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第六回訊問

[問 被告が待合「満左喜」で本年五月十七日の晩石田にカルモチンを飲ませた時之れが為め石田が死にはせぬと思わなかつたか
答 三十錠入り一罐全部飲ませた所で死ぬ様なことはないと思いました若し死ぬ様な危険があれば薬屋で売る筈はないし、カルモチンで死ぬには百錠以上飲まなければならないことを新聞で読んで知つて居りました]

問 被告は「満左喜」に居る間、石田の着物を隠したそうだが何故か。
答 石田が無断で帰ることはないと思って居りましたが着物を隠して帰らせない程、私が惚れて居たのでもあるし冗談でもあったのです。
問 石田は何とかして帰りたがって居たのではないか。
答 無論、石田の腹の中は知りませんが私に対して左様な様子は見せませんでした。若し、本当に帰りたいのなら帰る折は幾らでもあった筈です。
 十五日は私が留守にしましたし、十六日は石田に五円持たせて理髪へ遣ったし、着物を隠したと云っても[探せば]直ぐ判る程度なのでそれが為、石田が帰れなかったと云ふ事はありません。
 石田は五月十七日の夜中に初めて帰宅する話を持出しました。
[問 被告は五月十一日以後待合「満左喜」に居る間諸所へ電話を懸けたそうだが何故か
答 十二日に下谷の稲葉の家内黒川はなと中野の玉寿司、新宿の明治屋の三ケ所へかけ十六日に又黒川へかけましたが十二日黒川へかけた用事は「昨夜お話ししないで突然外出したが十五日迄に帰る」と云う知らせをする為めであり玉寿司へかけたのは明治屋の電話番号が判らなかつたから夫れを問い合す為めでありました、十六日に黒川に電話したのは待合「満左喜」にずる/\長居して何となく極りが悪いから待合の帳場へ態と聞える様に黒川へ電話を懸け一日二日に帰る様なことを云つて取りつくろつたり又探る為めもありました、明治屋へ懸けたのは昨夜勘定もせずに出た為め其言訳をする為めでありました念の為め申上げますが其頃から石田を殺す気があり殺した後の事を考へて人の目を誤魔化す為め左様な電話を懸けたのではありません当時石田を殺す気があつたとすれば電話等を方々へ懸ける様な事はありません]

問 被告は五月十五[、六]日大宮五郎に如何なる手紙を届けたか。
答 五十円使ひの者に渡して下さいと云ふ手紙でした。
問 その金を貰ってどうする心算であったか。
答 その頃持って居た金は四十五円でしたから待合の勘定にはとても足らないと思ひ、少しでも金があれば気楽に遊んで居られる[居れる]と思ひ先生に無心したのです。
 所が女中の返事では宴会に出て[先生は]留守だった為帰ったら渡して下さいと云って手紙を置いて来たとの事でした。私は手紙で頼んだ金を余り当にはしていませんでしたからその儘にして置いたのです。石田を殺してから逃げる旅費にする為[め]欲しいと思ったのではありません。
 序に申上げますが大宮先生に私が此手紙を出しさえしなければ※1世間から気違い見たいに思はれるような今度のことをしないで済んだ[だ]ろうと思うと何とも残念です。
問 それは何故か。
答 どっちにしたって石田は殺すより仕方なかったので、石田を殺して仕舞ふ迄は自分の身の振り方など[は]てんで頭にありませんでしたが殺してしまってから、[あの石田は死んでしまつたのだな]自分も生きて居れない、死ななければならぬのだと思ひ死ぬのを厭とも思ひませんでしたが同時に先生の事を考へ[出し]、昨日手紙さえ届けなかったら此事件で先生が引合に出される事はないのに手紙を届けたばかりにきっと警察に調べられ迷惑が懸るに違いない、何としても申訳ない[ことをしたから]一目会ってお詫びしたいと考へました。
 若し先生の事を左様に考へなかったら私はきっと「満左喜」の二階か物干で※2頸を吊って死んだのでしたが、先生の事を考へて外出する気になったばかりに石田と別れるのが淋しいので石田のシャツを着たりオチンチンを切ったり気違ひ染みた事をしてしまったのです。
 そんな事で、世間から変態のように云はれるのが口惜しう御座います。
問 では犯行後逃走した経路[ニ付キ、について]述べよ。
答 五月十八日午前八時頃、待合「満左喜」を出た時は五十円位持って居り新宿伊勢丹の角で自動車を乗り捨て新宿駅に行って円タクに乗り、上野の松坂屋前で下りました。[トル]
 午前九時頃付近の小野古着屋※3に行き仕度を変へる為[め]、着て居た白地玉結城の袷と銀鼠地ウズラ織袷羽織とを十三円五十銭で売り、鼠色麟飛模様単衣御召※4 を五円で買ひ店の次の間で着換へ、小僧に頼んで木綿風呂敷を買って貰ひ新聞[紙]包の牛刀をその風呂敷に包んでその店を出てから松坂屋前の電車通りの下駄屋※5に行き桐[の]駒下駄を一円四十[五]銭で買い、穿いて居た表付の下駄をその店に預け、その店の世話で隣の電話を借りて[待合]「満左喜」の女中さんに昼頃帰るからそれ迄起さずに置いて下さいと云ふ[電話を懸ける]※6承知して呉れたので未だ判らないと安心し、なお神田の万代館※7に居る大宮先生に電話をかけ五分か十分でよいから会って下さいと云ひ、万惣果物店※8の前で会ふ事になり、円タクに乗って行き其処で先生に会ひ、又円タクで日本橋[の]木村屋喫茶店に行きコーヒーやトーストを取って暫く休みましたが、私は先生を見ると申訳なく涙が出て仕方がありませんでした[が]
