が入っていることだ。学校教育では、このような作文指導をしていて、教科書や参考書もそれにならっていて、教科書などに引用する際には、原文を書き換えるということを行っている(文章作品に対する冒涜ともいえるが)。
     が、今日のマスコミや作家は、一般的にいって、このような表記はしない(三十年くらい前は、そういう作家も出版社もあった)。そこで、教師や教育関係者(教材関係も含む)を考える学者もいる。が、これは偏頗な見方である。実際は、教育関係者以外にも、結構、この手の表記をしてしまう人は、世の中には多いのだ。そうした人たちは、単にマスコミ向けに文章を書いたことがない、あるいはそういうぐあいに、自分の書き物について、表記上のチェックを他人から受けたことがないというからにすぎない。
     ただし、普段から小説などを注意深く読んでいれば、このことに気づくはずであるから、何らかの疑問を持ち、そのうち訂正することが多いだろう。そうした面を考えると、犯人は、まず文章を書き慣れていなくて、そして、自分の文章について評価してくれる人がなかった(少なかった)人物ではないかということがいえる。

    【付記】
     犯人がマスコミ文章におけるカギカッコと句読点に関するルールを知らなかったかもしれないという推測が崩れる事実も判明してきた。神戸新聞から問題の文書の鑑定を依頼された教授によると(各局のテレビが報道している)、この部分のカギカッコは、字詰め取りがきちんとしていなく、後から挿入されたように思えたという。要するに、後からカギカッコを慌てて付け加えた形跡があるのだ。
     犯人が、ワープロ原稿を下敷きにして、声明文を手書きで紙の上になぞっているうちに、その部分が会話文であることに気づき、慌ててカギカッコを入れたという可能性が、今では強くなっている。もう一度清書する時間がなかったか、それとも気力をなくしたかである。
     すると、犯人は、会話文と地の文の区別ができる、あるいは区別するという国語感覚をきちんと持っている人間であるといえる。実は、地の文と会話文をきちんと区別して書くことは、意外に難しいのである。日頃から文章について意識的に携わっていないと、なかなかできないことなのだ。

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  14. 持って生まれた自然の性(サガ)
     これも迂遠な表現の一つである。「性」はもともと「持って生まれた性質や宿命」(広辞苑)を指している。だから、通常は前の部分の説明は不要である。犯人の慇懃さ、自分を高く見せたいという内的欲求を見ることができるだろう。
     また、日常会話では、結構、こういう持って回った表現をすることがあるのではないかと、僕自身は思う。たとえば、関西の人が、日常会話で、これと同じことをいっているのを聞いたことがある。日頃の言葉の調子が出たのではないかと、僕は類推している。

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  15. ―ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている―
     この部分をチェックしたのは、二つの理由がある。一つは、「能力」という言葉に対する僕自身の特殊な思いである。
     まず「人間を二度殺す能力」とは、いったい何かということである。これは、通常、第一に“肉体的に人を殺すこと”、第二は“霊的にも人を殺せる”という意味と解釈するのが妥当であるように思う。が、酒鬼薔薇がどう考えているのかは、わからない。
     ともあれ、この個所で、酒鬼薔薇聖斗は、やや超能力的というか霊能者的な内容の事柄を述べようとしていると、僕には思える。だが、そこで僕はいささかの違和感を感じるのである。
     単に僕の経験からくるところの語感だけなのであるが、僕は過去に、何人かの霊能者に取材をしたことがある。そのとき彼らは、「能力」というような言葉を、あまり使わなかったように記憶している。このことは宗教者も同様である。
     もし、彼らが同じ意味の言葉を使うとしたら、単に「力」というだけのことが多かった。
    「能力」といった場合には、それは人間が持っている力に限定されるといった語感を持っているように思う。つまり、「数学を解く能力」や、「金を儲ける能力」というような世俗的な言葉と同一線上に並んでしまう気がするために、霊能者や宗教者は、あまり使わないのではないかと思ったりするのだ。霊能者は、単に「力」とだけいい切ることによって、自分の持つ力に対して奥行きを付加し、あるいは神秘的な意味合いを付加しようとしているのであろうか。
     すると、自分の持つ神秘的な力に対して、「能力」という言葉を使って誇らしげに主張する酒鬼薔薇聖斗は、たとえその筋の「能力」を持っていたとしても、それはたぶんまだ、「力」の入り口にいるのか、あるいは「力」の外野にいるのではないか、という感じを持った。
     いや、今とは別の考え方もできないではない。まず、酒鬼薔薇聖斗の文章には、全体を通して、表現の飛躍というものが感じられない。確かに論理的には整っており、頭の良さを感じさせる。が、そうして論理的に、懸命に自らの美学を開陳しようとしてはいるのだが、それは文章として破綻がないために、整っているかのように見えるだけなのである。そこには、詩的なもの、あるいは発想の飛躍、さらには心にぐさりと突き刺さるような感性といったものが、あまり感じられない。
     もっといえば、神秘や神聖(悪魔性でもいいが)といったものに傾倒した人間の書き物が、必ずや持っているところの、ある種の「カタルシス」(悪魔性でも、神聖でも、どちらでもいい、浄化作用というのは実は善悪を越えたところにあるというのが、僕の考えだ)といったものが感じられないのである。
     僕にとって、酒鬼薔薇聖斗の挑戦状は、まるで優等生の答案を読んでいるような感じであり、芸術作品を読んでいる感じは、ほとんど受けない。いわば心の底に響いてくるような「インパクト」がないのである。
     このために、「―ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている―」というフレーズが、何か業務連絡のような乾いた、事務的な語感というか、付け焼き刃的な感触をもって読まれてしまうような気がする。


