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第五回訊問

問 石田と別れたが又石田を誘って五月十一日から待合「満左喜」に泊まり込んだのか。
答 左様です。中野※1の待合「関弥」で石田と別れ五月七日昼頃、下谷区入谷町五一稲葉正武方に参りましたが急に空腹になったので持って行ったお土産の寿司を取り出し家人と一緒にそれを食べたり支那そばを取ったりお茶を飲んだりして、さて寝でもしやうかと思ふと急に今頃石田は家内とゴテクサ※2遣って居るだろう等と考え出し堪らなくなりました。
 そして石田を帰してやるのではなかった、よくすんなり帰してやったものだと自分で自分を疑ひ、今度会ったらどんな事をしても帰すまいと思う程石田に執着した気持ちでどうすることも出来ませんでした。
 仕方なく稲葉方でビール三本一人で飲み、気持ちを紛らして居りました。夜寝てからも石田の事ばかり考へて寝付かれず、一層中野に行って見て遣らうかしら畜生と焼餅が焼けてなりませんでしたから二階の寝間から下へ降りて煙草を吸ったり雑誌を読んだりして居ました。八日の日も同じ様な気持ちで一日暮しましたが、殊に昼間ラジオで清元※3の放送があった為、余計[に]石田を思ひ出し中野へ電話を仕様か活動でも見に出掛け様かと思ひながら二階で雑誌を読んだり転寝したりして暮しましたが殊に吉田屋の様子を一々良く知って居るものですから時計を見ながら手に取る様に石田の生活が想像されるので此時位嫉妬に苦[し]んだ事は生れて初めてです。
 八日の晩も矢張り寝付かれず、夜中になる程癪に触って来て気がいらいらするので階下へ下り自分の襦袢を縫って居りました。お裁縫しながらも石田の事ばかり考へ妾になんかなっても半分半分の生活をしても詰らないから夫婦になるより仕方がない、石田と夫婦になるには他所へ逃げるより方法はないが石田は逃げる人でもなし、などと考へると一層石田を殺して了まはうかとまで思ひましたが、嫉妬から左様な色々な事を思ふので結局とりとめない考へでした。
 九日は稲葉方で成田様へ行く為[め]、留守番を頼まれましたが本も碌々読まず矢張り石田の事ばかり考へて居りました。
 その晩も碌々寝られず十日は大掃除だったので近所の喫茶店に行きビールを飲んで夕方帰ると、七日注文した羽織が届いたので紐を買ふ為[め]浅草に出掛け明治座で芝居を見ましたが、※4身を入れて見る気はなく役者を見ても石田の方が良いなあと矢張り石田の事ばかり考へて居りました。
 その芝居[に]は出刃庖丁を使う場面があったので自分も出刃庖丁を買って石田に巫山戯てやろうと云ふ気になり、その晩十一時頃稲葉方へ帰りました。石田と別れる時五、六日経ったら会ふ事でしたがとても待ち切れませぬから、とに角「玉寿司」へ電話して見やうと思ひ丁度稲葉夫婦が留守だったので子供をお使ひに出し「玉寿司」へ石田から何か話はなかったかと電話すると、先方から電話番号を聞いて置いて呉れとの事だったのでそれではもう一度電話で知らせると云って切りましたが、その時は嬉しくて慄え上りました。
 早速トランクを持って稲葉方を出掛け新宿の明治屋※5に行ってビールを飲んでからその晩泊り、翌十一日小遣が不足したので、上野の小野古着店※6に袷と半天を売りに行った時小僧※7だけだったので品物を預けて活動を見たり、明治製菓でウイスキィ※8の入ったコーヒー※9を飲んだりしてから古着屋に戻り品物を四円で売ってから近所の「幸寿司」で寿司を買ひ、序に電話を借りて玉寿司に[電話をかけ]明治屋旅館の番号を知らして置きました。
 それから[「幸寿司」の]二、三軒先[き]「菊屋金物屋」※10牛刀一挺を九十銭で買ひ、※11大塚の照子姉さんにお金を借り様としましたが忙しいから会へないとの事でその儘明治屋旅館に帰りました。