 店が騒しく[て]詳しい話が出来ず「失礼な手紙を差上げて申訳[が]なかった」と云ふお詫びを云ひ昭和通り※9のそば屋で私だけ天丼を食べ先生に是非一時間位ゆっくりして貰ひ度いと云ふと先生はそれでは「夢の里」へ行こうと云ひましたが全然知らない旅館に行きませうと云って、それから円タクで大塚の方に行き市電車庫※10付近の「みどり屋旅館」※11に行きました。
 私は「みどり屋」に行っても[で先生と会つていても][だ]泣けて仕方なく先生には石田を殺した事等云はず[に]それとなく「今後どんな事があっても貴下は※12私を金で買っただけの事だからそう云ふ気持ちで居て下さい」と云ふ意味のことを繰返し「心から貴下を思って居るから私を恨まないでいて下さい」と云って泣いていました。
 所が先生は私の気持が判らないと見えて情夫の事で謝って居るのだと思ったらしく今更そんな事は云はないでも判って居る、此間からアパートを借りようと思って探して居るが※13良い所がない、今日愈々校長を辞めたので今迄に一番気持ち良くお前に会って居るのだと云ひました。私は何も知らない先生の朗らかな気持ちを考へ一層申訳なく泣きましたが久し振りで私と会った先生の気持ちを察して慰める為に[為め]とに角寝ませうと云ひ、宿の人に布団を敷いて貰ひ[私は]先生に知れない様に[ぬ様]腹に巻いた褌を取り、シャツ、ズボン下を[を]脱ぎオチンコの紙包※14はそっと布団の下に入れ、先生と寝ました。
 その時、先生は私に「変な話だがお前は少し臭い」※15と云ひました。私は気持ちが少しも引き立たず全く[御]義理で先生と関係し、その後、先生が入浴して居る間に元通り仕度し、勘定は先生から受取った十円で払ひ午後一時頃「みどり屋」を出て円タクを拾ひ新宿に行きましたが途中先生は今度二十五日に東京駅で会ふと云って小石川の壱岐坂※16で下り、私は新橋六丁目で自動車を捨てました。
 初めは先生と会ってから死なうと思って居りましたが、先生と別れてから私はどっちにしたって死ななければならないと漠然[トル]考へて[は]居り[居]ましたが石田の、大事なものを身に付けて居る為[め]安心した[様な]気持ちも起らず、もっと石田と一緒に居て石田を追慕[追想]したり何かして[は]楽しむ為[め]東京に居て、それから大阪へ行かうと考えて居りました。その時私が着て居たお召の単衣物はまだ時期が早くて似合ひませぬし、上野で買った駒下駄はきつくて足が痛かったものですから新橋中通の「あづまや」※17と云ふ古着屋でセルの単衣物と名古屋帯と帯上げを十二円二十銭で買ひ着物を着換へて出掛け、近所の下駄屋で総革草履を二円八十銭で買って履き駒下駄は紙箱に入れて貰ってブラ下げて出ました。
 なお、近所で二円五十銭の眼鏡を買って掛けましたが、勿論人目につかない様にする為でした。午後四時頃、新橋六丁目市電停留所の寿司屋に寄り寿司を五十銭取り少し喰べ、残りを包んで貰ひぶらぶら歩いて銀座のコロンバンと云ふ喫茶店※18に寄り、其処を出てから昭和通りまで歩き円タクで浜町公園※19に行き其処のベンチに腰掛け、一時間ばかり考へ込んで居りました。
 幾ら考へて見ても結局前と同じ様な事を考へる丈でどうせ死ななければならぬが大阪へ行って生駒山※20から谷底へ飛び込んで死のうと思いました。
 三原山等の話※21は聞いて居りますが行く道さへ知れず、生駒山なら遊びに行った事があって知って居りましたから其処で死のう[死なう]と思ったのです。
 何れにせよ直ぐ死ぬ程の勇気は未だなく、暫く石田の事を考へて居たい様な気がしたので今晩一晩東京で泊らうと思い、公園前の喫茶店でコーヒーを飲みながら夕刊を見た所未だ変った記事は[が]ありませんから大丈夫だと思ひ夜十時頃、浅草の上野屋と云ふ以前泊った事のある宿屋に行きました。行くと直ぐさっと風呂に入りましたが、大事な紙包は風呂場へ持って来て置きました。二階の部屋で一人寝ましたが布団の中でその紙包を拡げ、石田のオチンコと睾丸を眺めて[居り]少しそれをシャブッたり一寸当てて見たり色々考へて少し泣いたりして碌々寝られませんでした。
 朝早く帳場の新聞を借りて見ると、私の若い時の写真や尾久の事が書いてありましたから宿の者に此の新聞を見られては大変だと考へ布団の下に隠して置き、十九日午前十時頃勘定を払ひ雨が降って居ましたから下駄と洋傘とを借りて宿を出ました。
 大阪へ行くのは[行くとしても雨が降つて居るし恰好がつかないから]夜行に仕様と思ひ浅草に行き松竹館※22に入り、お夏清十郎の活動※23を見て午後二時頃青バス※24で銀座に行き、[御飯を食べようと思ひ]少し歩きましたが恰好が悪かった為[め]円タクで品川駅に行き午後四時頃でしたか大阪行の三等普通列車※25の切符[トル]を買いました。
 この汽車は六時十九分で未だ二時間もありましたから駅の売店で新聞五通※26買ひ、汽車で読む心算で荷物と一諸[一緒]に包み駅前の喫茶店で酒一本飲んで空腹の為[め]とても酔ひ眠くなってしまひましたから、午後五時頃近所の品川館と云ふ旅館※27に行き、湯に這入ってからビールを一本飲み按摩を呼んで貰ひました。その内良い気持ちで転寝をした処、石田の夢を見たので寝言でも云はなかったかどうか按摩に聞きましたが何事もありませんでした。※28
