=脚注=
※1大宮先生に私が此手紙を出しさえしなければ=実際、この手紙が警察に察知され、5月18日の夜、つまり大宮氏が阿部定と別れて、校長会議に出た日の夜遅く、警察は大宮氏を参考人として取り調べることになってしまった。そこで「初めて事件を知った大宮は、すぐに辞職届を出して校長の職をしりぞいた」(戸川猪佐武『素顔の昭和』)とある。
※2「満左喜」の二階か物干しで=兇行のあった部屋の向かいにはトイレがあり、そのトイレに接して物干場があった。あとは、二階には自殺するのに適当な場所は見当たらない。すると、「二階の物干で」とするのが妥当とも思われるが、ほぼすべての資料が「二階か物干で」となっている。
※3麟飛模様単衣御召=「麟飛」という名称の柄は調べても発見できない。当時の新聞報道では「銀色と白色の鱗模様のある薄鼠色の鶉お召の単衣」(昭和11年5月20日付讀賣新聞夕刊)とあるほか、「鼠地に銀箔のウロコ形飛模様のついた単衣の襦袢」(「阿部定猟奇事件」若梅信次)、「鼠色鱗飛模様単衣御召」(「ドキメント日本人」版)とあるから、「麟」は「鱗」の完全な校正ミスだろう。
※4小野古着屋=この店名が、新聞報道と異なっていることは、既に述べた。が、問題は、第五回訊問では「小野古着店」となっているのに、ここでは「小野古着屋」となっていることだ。以後、この第六回訊問の中でも「小野古着店」と「小野古着屋」が混在している。この事情は、「小野古着店」で統一されている「訊問事項」版を除いて、ほとんどの予審調書に通じる特徴だ。
なんという不注意なのか。予審裁判での書記が適当に書き綴った結果なのか。それとも、あとで秘密裡に予審調書を刊行した者の不注意なのか。どちらにしても、杜撰なことではある。
※5電車通りの下駄屋=電車通りとは、市電が走っている通りをさす。新聞では、「下谷区上野北大門町(したやくうえのきただいもんちょう)根岸下駄屋」(昭和11年5月21日付報知新聞)とある。この住所は、現在は台東区上野3丁目付近と思える。
※6昼頃帰るからそれ迄起さずに置いて下さいと云ふ[電話を懸ける]と=新聞報道にしたがえば、このときの電話の内容と電話をかけた時刻が、予審調書とはちょっと違う。つまり「同九時半頃まさきへ電話をかけ女中に『ヨーさん(石田のこと)は今朝から胃痙攣を起こしてゐるけれど、あれは放つて置けば癒るんだから午後三時頃まで起さず靜かに寢かして置いて頂戴』といひ惨事の發見がおくれ女怪の逃走を容易ならしめた原因は全くこの電話故であつた」(昭和11年5月21日東京朝日新聞夕刊)となっているのだ。記憶している内容が、人によって違うということなのか。それとも阿部定は二回も電話をかけたのか? 調書の内容がいい加減なのか?