 明治屋旅館では以前大宮先生と泊った事があって夫婦迄来て私を奥さんと呼びサービスして呉れました。今迄[私]は先生に気兼ねして旅館では上品にして居りましたがその晩は直ぐ石田と会へるので嬉しくて堪らず先生は問題でなかったから煙草は吸ふ、ビールは飲むと云ふ風だったので旅館でも吃驚して居たことと思ひます。
 私がビールを飲んで居る時、午後七時半頃石田から電話が掛かって来ました。帳場の卓上電話で旅館の人達に聞へたが酔って居たし嬉しまぎれに遠慮なく甘ったれた話をしたので今考へて醜態だったと思ひます。とに角、石田は十四日迄待てと云ひましたが私は厭だ是非会ひたいから中野へ行くと云って連絡を取ったのですがその時途中で電話が切れてガッカリしましたが、又石田から掛って来ましたのでとても嬉しく思ひました。
 この様にして五月十一日午後八時半頃中野駅※12で石田と落合い、再び待合に泊り込む様になったのです。
問 被告は何故石田をこの様に迄恋慕愛着したか。
答 石田の何処が良かったかと云はれても此処と云って答へることは出来ませんが、石田は様子と云ひ態度と云ひけなす所一つもなく、あれ程の色男に会った事はありません。四十二とはとても思えず精々二十七、八に見え皮膚の色は二十台※13の男の様でありました。気持ちは極く単純で一寸した事でもとても嬉しがり、感情家で直ぐ態度に表はし赤ん坊の様に無邪気で、私が何をしても喜んで居り甘えて居りました。[或時は私の赤い長襦袢を着せると夫れを着た儘寝て居り私と一緒に待合に泊り歩いても一度も口を出した事もありません]又、石田は寝間がとてもたっしゃ[巧者]な男で情事の時は女の気持ちをよく知って居り自分は長く辛棒して、私が充分気持ちをよくする様にして呉れ[と]口説百万陀羅※14で女の気持ちをよくすることに努力し、一度情交しても又直ぐ大きくなると云ふ精力振りでした。
 私は石田が技巧だけでなく本当に私に惚れて情事をするのかどうか試したことがありました。申上げるのも失礼やら愧しいやらですが四月二十五日吉田屋を家出した時、私は月経でお腰※15が少し汚れて居たのですがそれでも石田は厭がらず触ったり舐めたりして呉れました。四月二十七日、[トル]八日頃待合「田川」に居た時、私が椎茸のお吸物をアツらへ石田に「本当に惚れ合ふと椎茸やお刺身を前に付け[て]喰べるんだってね」と云ふと石田は「俺だって仕てやるよ」と云ったのでお吸物から椎茸を出して箸でそれを私の前に差込み汁を付けてチャブ台の上に置いた処暫く巫山戯てから石田がそれを半分喰べて私もそれを半分喰べました[が]。私が余り可愛くて気が詰まる程石田をギュッと[ギユツト]抱きながら誰ともよい事をしない様に殺しちまおうかしらと石田に云ふと石田はお前の為[め]なら死んでやるよと云ふたり五月四、五日頃「満左喜」に居た当事[当時]金が続かないから家に帰らなければならないと云ふので私が石田のものを取ってしまうと云ふと、石田は「家へ帰ったってしやしないよ。お前だけだよ」と云ったり冗談にせよ石田は恋の技巧がとても上手でした。その他、石田が私に親切であったことは今迄述べた通りでしたから石田と初めて関係してから段々石田に心を惹かれ、四月二十三日から五月七日迄二週間も待合を泊り歩いたのですから普通なら飽が来る筈ですがどうしても石田と一緒に居ると益々良くなるばかりで、一旦別れて八日から十日迄一人で居た時の嫉妬と焦燥の気持ちは今考えてもあれ程辛かった事はありません。