 按摩を帰してから御飯を食べ、夕刊を見ました。それ迄はそれ程に思って居りませんでしたが、高橋お伝※29だとか何とか大変なことを書きたてて各駅に全部刑事が張り込んで居る事が書いてあったので大変な事になった、もう生きては居られない[し]、大阪へ行くどころではないから[気の毒だが]この宿屋で死なうと決心し、買った切符は番頭に頼んで金を取り戻して貰ひました。※30此儘宿屋に居れば警察から調べに来てその晩の内にも捕へられるから早く死にたいと思ひましたが欄間が低い為[め]頸を吊ると足が届いてしまひ死ねそうもありませんから捕へられるのを覚悟で午前一時迄起きて居りました。
 所が[其晩は]警察から誰も来なかったので部屋で死なうと思い、朝女中に頼んでそれ迄の勘定を全部払ひ※31離れの部屋に移して貰ひました。※32此処で頸を吊り庭迄足を延ばせばきっと死ねると思ひましたから、レターペーパー※33や万年筆を借りて大宮先生と黒川さんと死んだ石田さんとに宛てた遺書[を]三通書き※34夜中に死ぬ心算でビール二本ばかり飲んでから寝て居ると、その日午後四時頃警察の人が来た※35ので阿部定は私ですと云って捕った次第です。※36

(このあと二十九点の証拠品の認定、再び訊問に入る)=この( )部分は、他の予審調書にはない。別冊新評編集部か、原稿におこしたライターが、たとえば筆耕するのが面倒くさかったとか、あるいはページ調整のためといった、きわめてダルな理由で端折ってしまったのだろう。他の資料では「問 之等の品に覚えがあるか」に続いて(此時予審判事は昭和十一年押第七二一号の一乃至二九を示す)という文章があり、29点の証拠に対する阿部定の供述が展開される。筆者としては別冊新評編集部の考えとは違って重要な箇所だと思うので、たぶん怠惰や紙数のために削除された箇所を「公判記録」版から引用しておく。「……」は原本で伏字となっている箇所で、筆者が脱落している可能性のある文字とともに[ ]内に補った。

問 之等の品に覚えがあるか
(此時予審判事は昭和十一年押第七二一号の一乃至二九を示す※37
答 一の腰紐は待合「満左喜」で石田の頚を締めるのに使つた私の腰紐です 二、三の桜紙は私が「満左喜」で使つて居たものと同じものですから「さくら」の間にあつたとすれば私が片付け残したものかも知れませぬ 四の[陰]毛は石田の陰部を切る時一緒に切れたのを私が座敷へ取り落したものだと思います 五の雑誌は「満左喜」に居た当時買つて来て貰つて読んで居たもので石田を殺した後で枕元に之を捨てゝ置きました 六の眼薬は石田の頚を締めて顔が赤くなつた時資生堂から買つて来たものです 七と九の浴衣と袢天は「満左喜」から借りて石田が使つたもので石田を殺す時は裸で寝て居ましたが殺してから其の二枚を着せて置きました 八の敷布は石田が敷いて居たもので之れに書いてある「定、吉、二人きり」と云うのは私の書いた字です 一〇の花札は「満左喜」から借りて石田と遊ぶのに使つたものです 一一の[都]新聞は「満左喜」から借りてさくらの間に持つて来て置いたもので其内の一枚か二枚かは汚れ物を包んで便所に捨てました 一二の脱脂綿は使つた覚えがありません 一三乃至一五の汚れ物は汚いものを便所に捨てましたから「満左喜」の便所から出たものとすれば私が捨てたものと思います 一六の手洗の蓋は便所へ水を流した際落したものです 一七乃至一八の[陰][茎][睾]丸は私が石田から切り取り捕まる迄持つて居たものに相違ありませぬ 一九の肉切庖丁は買つたもので石田の局部を……[切り]取つたり名を石田の腕に彫り付ける時使つたものです 二〇、二一、二二の衣類は石田のもので「満左喜」から出る時私が身に付けて持ち出したものです 二三の遺書は私が品川館で書いたものです 二四の御召の単衣は小野古着店で買い先生と会つた間一時着て居たのです 二六の名古屋帯 二七の帯上げも同様です 二八の眼鏡は新橋で買い品川館に居る時掛けて居たものです 二九の新聞紙は品川駅の売店で買つたものです
問 被告が書いた石田宛の遺書に依ると十六日の晩石田を締めた時殺す考えがあつた様にも思えるがどうか
答 前の晩咽喉を締める時は是非殺すと云う決心はなかつたのですが締め乍ら……[関係]して居る内迚も可愛くなりギユウツと※38締めたので詰り殺してしまいたい程可愛くなつたのですが石田が苦しそうなのを見て手を離したのです

問 被告は今度の事件に付て現在どう考へているか。
答 警視庁に居る頃は※39未だ安心して嬉しい様な気持ちであり、石田の事を喋ることは嬉しかったし、夜になると石田の夢を見たいと思ひ刑務所※40へ来た当座も未だ石田の夢を見ると可愛い様な嬉しい様な気持ちがして居りましたが一日一日と気持ちが変って、此頃はあんな事をしなければよかった、馬鹿馬鹿しい事をしたと後悔して居ります。
 殊に殺さなかったら良かったが仕方がない、殺して[も]石田のものを取ったりシャツを着たりしなければ良かったと思ひます。一番後悔して居ることはあんな事さえしなければ今頃は大宮先生と一緒になって幸福なのだがと思ふことです。