※7万代館=新聞などによると、正確には「万代家旅館」で、その名前を縮めたとしても「万代館」にはならない。戸川猪佐武の『素顔の昭和』でも「万代館」となっているなど、どの資料でも同じく、予審調書にあるデータを鵜呑みにしている。予審調書は、調べもしないで、阿部定の不確かな記憶をそのまま記載している。なんという杜撰さか。この万代家旅館は神田区淡路町2丁目にあった。
※8万惣果物店=現在は万惣フルーツパーラー。第三回訊問にも「須田町の万惣で先生に会ひ」とある。万惣は二人の目印になっていたのか。千代田区神田須田町1丁目。創業1846年。万惣という店名の由来は、万惣の創始者は青物問屋「万屋(よろずや)」を新潟で営んでいて、初代の青木惣太郎が現在の場所にお店を開いたことから、万屋の惣太郎で「万惣」となったという。
※9昭和通り=関東大震災後の帝都復興計画に基づいて昭和3年に開通した。
※10市電車庫=市電(路面電車、現在の都電)の車庫。文京区大塚1丁目にあり、現在は都営バス大塚支所でバスの車庫。大正14年開設。
※11みどり屋旅館=既出。多くの資料が「大塚のみどりや旅館」としているが、実際は、住所は大塚ではなく、現在でいえば豊島区西巣鴨2丁目にあたる。
※12貴下は=とても奇妙な言い回しだ。まさに調書の文体まるだし。この表現は他の回には出てこないから、書記が変わったのだろう。
※13此間からアパートを借りようと思って探して居るが=大宮氏は実際にアパート物件を探していた。たとえば5月17日午後3時ごろに、万代家旅館の筋向いにある須田町1丁目の連雀荘アパートに部屋を貸してくれと訪れている(昭和11年5月19日付讀賣新聞)
※14オチンコの紙包=古着屋の証言によると、この「紙包」の形状は、「新聞包はまるめたやうな形で中身は無論わかりませんがハンドバックのやうな大きなものではなくもつと小さいものだと思はれます」(昭和11年5月20日付讀賣新聞夕刊)となっている。だが、新聞報道では例のブツを当初からハトロン紙で包んで持ち歩いていたとして、「終始ハトロン紙で一巻にしたまゝ肌身につけ」(昭和11年5月21日付報知新聞)とあるし、のちに若梅信次も「彼女の最後の所持品は、ただ一つの小さな風呂敷包みである。中から出てきたのは吉蔵の猿股、メリヤスのシャツ。凶行に使用した刃渡り五寸の肉切庖丁は、枕もとの蒲団の下から出てきた。だが、かんじんの局所が現われない。安藤さんにせがまれた彼女は、大切そうに帯の聞からハトロン紙に包んだものをチラリと見せて、すばやくまたしまいこんでしまった」と書いている。
すると整合性のある説明としては、持ち運ぶときには、ハトロン紙に包んだものをさらに新聞で丸めるようにして包んでいたと思われる。ちなみに、第五回訊問では「石田の枕元に置いてあった『富士』と云ふ雑誌の表紙の包紙を剥ぎ、その紙に切り取ったオチンチンと睾丸を包み」とあるから、今日でも古本屋で雑誌や書籍を買ったときに包装に使われる茶色のちょっと厚手の紙で、切り取った局部を包んだと思われる。それをハトロン紙と報道したのだろう。ちなみにハトロン紙とは、「(hard‐rolled paper)薄茶色の薄くてじょうぶな洋紙。包装・封筒などに使われる」(学研国語大辞典)とある。
※15お前は少し臭い=「彼の女は、切断したものをハトロン紙に大事に包んで、文字通りの肌身自分の乳と乳との間の帯の間に片どきも離さずかたくしまつてゐたのだ、それは三日間の時の経過と女の体温とですでに腐敗して異臭がプン/\としてゐた」(昭和11年5月21日付讀賣新聞夕刊)とあるから、結構外に臭気が漏れていて、臭いものだったのだろう。
※16壱岐坂=いきざか。文京区本郷1・2丁目にある坂。面白いのは、相対会編集の精神鑑定書では、「台岐坂」になっていることだ。もちろん明らかな誤植だが、ここで連想するのが「邪馬台(臺)国」は、「邪馬一(壹)国」の誤りだという説だ。なるほど「壹」と「臺」はよく似ている。すると相対会がもとにした精神鑑定書には、この坂の実際の名称である「壱岐坂」ではなく「壹岐坂」と間違えて書いてあった可能性も出てくる。実際、「本郷壹岐坂附近で自動車を降り」(昭和11年5月21日付報知新聞)と誤植している新聞もある。「壱」も「壹」も同じと思ったか、相対会が精神鑑定書の中にある「壹」を新字で書き写したとき、「台」と書き間違えたことも十分ありうる。ただし、相対会の識字能力と校正能力は劣悪だったようだから、「壱」ですら「台」と読み違えた可能性は否定できない。