 五月十一日午後八時半頃私が円タクで省線中野駅に行くと、石田がセル※16兵児帯※17姿で来て居り私は余りの嬉しさに転げる様に自動車から下りました。二人が暗がりの処に行くと石田は「一度切れた電話を掛けるだけ俺は矢張り惚れて居るんだ」と云ひました。私は包から牛刀を出して「吉、手前着物なんか着てトクさんの御機嫌を取ったんだらう、畜生手前を殺して死んぢまうから」と芝居もどきで脅かすと石田は吃驚して少し除けましたがとても嬉しそうに「よせよせ人に見られると大変だ」と云ひ、[御]機嫌とる騒ぎでない、半月位我慢して居ないと大変だよオトクが喧ましくて金が自由にならない、と云ひましたから私は石田に「でも今夜帰らないよ」と云ふと金はこれ丈しかないと云って[云うて]二十円出しましたからそれを受取り中野駅付近のおでんやに行き酒を三本飲みましたが、後で聞くとキッスしたり抱き付いたり大変だったそうですが、私は[当時]酔ってしまって[居り]何をしたか覚えて居ませんでした。それから「満左喜」に行って泊らうと石田を誘ひ九時頃円タクで又尾久へ出掛け[夜九時頃行き]ました。
問 その後その待合で流連した模様は。
答 「満左喜」に行ってからは女中が来ても誰が来ても石田に喰付いて離れず嬉しくて泣けましたが、同時に三日ばかり別れて居た間石田がお内儀さんにしてやった事を想像して焼けてならず嬉しいとか憎いとかが一緒になって石田を可愛がったり虐めたり目茶目茶でした。
[石田に聞くと、石田は十日[ママ]の朝俺はお前が先に帰つてしまつた事が癪に触つて、「関弥」から板橋の「兎月園」に遊びに行き、一泊してから翌日電話で家から金を取りよせ自宅に帰つたが、案外家内が八釜しいので、実はお加代と遊び歩いたのだが俺から好きな訳ではないが、お加代に引張られたのだ、今度お加代とは絶対に関係しない、と云つても家内は信用しないから、今の所では百も二百もの金は自由にならないが、辛棒して呉れと云ひました。石田は又家内とは関係しなかつたが、家内が寄つて来たからけり飛ばしたと云って居りましたが、石田と家出中私が買って遣つた下帯を締めさして居た処が、其時は別の下帯をして居りましたし、三日間もの間帰つて居つて、お内儀さんと関係しない筈はないと思ふと、石田が何と云つても私の気持ちが直らず、石田と関係しては後で石田の身体を所嫌はずツネったり、引つ叩いたり、噛んだりして虐めました。石田は私から何をされても怒る様な事はなく、どんなことでもしてやるから勘弁して呉れ、お前と別れてから俺は焦燥に馳[ママ]られて居たよと云ひました。私は其意味が判らなかつたものですから、誤魔化す為めに態とインチキな言葉を使つたのだと云つて、石田を虐めると、布団の中へ潜り込んで俺を殺すなよと云つて居りました]
 とに角、十一日の晩[のこと]は焦れて居る男に百年振りに会った様な嬉しさで到底お話出来ない位で、泣[い]たり巫山戯けたり夜通し寝ませんでした。矢張りその晩[も]牛刀を出して逆手に持ち「ヤイ吉」と云って切付ける真似をする[と]、石田は「小道具が足りない、逆手に持つ時は出刃にして貰いたいね板につかないよ、そんなものでは殺せない」と嬉しがって居り、又、牛刀を石田のオチンコの根元につけて他の女と何も出来ない様に切って仕舞う、と云うと※18石田は笑いながら「此奴馬鹿だな」と云って喜んで居りました。
 翌十二日になって女中に見られるといけないと思い[ましたから]牛刀は額の裏に隠して置き十三日の夜芸者を一人呼んで一時間位遊んだのと、十五日の夕方から夜十一時頃迄私が大宮先生と会ふため外出したのと十六日の夕方石田が理髪に出掛けた[のとの]外は、十八日夜明方石田を殺す迄寝床を敷いたまま石田と二人裸で寝てばかり居りました。その間二人の情事は以前待合を[で]泊り歩いた時より猛烈で夜も碌々寝ず殆ど入浴もしませんでした。