 併し、大宮先生があるから石田の事を馬鹿馬鹿しいと思ふのではないかと考えると石田に申訳[の]ない様な気もします。只今では成可く石田の事を忘れ様と骨折って居ります。従って今後此の事件の事は口にしたり考へ[たりし]たくないので、出来れば公判とか裁判とか大勢の所で色々の事を聞かれるより御役所で然る可く相談して刑を定めて下さい。不服等云はず快くその刑を受ける心算です。その[そう云ふ]意味で弁護士はいらない様に思ふのですが、ただ世間から私を色気違ひの様に誤解されるの[で]一番残念で、此の点申開きする為[めに]矢張り弁護士を頼まうかと思ひます。ですから最後に申述べさして頂きたいのですが、私が変態性欲者であるかどうかは私の今迄の事を調べて貰へば良く判ると思ひます。今迄どんな男にも石田と同じ様な事をした訳ではありません。※41今迄は自分を忘れて男と関係したことはなく好きな男だと思ひ金を貰はないで遊んだことも随分ありますが、それでも自分を忘れず時と場合と考へて簡単に別れて居りました。
 例へば中川朝次郎さん※42にしても寝た時[に]は良いが顔や姿の悪いアラが良く判って居り、同人と関係して自分が眠って居る間に帰られ、今頃は家内を抱いて居るなと想像しても平気であったし、大阪で淫売当時知り合った八木幸次郎と云ふ人は様子も良いし表面金離れもよかったし可成り惚れ合って居ましたが金もないのに取りつくろって見栄をはる様子が目に付き別れるのを何とも思ひませんでした。
 今迄私はそれ位理性が勝って男に吃驚された事もありました。
 所が石田だけは一点の非[点]の打ち所がなく、強いて云へば品がありませんが却ってその粋な所を私が好いたので全く身も心も惚れ込んでしまったのです。女として好きな男を好くのは当り前です。私の事は世間に判ったから可笑く騒がれるのですが、女が男のものを酷く好く様子をするのは世間にざらにあると思ひます。
 早い話が女が刺身を好かなくとも亭主が好けば自然と好く様になり、亭主の留守に枕を抱へて寝たりする事は良くある事と思ひます。自分の好きな男の丹前の臭をかいで気持ちを悪くする様な女がありませうか。好きな男が飲み残した湯呑の湯を呑んでも[お]美味いし、好きな男が嚙んだものを口移し[にして]食べても[お]美味がる事もよく世間にあります。芸者を落籍するのも結局、自分の独占にしやうとするからで男に惚れた余り今度私がやった程度の事を思ふ女は世間にあるに違ひないのです[が]、ただしないだけのものだと思ひます。尤も、女だって色々あり恋愛本位では御飯が食べられないと思って物質本位の人もありますが、恋愛の為[め]止むに止まれず今度私のした様な事件になるのも色気違ひばかりではありません。

=脚注=

※1大宮先生に私が此手紙を出しさえしなければ=実際、この手紙が警察に察知され、5月18日の夜、つまり大宮氏が阿部定と別れて、校長会議に出た日の夜遅く、警察は大宮氏を参考人として取り調べることになってしまった。そこで「初めて事件を知った大宮は、すぐに辞職届を出して校長の職をしりぞいた」(戸川猪佐武『素顔の昭和』)とある。
※2「満左喜」の二階か物干しで=兇行のあった部屋の向かいにはトイレがあり、そのトイレに接して物干場があった。あとは、二階には自殺するのに適当な場所は見当たらない。すると、「二階の物干で」とするのが妥当とも思われるが、ほぼすべての資料が「二階か物干で」となっている。
※3麟飛模様単衣御召=「麟飛」という名称の柄は調べても発見できない。当時の新聞報道では「銀色と白色の鱗模様のある薄鼠色の鶉お召の単衣」(昭和11年5月20日付讀賣新聞夕刊)とあるほか、「鼠地に銀箔のウロコ形飛模様のついた単衣の襦袢」(「阿部定猟奇事件」若梅信次)、「鼠色鱗飛模様単衣御召」(「ドキメント日本人」版)とあるから、「麟」は「鱗」の完全な校正ミスだろう。
※4小野古着屋=この店名が、新聞報道と異なっていることは、既に述べた。が、問題は、第五回訊問では「小野古着店」となっているのに、ここでは「小野古着屋」となっていることだ。以後、この第六回訊問の中でも「小野古着店」と「小野古着屋」が混在している。この事情は、「小野古着店」で統一されている「訊問事項」版を除いて、ほとんどの予審調書に通じる特徴だ。
 なんという不注意なのか。予審裁判での書記が適当に書き綴った結果なのか。それとも、あとで秘密裡に予審調書を刊行した者の不注意なのか。どちらにしても、杜撰なことではある。
※5電車通りの下駄屋=電車通りとは、市電が走っている通りをさす。新聞では、「下谷区上野北大門町(したやくうえのきただいもんちょう)根岸下駄屋」(昭和11年5月21日付報知新聞)とある。この住所は、現在は台東区上野3丁目付近と思える。
※6昼頃帰るからそれ迄起さずに置いて下さいと云ふ[電話を懸ける]と=新聞報道にしたがえば、このときの電話の内容と電話をかけた時刻が、予審調書とはちょっと違う。つまり「同九時半頃まさきへ電話をかけ女中に『ヨーさん(石田のこと)は今朝から胃痙攣を起こしてゐるけれど、あれは放つて置けば癒るんだから午後三時頃まで起さず靜かに寢かして置いて頂戴』といひ惨事の發見がおくれ女怪の逃走を容易ならしめた原因は全くこの電話故であつた」(昭和11年5月21日東京朝日新聞夕刊)となっているのだ。記憶している内容が、人によって違うということなのか。それとも阿部定は二回も電話をかけたのか? 調書の内容がいい加減なのか?