ただ、先程の新聞報道の続きの箇所が、ちょっと納得できない。「さだだけは本郷壹岐坂附近で自動車を降り徒歩で新橋の『あづまや』古着店で更に着物を買ひ」(昭和11年5月21日付報知新聞)としていて、壱岐坂で阿部定がタクシーから降り、歩いて新橋まで行ったように書いてある。本郷から新橋は、かなりの距離があるから納得できない。
※17新橋中通の「あづまや」=新聞では「芝區新橋の古着屋あづま屋」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)とある。また「あずまや」とする説もある。阿部定はこの店の奥の四畳半を借りて着替えをしたという(戸川猪佐武『素顔の昭和』)
※18銀座のコロンバンと云ふ喫茶店=銀座6丁目の老舗喫茶店。昭和6年創業というから、阿部定事件の当時は、まだ新しい店だったのだろう。冷房装置があり、ケーキが冷房ケースに入っていて、2階のサロンには藤田嗣治の天井画6枚が描かれていたというから、当時としてはモダンな喫茶店だったのだろう。
※19浜町公園=はまちょうこうえん。江戸時代は熊本藩主細川公の下屋敷。関東大震災復興計画により昭和4年に開園。
※20生駒山=いこまやま。奈良県と大阪府の間にある山。
※21三原山等の話=昭和8年に伊豆大島の三原山(みはらやま)の火口に投身自殺する事件があり、投身自殺ブームが起きて、同年中に944人も投身自殺したといわれる。
※22松竹館=浅草松竹館(松竹セコハン)のこと。浅草公園にあった松竹映画の封切館。昭和19年には映画興行から実演劇場となり、戦後は松竹演芸場となった。
※23お夏清十郎の活動=松竹キネマ下加茂製作。昭和11年。犬塚稔監督、田中絹代、林長二郎(長谷川一夫)主演の映画】
※24青バス=現在の感覚で、終バス(赤バス)の一本手前の時間に走るバスと思う人も多いことだろうが、この場合は、戦前に東京乗合自動車が経営していた乗合バスのことをさす。
※25三等普通列車=現在の普通車。「ハ」の等級番号が付いている。昭和34年に廃止されるまで、国鉄の列車は一等、二等、三等の等級に分かれていた。のちに一等がなくなり二等が一等に、三等が二等になった。予審調書中で「三等普通車」とわざわざ断ってあるのは、三等車は、特急や急行にも接続されていたからだろう。
※26新聞五通=新聞は「○通」という単位ではなく「○紙」という単位で数えるから、「五通」は「ごとおり」と読むのだろう。
※27品川館と云ふ旅館=港区高輪南町七六、品川駅前の旅館の四三号室(「階下六畳の四六号室」とする報道もある)に宿泊。大阪市南區南園町二〇九無職大和田直(三七)という偽名で投宿した。この男か女かわからない関西訛り宿泊者を怪しんで、安藤という刑事が阿部定の部屋に入り、逮捕のきっかけとなったという。逮捕の時間は5月20日午後5時半という。
犬も歩けば式ではあるが、警察のお手柄なのだから、このとき使った偽名を予審調書に記載しないのはおかしい。ところが、この「予審調書」では、他の部分ではしつこく彼女の源氏名や偽名を証言させながら、ここではなぜか、そのことにふれていない。
また、ついでに言えば、その前までうるさく下駄が○円○十銭と書きながら、この品川館のシーンだけは、金額の話があまり出てこないのは、調書としてバランスを欠いているが、どうしてなのだろう。
※28その内良い気持ちで転寝をした処、石田の夢を見たので寝言でも云はなかったかどうか按摩に聞きましたが何事もありませんでした=このときの様子をその按摩さんは、次のように語っている。「更に左側ももみ始めるとまた妖しい媚態をみせ思はず誘ひこまれるやうな瞬間がいく度も…しかしあまり氣味わるい誘惑に冷汗をながしてもみつゞけること一時間半、いつしか眠つたらしい彼女が突然ウ、ウ、ウ、…と呻きはじめ、パツと眼を開いて朝日を吸いつけながら『あたし今何か云ひませんでしたか?』と心配そうに訊ね『何も云ひませんでした』と聞いて安心したやうにうなづいた」(昭和11年5月21日付讀賣新聞)