[総評]
 犯人は、たぶん自分の国語力に密かな自信か、あるいは自負を持っているのではなかろうか。外国語に関しても、同様に密かな自信を持っているともいえる。
 とはいえ、彼の国語力が、現実の社会で、どこまで生かせるような立場にいるかどうかは疑問である。そこには我流で鍛えた文体は存在する。そして、自分の文体について、ある程度は、他人からのチェックがなされた様子もうかがえる。
 たとえば、会話文の語尾が、「君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」などという具合に、日常の会話口調を活かしているところなどは、玄人っぽさを感じさせる部分である。
 しかし、彼が完全なる文章の玄人かというと、それを疑わせる部分もある。たとえば、“である調”と“ですます調”の混在だ。もともと、プロとアマの違いは、自分の文章をどこまで、統一されたかたちで提出できているかというところにある。プロは素人よりも混乱の少ない文章を書く。だから、プロは、ですます調とである調の混在は、まずしない。
 しかしながら、この点については、実は僕らプロライターでも、結構、そういうことをやることがある。僕も、混在は嫌いではない。ただし、それは文章的な効果を狙ってのことである。
 この犯人の場合、追伸の部分に「今度一度でもボクの名前を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。」という具合に、ですます調になっている。
 これは、類推するに、第一に、犯人の内向的な面というか、引込み思案をあらわしているように思える。つまり、「三つの野菜を壊す」とか「三つの野菜を壊すぞ」、あるいは「三つの野菜を壊すから、覚悟しておけ」というような言い方のほうが、文章の流れからはスムースなのだが、犯人は、ここでなぜかあらたまっているのである。この遠慮は、慇懃ともとれるが、強いことを言えないという性格をあらわしているともいえないだろうか。
 あるいは、人を脅すときに、たいていの人が、言葉をあらためる。これは、そうした慇懃さが、脅迫的な口調を際立たせるという効果があるからである。たとえば、ケンカの際には丁寧な言葉を使えば使うほど、相手の神経を逆撫でるのである。

 また、特徴としては、句読点の打ち方などを結構知悉しているように思えるのに、それを隠そうとしている形跡が見えることだ。たとえば「そこでぼくは、」「すると彼は、」といったように、明快な句読点の使い方をしている。
 ところが、一方では、ほとんどすべての段落にわたって、段落末には句点がない。これはわざと消したのであろうか。つまり工作したのであろうか。
 通常、句読点がうまく打てない人でも、センテンスの最後には句点くらいは入れる。入れないとすると、それは広告のコピーライターであろう。コピーライターにとっては、文章を句点で結語することに、かなりの抵抗をおぼえるものである。

 全体として感じられるのは、犯人はそれほどは若くないという感触である。言葉づかいからみると、三十代から四十代の前半という感じを受ける。とはいえ、二十代であることを完全に否定する材料はない。が、もし二十代だとしたら、精神的には老成しているように思える。
 あと特徴としては、活字のような等間隔の文字を1300字もきちんと書いていることである。ここで僕が個人的な経験から思い浮かぶ職業は、デザイナーである。多くのデザイナーは、活字のような文字をレイアウト用紙にしょっちゅう書きこんでいる。それは、測ったように、指定したい活字の大きさと同じときがある。そして、ときには、活字そのままの書体で書くこともある。
 さらに、今もいったように、各パラグラフの最後に句点がないこと、そして、活字のような等間隔の文字を手書きできるという点だけから見れば、犯人がデザイン関係者であることが類推される。デザイン関係者ならば、文章感覚からいっても、肯ける点は多い。日本語の怪しさという点からみても、デザイン関係者という条件を備えているように思えてならない。
 が、もうひとつの可能性として考えられるのは、文章の書き手と、文字の書き手が違っているという可能性である。これは、文章の内容にはまとまりがみられるのに、なぜ、単純な誤字や脱字をおかしてしまっているかというギャップからくる推理である。
 主犯が元原稿を書き、共犯がそれを清書したということであれば、犯人がなぜ、ワープロやパソコンで印刷したものを直接送り付けてこなかったのかという疑問も解決できる。つまり、共犯であるところの書き手を逮捕しても、主犯を逮捕するまでにはいたらないという読みを、犯人は持っているのではないかという可能性である。