※7万代館=新聞などによると、正確には「万代家旅館」で、その名前を縮めたとしても「万代館」にはならない。戸川猪佐武の『素顔の昭和』でも「万代館」となっているなど、どの資料でも同じく、予審調書にあるデータを鵜呑みにしている。予審調書は、調べもしないで、阿部定の不確かな記憶をそのまま記載している。なんという杜撰さか。この万代家旅館は神田区淡路町2丁目にあった。
※8万惣果物店=現在は万惣フルーツパーラー。第三回訊問にも「須田町の万惣で先生に会ひ」とある。万惣は二人の目印になっていたのか。千代田区神田須田町1丁目。創業1846年。万惣という店名の由来は、万惣の創始者は青物問屋「万屋(よろずや)」を新潟で営んでいて、初代の青木惣太郎が現在の場所にお店を開いたことから、万屋の惣太郎で「万惣」となったという。
※9昭和通り=関東大震災後の帝都復興計画に基づいて昭和3年に開通した。
※10市電車庫=市電(路面電車、現在の都電)の車庫。文京区大塚1丁目にあり、現在は都営バス大塚支所でバスの車庫。大正14年開設。
※11みどり屋旅館=既出。多くの資料が「大塚のみどりや旅館」としているが、実際は、住所は大塚ではなく、現在でいえば豊島区西巣鴨2丁目にあたる。
※12貴下は=とても奇妙な言い回しだ。まさに調書の文体まるだし。この表現は他の回には出てこないから、書記が変わったのだろう。
※13此間からアパートを借りようと思って探して居るが=大宮氏は実際にアパート物件を探していた。たとえば5月17日午後3時ごろに、万代家旅館の筋向いにある須田町1丁目の連雀荘アパートに部屋を貸してくれと訪れている(昭和11年5月19日付讀賣新聞)
※14オチンコの紙包=古着屋の証言によると、この「紙包」の形状は、「新聞包はまるめたやうな形で中身は無論わかりませんがハンドバックのやうな大きなものではなくもつと小さいものだと思はれます」(昭和11年5月20日付讀賣新聞夕刊)となっている。だが、新聞報道では例のブツを当初からハトロン紙で包んで持ち歩いていたとして、「終始ハトロン紙で一巻にしたまゝ肌身につけ」(昭和11年5月21日付報知新聞)とあるし、のちに若梅信次も「彼女の最後の所持品は、ただ一つの小さな風呂敷包みである。中から出てきたのは吉蔵の猿股、メリヤスのシャツ。凶行に使用した刃渡り五寸の肉切庖丁は、枕もとの蒲団の下から出てきた。だが、かんじんの局所が現われない。安藤さんにせがまれた彼女は、大切そうに帯の聞からハトロン紙に包んだものをチラリと見せて、すばやくまたしまいこんでしまった」と書いている。
 すると整合性のある説明としては、持ち運ぶときには、ハトロン紙に包んだものをさらに新聞で丸めるようにして包んでいたと思われる。ちなみに、第五回訊問では「石田の枕元に置いてあった『富士』と云ふ雑誌の表紙の包紙を剥ぎ、その紙に切り取ったオチンチンと睾丸を包み」とあるから、今日でも古本屋で雑誌や書籍を買ったときに包装に使われる茶色のちょっと厚手の紙で、切り取った局部を包んだと思われる。それをハトロン紙と報道したのだろう。ちなみにハトロン紙とは、「(hard‐rolled paper)薄茶色の薄くてじょうぶな洋紙。包装・封筒などに使われる」(学研国語大辞典)とある。
※15お前は少し臭い=「彼の女は、切断したものをハトロン紙に大事に包んで、文字通りの肌身自分の乳と乳との間の帯の間に片どきも離さずかたくしまつてゐたのだ、それは三日間の時の経過と女の体温とですでに腐敗して異臭がプン/\としてゐた」(昭和11年5月21日付讀賣新聞夕刊)とあるから、結構外に臭気が漏れていて、臭いものだったのだろう。
※16壱岐坂=いきざか。文京区本郷1・2丁目にある坂。面白いのは、相対会編集の精神鑑定書では、「台岐坂」になっていることだ。もちろん明らかな誤植だが、ここで連想するのが「邪馬台(臺)国」は、「邪馬一(壹)国」の誤りだという説だ。なるほど「壹」と「臺」はよく似ている。すると相対会がもとにした精神鑑定書には、この坂の実際の名称である「壱岐坂」ではなく「壹岐坂」と間違えて書いてあった可能性も出てくる。実際、「本郷壹岐坂附近で自動車を降り」(昭和11年5月21日付報知新聞)と誤植している新聞もある。「壱」も「壹」も同じと思ったか、相対会が精神鑑定書の中にある「壹」を新字で書き写したとき、「台」と書き間違えたことも十分ありうる。ただし、相対会の識字能力と校正能力は劣悪だったようだから、「壱」ですら「台」と読み違えた可能性は否定できない。
 ただ、先程の新聞報道の続きの箇所が、ちょっと納得できない。「さだだけは本郷壹岐坂附近で自動車を降り徒歩で新橋の『あづまや』古着店で更に着物を買ひ」(昭和11年5月21日付報知新聞)としていて、壱岐坂で阿部定がタクシーから降り、歩いて新橋まで行ったように書いてある。本郷から新橋は、かなりの距離があるから納得できない。
※17新橋中通の「あづまや」=新聞では「芝區新橋の古着屋あづま屋」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)とある。また「あずまや」とする説もある。阿部定はこの店の奥の四畳半を借りて着替えをしたという(戸川猪佐武『素顔の昭和』)