※29高橋お伝=嘉永3年生まれ。明治9年東京浅草で古着商の殺害容疑で逮捕され、明治12年1月31日、山田浅右衛門によって刑罰としては日本で最後となった斬首刑を受ける。享年30歳。希代の毒婦とされ、芝居や講談、小説などで扱われた。研究のため陰部をホルマリン漬けにし東大で保管されていたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で、正木ひろし弁護士の関わった首なし事件の首とともに焼失したともされている。
ちなみに、阿部定裁判で弁護を担当した竹内金太郎弁護士は、阿部定の情状弁論として高橋お伝を持ち出し、以下のように語っている。「彼の百世の毒婦と云はれて居る高橋お伝は生理上或る缺陥があつた、其れがお伝をしてあゝさせたと同様、被告人は自由意思で到底抑制出来得ない肉体上の缺陥を有して居るのである、故に被告人は精神的に前述の如き缺陥に加つて肉体上理智で抑圧出来ぬ缺陥を持つて居たが故に本件をじや起したもので刑事責任を減免阻却すべき肉体上の事実が現存して居るものである」(昭和11年12月9日付國民新聞)
※30買った切符は番頭に頼んで金を取り戻して貰ひました=品川―大阪間の三等切符で、払い戻しの金額は5円91銭(昭和11年5月21日付讀賣新聞)だった。
※31それ迄の勘定を全部払ひ=「六円廿六銭の書付を持つて行くと、五十銭銀貨でこれを払ひ、更にチップ一円を奮発した」(昭和11年5月20日付報知新聞号外)
※32離れの部屋に移して貰ひました=報道では、「『団体客があるから離れに代つて呉れ』といはれ同じ階下六畳と二畳の離れに移り」(昭和11年5月20日付報知新聞号外)とあって、阿部定の意思ではなく、旅館の都合で部屋を替わらざるをえなかったようだ。
※33レターペーパー=モダンな物言いなので、気にかかる。新聞では「品川館の封筒と便箋」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と説明されている。それが当時の一般的な日本人の表現だったのだろう。予審調書の中でカタカナ語は数少ない。あるのはカフェーやコーヒー、ウイスキー程度で、これらは当時はモダンでも日常語と言ってよく、それほど奇異に感じない。それが、なぜかここだけ、どの「予審調書」もカタカナ語になっている。戦前の軍国主義時代の堅くるしい調書に似つかわしくない表現だ。
『外来語の語源』(角川書店)で調べると、レターペーパーというカタカナ語がいつごろから使われたかはっきりしないが、どうも昭和に入ってからのようだ。未確認だが、阿部定は英語をよく使いこなしていたという説もあるから、案外、阿部定の言葉をそのまま予審調書に載せたのかもしれない。
「昭和11年の女」版には、阿部定が「三河屋」にいた当時、「三河屋」の娘であった志げ子という人の証言が紹介されている。それによると、
定はモダンな芸妓であった。志げ子には、「ハイカラさん」という定の像が、何よりも先に浮かび上がってくるのである。(中略)
「ハイカラさん」に見えたのは、英語を使う、撞球場に出かける、洋食屋に出入りする、といった定の日常の所作が、他の芸妓とまるでかけ離れていたからである。
定の英語がどのていどのものかは容易に推測できる。ちょっと小耳にはさんだ片コトを並べ立てて、お父さん(芸妓屋の主人)、お母さん(お女将)を煙に巻くたぐいのものであったろう。(後略)
ということだが、これが事実とすれば、このレターペーパーという言葉は、予審判事の好みではなく、阿部定自身が供述した言葉という可能性が高くなる。
※34大宮先生と黒川さんと死んだ石田さんとに宛てた遺書[を]三通書き=三人に対して一通ずつで三通。あて先は、被害者の石田吉蔵、大宮五郎、稲葉氏の内縁の妻である黒川は×宛であった。ただし、新聞によって文面などに若干の違いがあるので、それぞれ列挙して紹介しておこう。
(前略)黒川宛の文面の意味は
永々御世話になりまして有難うございました、皆樣によろしく