 大宮先生とは五月五日の約束で午後五時頃銀座で会ひ、或る小料理屋で食事し品川の「夢の里」へ行って一時間半位遊びその際先生と御義理に関係しました。石田の事ばかり考へて居り何の興味も出ませんでした。先生から五十円貰ひ円タクで帰り、先生は四谷で下り私はその儘尾久へ帰りました。夜十一時頃帰ると「さくら」の間※19に部屋が変って[居り]、石田は寝て居り[居ましたが][私に]「やい俺を欺し[の事許り云い]やがって」と云ひ「男に会って来たのではないよ」と云っても「俺が今度出刃庖丁を買って来ねばならない」と云ひました。私は大宮先生とビールを少し飲んだ為[め]、顔に出ていたのでテレ腐かったから座敷にあったビールを一杯飲んでからお風呂に入って来ると、石田は「ヤマしい事があるから風呂に入ったのだろう」と云ひ私をツネったり髪の毛を引張ったりしましたが虐められて反って嬉しく思いました。石田には勿論五十円貰って来た事を話しましたが、石田としては私が男から貰ってくる事は当然判って居た筈で焼く様な風をしてはその場を面白くしたに過ぎません。
問 五月十六日石田の頸を締めながら関係した模様を述べよ。
答 その前十二、三日頃※20先程述べた様に※21石田を虐め[て居]た時、石田の咽喉※22を指で締めた事がありました。その時石田は「咽喉を締めると良いんだってね」と言いましたから「そう、それでは締めて頂戴」と云ひ[石田と]関係しながら締めて貰いましたが石田は少しも気持ちが良くない何だかお前が可哀想で[可愛想だから]厭だと云ふので今度は私が上になって石田の咽喉を締めましたが石田はクスぐったいから止せと云ひました。
 十六日の晩、石田に抱かれて居るととても可愛くなりどう仕様か判らなくなり、石田を噛んだり息が止る程抱き締めて関係する事を思ひ付き石田に「今度は紐で締めるわよ」と云って枕元にあった私の腰紐を取り石田の頸に巻き付けて両手で紐の端を持ち、私が上になって情交しながら頸を締めたり緩めたりして居ました。
 初め石田は面白がってオデコを叩いた[時に]舌を出す[と同じ]様な巫山戯方※23をし[て][頸を締めると舌を出して巫山戯て居り]途中止めて紐を首に巻き付けた儘酒を飲み[トル]頸を締めながら関係すると云ふ具合にして居り、少し頸を締めると腹が出てオチンコがビクビクして気持ちが良いものですから石田に[夫れで][し][る]とお前が良ければ少し苦しくとも我慢するよと云ひ、[其頃は]石田はヘトヘトに疲れてしまって眼をショボショボして居りましたから[私が]「厭なんでしょう厭ならもっと締めるよ」と云ふと石田は「厭じゃない厭じゃない俺の身体をどうにでもして呉れ」と云って居ました。なお紐を締めたり緩めたりして関係して二時間位巫山戯て居る内十七日午前二時頃でしたが私が下の方の具合ばかり見て遂い力が這入りギュウと※24頸を締めた為、石田は「ウー」と一声唸りオチンコが急に小さくなったので私は驚いて紐を放すと石田は起き上り「お加代」と云って[と云つたり]私に抱き付き[付いて]少し泣いた様でしたから私は胸を擦ってや[つて居]りました。
 暫くしてから石田が「どうしたんだらう頸が熱いよ」と云ひ頸が赤くなって居り、眼が少し腫れ上り頸に紐の跡が付いて居たので私は早速石田を風呂場に連れて行き頸を洗ってやったりし[て居り]ました。その時でも[退屈の為め]石田の局部[を]触ると直ぐ立ちましたからシャブッタリ等してやりました。石田の頸はとても酷かったのですが鏡を見てそれが判って「ヒドイ事をしたな」と云った丈で少しも怒りませんでした。