※18銀座のコロンバンと云ふ喫茶店=銀座6丁目の老舗喫茶店。昭和6年創業というから、阿部定事件の当時は、まだ新しい店だったのだろう。冷房装置があり、ケーキが冷房ケースに入っていて、2階のサロンには藤田嗣治の天井画6枚が描かれていたというから、当時としてはモダンな喫茶店だったのだろう。
※19浜町公園=はまちょうこうえん。江戸時代は熊本藩主細川公の下屋敷。関東大震災復興計画により昭和4年に開園。
※20生駒山=いこまやま。奈良県と大阪府の間にある山。
※21三原山等の話=昭和8年に伊豆大島の三原山(みはらやま)の火口に投身自殺する事件があり、投身自殺ブームが起きて、同年中に944人も投身自殺したといわれる。
※22松竹館=浅草松竹館(松竹セコハン)のこと。浅草公園にあった松竹映画の封切館。昭和19年には映画興行から実演劇場となり、戦後は松竹演芸場となった。
※23お夏清十郎の活動=松竹キネマ下加茂製作。昭和11年。犬塚稔監督、田中絹代、林長二郎(長谷川一夫)主演の映画】
※24青バス=現在の感覚で、終バス(赤バス)の一本手前の時間に走るバスと思う人も多いことだろうが、この場合は、戦前に東京乗合自動車が経営していた乗合バスのことをさす。
※25三等普通列車=現在の普通車。「ハ」の等級番号が付いている。昭和34年に廃止されるまで、国鉄の列車は一等、二等、三等の等級に分かれていた。のちに一等がなくなり二等が一等に、三等が二等になった。予審調書中で「三等普通車」とわざわざ断ってあるのは、三等車は、特急や急行にも接続されていたからだろう。
※26新聞五通=新聞は「○通」という単位ではなく「○紙」という単位で数えるから、「五通」は「ごとおり」と読むのだろう。
※27品川館と云ふ旅館=港区高輪南町七六、品川駅前の旅館の四三号室(「階下六畳の四六号室」とする報道もある)に宿泊。大阪市南區南園町二〇九無職大和田直(三七)という偽名で投宿した。この男か女かわからない関西訛り宿泊者を怪しんで、安藤という刑事が阿部定の部屋に入り、逮捕のきっかけとなったという。逮捕の時間は5月20日午後5時半という。
 犬も歩けば式ではあるが、警察のお手柄なのだから、このとき使った偽名を予審調書に記載しないのはおかしい。ところが、この「予審調書」では、他の部分ではしつこく彼女の源氏名や偽名を証言させながら、ここではなぜか、そのことにふれていない。
 また、ついでに言えば、その前までうるさく下駄が○円○十銭と書きながら、この品川館のシーンだけは、金額の話があまり出てこないのは、調書としてバランスを欠いているが、どうしてなのだろう。
※28その内良い気持ちで転寝をした処、石田の夢を見たので寝言でも云はなかったかどうか按摩に聞きましたが何事もありませんでした=このときの様子をその按摩さんは、次のように語っている。「更に左側ももみ始めるとまた妖しい媚態をみせ思はず誘ひこまれるやうな瞬間がいく度も…しかしあまり氣味わるい誘惑に冷汗をながしてもみつゞけること一時間半、いつしか眠つたらしい彼女が突然ウ、ウ、ウ、…と呻きはじめ、パツと眼を開いて朝日を吸いつけながら『あたし今何か云ひませんでしたか?』と心配そうに訊ね『何も云ひませんでした』と聞いて安心したやうにうなづいた」(昭和11年5月21日付讀賣新聞)
※29高橋お伝=嘉永3年生まれ。明治9年東京浅草で古着商の殺害容疑で逮捕され、明治12年1月31日、山田浅右衛門によって刑罰としては日本で最後となった斬首刑を受ける。享年30歳。希代の毒婦とされ、芝居や講談、小説などで扱われた。研究のため陰部をホルマリン漬けにし東大で保管されていたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で、正木ひろし弁護士の関わった首なし事件の首とともに焼失したともされている。
 ちなみに、阿部定裁判で弁護を担当した竹内金太郎弁護士は、阿部定の情状弁論として高橋お伝を持ち出し、以下のように語っている。「彼の百世の毒婦と云はれて居る高橋お伝は生理上或る缺陥があつた、其れがお伝をしてあゝさせたと同様、被告人は自由意思で到底抑制出来得ない肉体上の缺陥を有して居るのである、故に被告人は精神的に前述の如き缺陥に加つて肉体上理智で抑圧出来ぬ缺陥を持つて居たが故に本件をじや起したもので刑事責任を減免阻却すべき肉体上の事実が現存して居るものである」(昭和11年12月9日付國民新聞)
※30買った切符は番頭に頼んで金を取り戻して貰ひました=品川―大阪間の三等切符で、払い戻しの金額は5円91銭(昭和11年5月21日付讀賣新聞)だった。
※31それ迄の勘定を全部払ひ=「六円廿六銭の書付を持つて行くと、五十銭銀貨でこれを払ひ、更にチップ一円を奮発した」(昭和11年5月20日付報知新聞号外)
※32離れの部屋に移して貰ひました=報道では、「『団体客があるから離れに代つて呉れ』といはれ同じ階下六畳と二畳の離れに移り」(昭和11年5月20日付報知新聞号外)とあって、阿部定の意思ではなく、旅館の都合で部屋を替わらざるをえなかったようだ。