と簡單に記されてあり、石田宛のには封筒の表に「私のあなた」と書き中味は
私の一番好きなあなたが死んで私のものになりました、私も直ぐ行きます
と心中の決意をしてゐたらしい文面である(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)
(前略)殺した石田氏に宛てたものは『私の貴方』と封筒に表書して品川館の便箋に
私の一番好きな貴方、貴方が死んで私のものとなりました、私も直ぐ参ります
とあり黒川さんに宛てたものには
永々お世話になりまして有難う存じます、皆様によろしく
と認めてあつた、中京商業校長大宮五郎氏に宛てた遺書は『大宮先生』と封筒に表書して
先生に迷惑をかけて本当に相済みませんでした。先生が私を真人間にしてやるといつて可愛がつて下さいましたが、我がまゝな私にはそれがあまりうれしくありませんでした、やむを得ない事情で死んで行きます、いろいろお世話になりました
との意味のことが書いてあつた。(昭和11年5月21日付報知新聞)
※35警察の人が来た=品川館は、行政区分としては品川区にはなく港区高輪南町にあったため高輪署の管轄だった。だから高輪署の刑事が来たわけである。これは警察にとっては偶然の金星とも言うべきで、あとから阿部定は「どうして、あんな田舎警察(高輪署)のデカにつかまった? なれあいか?」と、警視庁の刑事からどなられたという。
ただ実は、警察がこの日、品川館を訪れたのは二度目であった。「午後四時頃、高輪署員二名が同旅館に調査に來た時、自信を持ち得なかつた同家ではつひにこの女客の事を言はず異状なしとして署員を歸したが一時間の後五時頃安藤部長刑事が宿帳調べに來た時つひに」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)とあって、阿部定逮捕は、安藤巡査部長が足しげく品川館に出向いたおかげであったともいえる。逮捕時間が4時と5時半の二つの説があるのは、こうした事情があって、情報が混乱したためだろう。
※36阿部定は私ですと云って捕った次第です=このときの様子を新聞では、「女は寢巻を着て寢て居り眼に眼帶などしてゐるので『違ふかな』と思つたが『僞名だらう?』と頭から聲をかけ『今から寢てゐるなんてたゞ者ぢやあるまい』とたたみかけると一向驚いた樣子もなく『實はお尋ね者の阿部定です』とあつさり出た」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と、まさに武勇伝的に語られている。ところが、一方の阿部定の説明では、ちょっと雰囲気が違っている。
わたしはもう観念していました。気持の上ではすっかり用意ができています。「あんまりソワソワしないで、すこしは落ち着いたら? あんたのさがしているのは阿部定でしょ」
「……」
「わたしが阿部定よ」
「からかうな、忙しいんだ」
刑事は怒ったようにこういうと、そのまま帰ってしまいそうになったので、わたしはまた「ほんとうよ。わたしがお定!」
「え?」と刑事が、足をとめ、じッとみつめていました。刑事の膝がガクガクふるえているじゃありませんか。よっぽどわたしの方が不貞くされた姐御に見えたんでしょう。(「私は石田を殺さない」『阿部定伝説』)
また、逮捕されたときの所持金は16円57銭(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)で、かなりの軽装だったようだ。
「かの女の捕われた最後の所持品はただ一つの小さな風呂敷包みである。嫌がるかの女から包みを取って開けて見ると、なかから出てきたものは何であったか……吉蔵の猿股、メリヤスのシャツがハトロン紙に包まれてあった。兇行に使用した刃渡り五寸の肉切り庖丁はかの女の枕許の蒲団の下から出てきた。だがまだ肝腎の局所が現われない。
安藤さんにせがまれたかの女は、大切そうに帯の聞からハトロン紙に包んだものをチラリと見せて、すばやくまた帯の間に挟んでしまった。その時のかの女の妖しき笑いに安藤さんもかの女のいうままになるよりしかたがなかったといっている」(若梅信次「阿部定猟奇事件」)。