 十七日の朝柳川※25や酢のものを取って[喰]べたり石田に喰べさせたりし、私丈[け]酒を飲みましたが、石田は人に顔[トル]見られるのが厭で下に顔を洗ひに行きませんから本を持って来てやって優しくして居りました。十一時頃、私丈[け] 酒を飲み情欲が起きたので石田のものをいじって居ると石田は出来ないかも知れないがしてやるから此方へ来いと云ひますから布団の中で[石田と]関係し、草臥れて一寸寝て起ると午後一時頃でしたが矢張り石田の頸は[直]らないので、そんな顔では外に出られないから医者を呼んで来やうと云ふと石田は「此前みつわで医者を呼んだ時※26にも何か飲んだかと聞かれた位だから今度医者に診て貰うと警察に届けられるから止せ」と云ひました。医者を止めて頸を冷したり身体を揉んだりして居りましたが少しも治らないので晩方薬買ひに行った序に薬局に相談して来るから待って居なさいと云うと、石田は「薬屋にはお客が喧嘩して咽喉を締められ頸が赤くなったと云った方がよい」と云ったので銀座の資生堂に行ってその話をして相談すると、薬局ではそれは血管が腫れたのだから静かに寝かせて流動物を執る外手当の方法はなし[ない]、治る迄一、二月掛ると云ひましたから目の赤くなったのを治す為目薬を一瓶※27[け]買って「モナミ」と云ふ喫茶店に行き、夕食にチキンライスを喰べコーヒーを飲み、土産に野菜スープと西洋菓子を買って又資生堂に戻り「早い話が水を薬瓶に入れて飲ませば気休めになりますから何か薬を入れて下さい」と、頼むと薬局では之[れ]を持っていらっしゃいと云ひ三十錠入りカルモチン※28を一箱[一箱を]出し三粒以上飲ませてはいけませぬよ、と云ひましたからそれを買って七十銭払ひ、千疋屋に立ち寄り一円四十銭の西瓜一個買って午後九時頃「満左喜」に帰りました。
 石田は寝て居たが直ぐ起き私が薬局で聞いた話をすると[石田は]困ったな、と云ひ金がないから此処[の家]にそう長く居る訳にも行かないしどう仕様かと少し悲観して居り可哀想[可愛想]でした。その時は牛刀を忘れて居た[居つた]ものですから女中に庖丁を借りて西瓜を切り、石田に食べさし女中にスープを温めて貰ひスープと一緒にカルモチン三粒飲ませました。なお石田は朝柳川を喰べた丈でしたから腹が空いたと云ふのでウドンカケ一つ取って喰べ[させ私はのり巻を取つて食べ]ました。石田はカルモチン三粒位効力ないよと云ひますから皆飲んでも大丈夫よと云ひ又五粒飲ませ暫くクチャクチャ話をして※29居りました。その間石田は半身を私に抱かれて居たので私の手が自然と石田のオチンコに触れる様になり[なつてしまい][手が触れると石田のが]大きくなりました[ます]が進んで情交する程の元気はありませんでした夜が段々遅くなってから雑炊を一人前注文してそれと[を]一緒に又カルモチン五、六粒飲ませるとその頃から石田は眼をショボショボさせて居りましたが※30未だ寝ない私に「一寸帰るより[外]仕方がない、勘定も足りないから」と云ひ「私は帰りたくない」と云ふと「帰れないって此の顔でこの家に居れば女中に見られキマリが悪い、どっちにしても帰らなければならぬ、仕方がないからお前は下谷の家※31が居心地が悪ければ何とか都合して何処かの家に居て呉れ」と情けない事を云ひました。私は「どうしても帰りたくない」と云ひますとそれでは此処の勘定は借りて置き都合[知合]があるから湯河原へ行ってお前と二、三日居てからオトクを呼んで帰る事に仕様と云ひました。
 私は「それもいやだ」と云ふと「そんなに何もかもイヤだって仕様がない、お前も最初から俺に子供のある事を知って居たのだから[だし]ソウソウ二人で喰[食]付いて居る訳にも行かない、お互ひに末長く楽しむには[楽しまうとするには]少し位の事は我慢して呉れなければならない」と云ふので愈々石田は一時別れる気だなと思い、私が声を出して泣くと石田も[涙]ながら[に]私に色々の話をするのでした。私は石田から優しく云はれる程癪に触って石田の云ふ事を聞き分け様とする気はなくどうしたら石田と一緒に居られるかと云ふ事丈しか考へず、石田の話は半分上の空で聞いて居りました。