※33レターペーパー=モダンな物言いなので、気にかかる。新聞では「品川館の封筒と便箋」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と説明されている。それが当時の一般的な日本人の表現だったのだろう。予審調書の中でカタカナ語は数少ない。あるのはカフェーやコーヒー、ウイスキー程度で、これらは当時はモダンでも日常語と言ってよく、それほど奇異に感じない。それが、なぜかここだけ、どの「予審調書」もカタカナ語になっている。戦前の軍国主義時代の堅くるしい調書に似つかわしくない表現だ。
『外来語の語源』(角川書店)で調べると、レターペーパーというカタカナ語がいつごろから使われたかはっきりしないが、どうも昭和に入ってからのようだ。未確認だが、阿部定は英語をよく使いこなしていたという説もあるから、案外、阿部定の言葉をそのまま予審調書に載せたのかもしれない。
「昭和11年の女」版には、阿部定が「三河屋」にいた当時、「三河屋」の娘であった志げ子という人の証言が紹介されている。それによると、
 定はモダンな芸妓であった。志げ子には、「ハイカラさん」という定の像が、何よりも先に浮かび上がってくるのである。(中略)
「ハイカラさん」に見えたのは、英語を使う、撞球場に出かける、洋食屋に出入りする、といった定の日常の所作が、他の芸妓とまるでかけ離れていたからである。
 定の英語がどのていどのものかは容易に推測できる。ちょっと小耳にはさんだ片コトを並べ立てて、お父さん(芸妓屋の主人)、お母さん(お女将)を煙に巻くたぐいのものであったろう。(後略)
 ということだが、これが事実とすれば、このレターペーパーという言葉は、予審判事の好みではなく、阿部定自身が供述した言葉という可能性が高くなる。
※34大宮先生と黒川さんと死んだ石田さんとに宛てた遺書[を]三通書き=三人に対して一通ずつで三通。あて先は、被害者の石田吉蔵、大宮五郎、稲葉氏の内縁の妻である黒川は×宛であった。ただし、新聞によって文面などに若干の違いがあるので、それぞれ列挙して紹介しておこう。
(前略)黒川宛の文面の意味は
 永々御世話になりまして有難うございました、皆樣によろしく
と簡單に記されてあり、石田宛のには封筒の表に「私のあなた」と書き中味は
 私の一番好きなあなたが死んで私のものになりました、私も直ぐ行きます
と心中の決意をしてゐたらしい文面である
(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)
(前略)殺した石田氏に宛てたものは『私の貴方』と封筒に表書して品川館の便箋に
 私の一番好きな貴方、貴方が死んで私のものとなりました、私も直ぐ参ります
とあり黒川さんに宛てたものには
 永々お世話になりまして有難う存じます、皆様によろしく
と認めてあつた、中京商業校長大宮五郎氏に宛てた遺書は『大宮先生』と封筒に表書して
 先生に迷惑をかけて本当に相済みませんでした。先生が私を真人間にしてやるといつて可愛がつて下さいましたが、我がまゝな私にはそれがあまりうれしくありませんでした、やむを得ない事情で死んで行きます、いろいろお世話になりました
との意味のことが書いてあつた。
(昭和11年5月21日付報知新聞)

※35警察の人が来た=品川館は、行政区分としては品川区にはなく港区高輪南町にあったため高輪署の管轄だった。だから高輪署の刑事が来たわけである。これは警察にとっては偶然の金星とも言うべきで、あとから阿部定は「どうして、あんな田舎警察(高輪署)のデカにつかまった? なれあいか?」と、警視庁の刑事からどなられたという。
 ただ実は、警察がこの日、品川館を訪れたのは二度目であった。「午後四時頃、高輪署員二名が同旅館に調査に來た時、自信を持ち得なかつた同家ではつひにこの女客の事を言はず異状なしとして署員を歸したが一時間の後五時頃安藤部長刑事が宿帳調べに來た時つひに」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)とあって、阿部定逮捕は、安藤巡査部長が足しげく品川館に出向いたおかげであったともいえる。逮捕時間が4時と5時半の二つの説があるのは、こうした事情があって、情報が混乱したためだろう。
※36阿部定は私ですと云って捕った次第です=このときの様子を新聞では、「女は寢巻を着て寢て居り眼に眼帶などしてゐるので『違ふかな』と思つたが『僞名だらう?』と頭から聲をかけ『今から寢てゐるなんてたゞ者ぢやあるまい』とたたみかけると一向驚いた樣子もなく『實はお尋ね者の阿部定です』とあつさり出た」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と、まさに武勇伝的に語られている。ところが、一方の阿部定の説明では、ちょっと雰囲気が違っている。
 わたしはもう観念していました。気持の上ではすっかり用意ができています。「あんまりソワソワしないで、すこしは落ち着いたら? あんたのさがしているのは阿部定でしょ」
「……」
「わたしが阿部定よ」
「からかうな、忙しいんだ」
 刑事は怒ったようにこういうと、そのまま帰ってしまいそうになったので、わたしはまた「ほんとうよ。わたしがお定!」