 ともあれ、犯人は、たぶん独身で独り暮らしか、あるいは、家族がいても離れに住んでいるとか、普段、家族との交流がない状態なのかもしれない。そうでなければ、早朝、生首をぶら下げて行って、校門の前に置き、しかも一時間くらいも見張っていて、首の位置を入れ替えるなどという自由な行動ができない。
 また、僕自身は、宮崎勤の事件との相似性を強く感じている。つまり、都市に隣接する、あるいは都市の中のある程度豊かな緑に囲まれた、人口が密でもなければ疎でもないといった郊外的な地域と、子供に対する異常な犯罪との関連性である。僕の住んでいる下町のような密集地では、子供を襲う方法も、死体を隠す方法も、たぶん変わってくるであろう。
 萩原朔太郎ではないが、都会人は田園風景に憧れるが、そこに住む人は憂鬱を味わっていることも多いのだろう。周囲に緑があるということは、逆に、孤独を助長することもある。たとえば、何をしても風景の中にとけ込んでしまい、目立たない、人がわかってくれないという孤独感である。
 しかも、緑のある風景の中にいる人物というのは、たいていは自分の理想の中では、人の良い、人情味あふれる、素朴な人達である。だが、人間は都会に住んでいるから素朴ではなく、田舎に住んでいるから素朴であるとは、言い切れないものなのである。
 何か、田園が持つ本源的な孤独といったもの、そして郊外にはいろいろな隠れ家があり、そこにとけ込んでしまうと、誰もわからなくしまうという存在感のなさ。田園地帯は、本来は、人に対しては無関心ではなく、むしろ人間関係のとても濃密な土地であったはずである。それが、突如として住宅地化することで、そこに都会の無関心が急激に入り込んでくる。が、それでも田園は田園でありつづける。
 そのために、都会的な考えと田園的な考えが混在し、あるいは反発し、そして、都会の真っ只中とは違った人間関係を作り上げる。そういった郊外独特の立地環境が、この種の犯罪の発生と、底流で結びついているような気がしてならないのだ。
 それは、何といえばいいのか? 都会の孤独と、田園の孤独とが混ざりあって、まだ本当の意味で融合していないというか、身についていないというか、そう、いわば人間関係の「汽水湖」みたいになっていて、そんな場所に、こうした特有の犯罪が起きる苗床があるのではないか。僕は、そういう感じを覚えているのだ。(風太郎)

【追記1】第一の挑戦状と第二の挑戦状の文章的な雰囲気の違いから、共犯者がいるという推理をしているテレビ局が多くなっている。つまり、第一の挑戦状は情緒的、第二の挑戦状は論理的という違いがあるというところからきている。
 しかし、僕はそれほど第一と第二の違いを感じない。確かに違いはあるが、それは積極的に別人が書いたと証明するほどではない。
 第一の挑戦状が、情緒的に見えるのは、たぶん詩というか、歌の形式をとっているからではないかと思う。最近の歌もそうだし、60年代の和製ポップスもそうであったが、歌の最後とか途中で、英語の歌詞が出てくるパターンが実に多い。華原朋美の歌だって「hate tell a lie」とリフレインしたあとで、日本語の歌詞を歌う。つまり、日本の歌の大半は、今、英語と日本語の混合物である。
 酒鬼薔薇聖斗は、たぶん自分の主張を詩的に書こうとしたのである。そのとき、さまざまな流行歌がふと思い浮かんだに違いない。そして、過去に何かで見て、自分が気に入った語句を入れたくなったのである。そのために、文章の最後に「SHOOLL KILL」という英語らしきものを挿入したくなったのではないか。もし、学校に対する復讐していることを告げたいなら、「学校殺死」と日本語で書けばすむことである。「SHOOLL KILL」「学校殺死」と、同じ意味のことをくり返す必要はない。
 それより何より、「スクールキラー」よりも「スクールキル」のほうが、語感としてはおさまりがよく、そして語感として重さがあるように思える。「キラー」という語は、もはや手あかがつきすぎて、軽くなってしまっているのだ。
 作詞家は、情緒的な歌詞を書くが、しかしその考え方は、情緒的でないときも多い。むしろ、理屈っぽい作詞家も存在する。だとしたら、別段、他人が書いたということを証明する証拠にはならないのではないか。


ゾディアック事件の犯人の筆跡

「ヴァレイホ・タイムズ−ヘラルド」に掲載された犯人の手紙。独特の暗号めいた用語を使っているようで、意味不明な単語がある。
ゾディアックが凶行後に、被害者のハートネルの車に黒のフェルトペンで書き残した文字。
(いずれも『未解決事件19の謎』現代教養文庫より)