なお石田は「女房は家の飾物だからそれ程焼餅を焼く事はない、商売する為の方法を考へなければならぬ。お互ひに愚図愚図して家中に騒がれる程結局お互ひに損だ」と云って居りました。その内女中が前に注文して置いた鶏のスープを持って来たので石田にそれを飲ませて十二時頃二人布団に這入りました。石田は元気がありませんでしたが私が少し膨れて居たので慰める為[め]私の前を舐めたり何かして機嫌を取って呉れ、石田が上になって[関係しました]関係してから石田は少し眠いから眠るよ、お前は起きて居て俺の顔を見て居て呉れ、と云ひますから私は起きて見て[居て]あげるからゆっくり寝なさいと云ひ半身を起して石田の顔の上に頰を擦り付けて居ると石田はウトウト[と]して居りました。
 五月七日から十日迄石田と別れて自分一人稲葉方に居た当時、石田の事ばかり考へて辛い思ひをし石田を殺してしまおうかしらと云ふ考へが出ました。それは直ぐ他の気持ちに打消されて居た所その晩石田から色々云ひ聞かされ、頸を直す為[め]には将来二人が立ち行く為[め]にも一時別れなければならないと云はれたのです。
 石田の寝顔を見て居る内石田が家へ帰れば自分が介抱した様にお内儀さんが介抱するに極って居るし、今度別れればどうせ一月も二月も会へないのだ。此間でさえ辛かったのだからとても我慢出来るものではないと思ひどうしても石田を帰し度くありませんでした。石田は私から心中して呉れとか何処かへ逃げて呉れと云った所で[所]今迄待合を出させて末永く楽しもうと云って居たし、石田としては現在出世したのですから今の立場で死ぬとか駈落するとかは考へられませぬから私の云ふのを断ることは判り切って居るので、私は心中や駈落は、てんで問題にして居なかったから結局、石田を殺して永遠に自分のものにする外ないと決心したのです。
問 熟睡中被告の腰紐で石田の頸部を繋迫※]32した顚末を述べよ。
答 石田がウトウトして居る時、私は南枕に寝て居る石田※33の右側に横になり石田の右手は私の脇の下から背中の方へ延びて私を抱える様な恰好になって居り私は左の手で石田の頭の方を抱える様な恰好をし左手を左肩の辺に置き寝顔を見守って居ると、石田は時々パッと目を開き私が居るのを見て安心して又目を閉じる様にして居たがその間「オカヨ※34お前俺が寝たら又締める[の]だろうな」と云ひ私は「うん」と云ひながらにやりとすると「締めるなら途中で手を離すなよ、後がとても苦しいから」と云ひました。
 その時私は此人は自分に殺されるのを望んでいるのか知らと不図思ひました[が]。そんな筈のないことは色々の事から判り切った事ですから勿論冗談だと直ぐ思ひ直しました。その内石田が寝た様子ですから右手を延して枕元にあった私の桃色の腰紐を取り上げて紐の端を左手で頸の下に差し込み頸に二巻まい[て]から紐の両端を握り少し加減して締めた処石田がパッと目を開けて「オカヨ」と云ひながら少し身体を上げ私に抱きつく様にしましたから私は石田の胸に顔を擦り付けて「勘弁して」と泣き紐の両端を力一杯引き締めました。石田が「ウーン」と一度ウナリ両手をブルブル震はせてやがてグッタリしてしまったので紐を離しました。私はどうにも身体が震えてなりませんから卓子※35の上にあった酒の一杯這入って居るお銚子を[取り上げ]ラッパ飲みに全部飲んでから石田が生き返らない様に喉の正面の辺りで腰紐を堅く一度結び、残りの部分を頸にグルグル巻き付けて両端を石田の枕の下に差し込んで置きました。それから様子を見る為[め]帳場[下]に降りて[降りた時帳場の]時計を見ましたが午前二時一寸過ぎて居ました[でした]
問 その後、被告は石田の陰茎、陰嚢を切り取り左腕に※36自分の名を刻み死体や敷布に血で字を書き残して「満左喜」を逃げた様子を述べよ。