「え?」と刑事が、足をとめ、じッとみつめていました。刑事の膝がガクガクふるえているじゃありませんか。よっぽどわたしの方が不貞くされた姐御に見えたんでしょう。
(「私は石田を殺さない」『阿部定伝説』)
 また、逮捕されたときの所持金は16円57銭(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)で、かなりの軽装だったようだ。
「かの女の捕われた最後の所持品はただ一つの小さな風呂敷包みである。嫌がるかの女から包みを取って開けて見ると、なかから出てきたものは何であったか……吉蔵の猿股、メリヤスのシャツがハトロン紙に包まれてあった。兇行に使用した刃渡り五寸の肉切り庖丁はかの女の枕許の蒲団の下から出てきた。だがまだ肝腎の局所が現われない。
 安藤さんにせがまれたかの女は、大切そうに帯の聞からハトロン紙に包んだものをチラリと見せて、すばやくまた帯の間に挟んでしまった。その時のかの女の妖しき笑いに安藤さんもかの女のいうままになるよりしかたがなかったといっている」
(若梅信次「阿部定猟奇事件」)。

※37昭和十一年押第七二一号の一乃至二九を示す=ここで特筆したいのは「昭和十一年押第七二一号の一乃至二九」の証拠品のうち、なぜか「二五」だけが欠落していることだ。
 これについては、どうしたわけか、調査も編集も校正もしっかりしていそうな伊佐千尋の『愛するがゆえに』(文春文庫)をはじめ、ほとんどの「予審調書」が、この番号の押収品の供述だけを欠落させている。もし真正の調書で、こんなうっかりミスをしたら上司や裁判官に叱られかねない。
 ちなみに、「訊問事項」版には、「二五ノセルノ単衣物ハ、新橋ノあづまやデ買ヒ、品川館迄着テ居タモノデス」と、ちゃんと「二五」が入っているわけだから、実際は予審判事も書記官もうっかりミスなどしていなかったことになる。ところが、よく見ると、なんと今度は「二三」が欠落している。僕の持っている資料のせいかもしれないが、「予審調書」という代物は、実に複雑怪奇な世界を漂ってきたものだ。
※38ギユウツと=ここでこれまでの「キュウと」という表現が変化していることに注意。つまり当初の供述であった表現ではなく、あとから変えた表現だ】
※39警視庁に居る頃は=阿部定は5月19日午後4時(5時半という説もある)に逮捕されたあと、荒川区の現場に近い尾久警察署に移送されたが、その数時間後の5月20日には警視庁に身柄を移され、以後ずっと警視庁で取り調べを受け、6月9日の送局(現在の送検に似た手続き)を受けて予審裁判が始まり、6月15日には市谷刑務所(いわゆる市ヶ谷監獄)の独房に収容された。警視庁送りになったときの新聞には、「廿日夜十一半ごろ警視廳の獨房に留置されてからはさすがに情痴生活と逃避行三日の疲れが出たものかグツスリと眠つたが、午前四時ごろ持病の胃痙攣をおこして鑑識課本田醫師の手當をうけ間もなく恢復した。廿一日朝は留置人の箱辯を食べて至極ほがらかに十一時から取調べをうけた」(昭和11年5月22日付讀賣新聞夕刊)と、そのときの様子を伝えている。
※40刑務所=市谷刑務所(牛込市ヶ谷監獄、東京刑務所、東京監獄)のこと。現在の新宿区市谷台町、住吉町、富久町を含む地域にあった。この刑務所は、もとは江戸時代に伝馬町にあった牢屋が明治8年に市ヶ谷に移されたもので、昭和12年には廃止されている。未決囚は裁判があるたびにここから霞が関の東京刑事地方裁判所などに送られた。主に未決囚が入った監獄だが、死刑台もあった。1908年には赤旗事件のため無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)が、ここに収監されている。永井荷風(ながいかふう)はこの刑務所の裏側に住んでいて、大逆事件(たいぎゃくじけん)の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の編笠姿を目撃したという。
※41今迄どんな男にも石田と同じ様な事をした訳ではありません=精神鑑定書にある稲葉氏の阿部定評は以下の通り。
「定ハ、考ヘガフラフラシテ居リ、平気デ嘘ヲ言ヒ、無類ノ男好キデスガ、男ニ執着スル女デハアリマセンデシタ」
「男ト関係中、一時ハ非常ニ熱シマスカ、直グ冷メル質デス」
「虚栄心ガ強ク、非常ニ我ノ強イ女デ、我儘ガ原因デ転々スル様ナ事ニナツタト思ヒマス」
 ……これを信じるなら、阿部定の供述もあながち嘘ではないように思える。
※42中川朝次郎さん=精神鑑定書から中川氏の証言を引用すると、中川氏の阿部定への評価は……、
「性交ハ好キナ方デ、執拗ク一晩一度デハ到底満足シナイ女デシタ」
「技巧ハ上手デナク、男ニ良クシテ貰ツテ自己満足ヲスル女デシタ」
「交接ノ感受性ガ非常ニ強イ女デ、高潮ニ達スルト動悸ガ激シクナリ、快感ノタメ身体ノ置場所モナイ様ニナリマスカラ、最初ハ驚イテ了ヒマシタ。五分位経ツテ水ヲ飲マセルト初メテ落着クノテス」関係スル度ニ左様ナ事ガアリマシタ」
「夫レニ性力ガ強ク、幾ラデモ続クト云フ方デ、良クナルト滅茶苫茶ニ何モカモ忘レテシマヒ、耽溺スルトイフ風デシタ」

 ……となっている。