※37昭和十一年押第七二一号の一乃至二九を示す=ここで特筆したいのは「昭和十一年押第七二一号の一乃至二九」の証拠品のうち、なぜか「二五」だけが欠落していることだ。
これについては、どうしたわけか、調査も編集も校正もしっかりしていそうな伊佐千尋の『愛するがゆえに』(文春文庫)をはじめ、ほとんどの「予審調書」が、この番号の押収品の供述だけを欠落させている。もし真正の調書で、こんなうっかりミスをしたら上司や裁判官に叱られかねない。
ちなみに、「訊問事項」版には、「二五ノセルノ単衣物ハ、新橋ノあづまやデ買ヒ、品川館迄着テ居タモノデス」と、ちゃんと「二五」が入っているわけだから、実際は予審判事も書記官もうっかりミスなどしていなかったことになる。ところが、よく見ると、なんと今度は「二三」が欠落している。僕の持っている資料のせいかもしれないが、「予審調書」という代物は、実に複雑怪奇な世界を漂ってきたものだ。
※38ギユウツと=ここでこれまでの「キュウと」という表現が変化していることに注意。つまり当初の供述であった表現ではなく、あとから変えた表現だ】
※39警視庁に居る頃は=阿部定は5月19日午後4時(5時半という説もある)に逮捕されたあと、荒川区の現場に近い尾久警察署に移送されたが、その数時間後の5月20日には警視庁に身柄を移され、以後ずっと警視庁で取り調べを受け、6月9日の送局(現在の送検に似た手続き)を受けて予審裁判が始まり、6月15日には市谷刑務所(いわゆる市ヶ谷監獄)の独房に収容された。警視庁送りになったときの新聞には、「廿日夜十一半ごろ警視廳の獨房に留置されてからはさすがに情痴生活と逃避行三日の疲れが出たものかグツスリと眠つたが、午前四時ごろ持病の胃痙攣をおこして鑑識課本田醫師の手當をうけ間もなく恢復した。廿一日朝は留置人の箱辯を食べて至極ほがらかに十一時から取調べをうけた」(昭和11年5月22日付讀賣新聞夕刊)と、そのときの様子を伝えている。
※40刑務所=市谷刑務所(牛込市ヶ谷監獄、東京刑務所、東京監獄)のこと。現在の新宿区市谷台町、住吉町、富久町を含む地域にあった。この刑務所は、もとは江戸時代に伝馬町にあった牢屋が明治8年に市ヶ谷に移されたもので、昭和12年には廃止されている。未決囚は裁判があるたびにここから霞が関の東京刑事地方裁判所などに送られた。主に未決囚が入った監獄だが、死刑台もあった。1908年には赤旗事件のため無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)が、ここに収監されている。永井荷風(ながいかふう)はこの刑務所の裏側に住んでいて、大逆事件(たいぎゃくじけん)の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の編笠姿を目撃したという。
※41今迄どんな男にも石田と同じ様な事をした訳ではありません=精神鑑定書にある稲葉氏の阿部定評は以下の通り。 「定ハ、考ヘガフラフラシテ居リ、平気デ嘘ヲ言ヒ、無類ノ男好キデスガ、男ニ執着スル女デハアリマセンデシタ」
「男ト関係中、一時ハ非常ニ熱シマスカ、直グ冷メル質デス」
「虚栄心ガ強ク、非常ニ我ノ強イ女デ、我儘ガ原因デ転々スル様ナ事ニナツタト思ヒマス」
……これを信じるなら、阿部定の供述もあながち嘘ではないように思える。
※42中川朝次郎さん=精神鑑定書から中川氏の証言を引用すると、中川氏の阿部定への評価は……、
「性交ハ好キナ方デ、執拗ク一晩一度デハ到底満足シナイ女デシタ」
「技巧ハ上手デナク、男ニ良クシテ貰ツテ自己満足ヲスル女デシタ」
「交接ノ感受性ガ非常ニ強イ女デ、高潮ニ達スルト動悸ガ激シクナリ、快感ノタメ身体ノ置場所モナイ様ニナリマスカラ、最初ハ驚イテ了ヒマシタ。五分位経ツテ水ヲ飲マセルト初メテ落着クノテス」関係スル度ニ左様ナ事ガアリマシタ」
「夫レニ性力ガ強ク、幾ラデモ続クト云フ方デ、良クナルト滅茶苫茶ニ何モカモ忘レテシマヒ、耽溺スルトイフ風デシタ」
……となっている。
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