答 私は石田を殺して仕舞ふとすっかり安心して肩の重荷が下りたやうな感じがして気分が朗らかになりました。[下に降りた時持つて来た]ビールを一本飲んでから石田の横に寝て、石田の咽喉がカラカラに乾いて居るようですから石田の舌を舐めて濡[ら]してやったり、石田の顔を拭いてやったりして居り[居]ましたが、死骸の側に居る様な気はせず石田が生きて居る時より可愛らしいやうな気持ちで朝方迄一緒に[寝て]居りオチンチンをいじったり、自分の前に一寸[自分の前に]当てて見たりして居りました[が]。その間色々の事を考へて居る内に「石田は死んでしまったのだな。是からどうなるなるだろう。石田を殺して自分も死ななければしようがないかな」と考へたり、十六日の昼頃神田の万成館※37に居る大宮先生宛の手紙を「満左喜」の女中に届けて貰ったから此事件でキッと先生が警察から調べられるが、とんだ事をした一目会ったらお詫びしよう[せう]と思ったりしました。石田のオチンコをいじって居る内、切って持って行こうと思ひ額の裏に隠し[て置い]た牛刀を出して根元に牛刀を当てて切って見ましたが直ぐは切れず、可成り時間が懸りました。その時牛刀が滑って腿の辺にも創を付けました。それから睾丸を切り取る為、又、嚢の元に牛刀を当てて切りましたが仲々切れず、嚢が少し残ったように思ひます。塵紙を拡げて切り取ったオチンコや睾丸をその上に置きましたが切口から沢山血が出るので塵紙で押へて[居り]、それから切口から出る血を左の人差し指につけて自分の着て居た長襦袢と袖と襟に塗付けなお石田の左腿にその血で「定吉二人キリ」と書き※38敷布にも書きました。※39
 次に牛刀で「定」と云ふ自分の名を刻み込んで※40から窓にあった金盥で手を洗い、石田の枕元に置いてあった「富士」と云ふ雑誌の表紙の包紙※41を剥ぎ、その紙に切り取ったオチンチンと睾丸を包み、乱れ籠※42に脱いであった石田の六尺褌を腹に巻きお腹の所へ肌へ付けてオチンチンの包みを差し込み、それから石田のシャツ※43を着てズボン下を穿きその上に自分の着物を着て帯を締め、すっかり仕度をしてから座敷を片付け牛刀の血は拭き取り、汚れものは新聞紙に包んで二階の便所に捨てました。
 所が途中で[に]つかえたものですから手を洗った水や便所の手洗水※44を流し込み、まだ足[ら]ないので下から[も]トタン桶※45に水を汲んで来て便所に流して綺麗にしました。その際、便所の手洗を逆さにして[水を流した為]その蓋を便所に落して仕舞ひました。
 すっかり仕度が出来てから牛刀を新聞紙に包んだものだけ[を]持って石田に別れのキッスをして死骸には布や毛布を掛け、手拭で顔を覆い、石田の枕元に雑誌を拡げて石田が読んだやうに見せかけて置き、午前八時頃下に降りて[り]女中さんに、「一寸菓子を※46買ってきますから昼頃迄起さないで下さい」と話し「満左喜」の頼み付の自動車屋※47を自分が電話を掛けて呼びその自動車に乗って逃げました。
問 何故石田の陰茎や陰嚢を切取って持出したか。
答 それは一番可愛い大事なものだからその儘にして置けば湯棺※48[でもする]時、お内儀さんが触るに違いないから誰にも触らせたくないのと、どうせ[石田の]死骸は[を]其処に置いて逃げなければなりませぬから[が]石田のオチンチンがあれば石田と一緒の様な気がして淋しくないと思ったからです。
 何故、石田の腿や敷布に定、吉、二人と書いたかと云ひますと、石田を殺してしまうと之ですっかり石田は完全に自分のものだと云ふ意味で人に知らせたい様な気がして私の名前と石田の名前とを一字づつ取って定、吉、二人キリと書いたのです。
問 石田の左腕に何故、定と彫り付けたか。
答 石田の身体に私を付けて行って貰いたかった為[め]に自分の名を彫りつけたのです。
問 何故、石田の褌や下着を肌に着けて出たのか。
答 その褌や下着は男の臭いがして石田臭いから石田の形見に自分の身体に着けて出たのです。

=脚注=

※1中野=他の予審調書では「中野町新高」となっている。ところが、中野町には「新町」「新山」「新橋」という似た町名はあったものの「新高」は確認できなかった。一方、「訊問事項」版では「中野町新宿」となっているが、この地名も確認できない。徹底的に誤植だらけの様相を呈している部分だ。ちなみに、阿部定裁判の裁判長だった細谷啓次郎の『どてら裁判』には、「中野町新検の待合関弥」とあり、これが正解だろうと思う。つまり、この「別冊新評」版では「町新検」が脱落しているが、他の予審調書では、「新検」を「新高」や「新宿」と誤植しているわけだ。中野町という地名がきたからそのあとも地名だろうと思い込んだための誤植だろう。  もともと第四回訊問の最後のほうに「『では新検の待合でお前泊っちめえよ』と石田に送られ中野町の『関弥』と云ふ待合に行きました」とあるわけだから、それを思い出せば、比較的簡単に「中野町新検の待合関弥」と読み解くことができるはずだ。
※2ゴテクサ=関西弁と思われる言い回しだ。大阪で暮らしたことがある阿部定は、つい大阪弁を口に出したのかもしれない。ちなみにゴテクサとは、「ゴテクサ(名・副)いざこざ。ぐずぐず。ごてごていうさま」(大阪ことば事典)という意味。
※3清元=きよもと。清元節(きよもとぶし)の略。江戸浄瑠璃の一つ。阿部定は子供の頃に三味線を習っていた影響もあってか、清元に関心があったのだろう。
※4明治座で芝居を見ましたが=このとき明治座では、泉鏡花原作、川口松太郎脚色の花柳界物「新版つや物語」などが上演されていた。ただし、問題は、この芝居を見た日付が、公判ではどうしたことか九日になっていることだ。以下は裁判長とのやりとり。
「裁『九日に明治座に行つてつや物語を見たんだね』
定『その狂言は小きんと云ふ芸者が出刃庖丁で可愛いゝ男田之助を殺してその血で襖に字を書くのを見てとても感動した』
とてお定が吉蔵殺しに用ひた『定吉二人キリ』の血書のヒントはこの泉鏡花の原作品から得たことを語り」
(昭和11年11月26日付時事新報)
 ところが、そのように凶器を買う動機を作った芝居について、警察や検察も、裁判でさえも、きちんとした捜査や考察がなされていないように感じられる。そもそも、このとき阿部定が証言した芝居の筋は、かなり独りよがりのものであった。
「実際はまったく反対の筋で、清(せい)の左腕をへし折った悪役の代議士篠山(ささやま)[芸者の]小今(こきん)が出刃包丁で刺し殺し、自分の腋の下も刺し流れ出た血で清に自分の姿を襖に描かせ、自分は喜んで死んでいくのです」(新派の花道 http://www.geocities.co.jp/Hollywood/8175/index.html)
 ということであって、阿部定の記憶違いを指摘する人もいる。しかも、裁判では、登場人物の名を「小金」や「小きん」などと勝手な当て字をして、それで済ましているのだ。兇行が芝居を見たせいと、全面的には主張されなかったのは幸いだが、当時の捜査員たちは、たぶん、裏付け捜査のために、その芝居を見るということはしなかったのではなかろうか。犯人が早期に検挙されてしまうと、裏付け捜査がおろそかになるという轍を踏んでしまったのだろう。
※5明治屋=新宿の明治屋という名称は、第四回訊問にも登場するので、「旅館」という言葉が略されてしまったのだろう。また、直後に「その晩泊り」とあるから、旅館を暗示させて、読み違いはある程度防げている。
※6小野古着店=この店の屋号は、新聞で報道されたものとはまったく異なっている。ただし、「広小路小野古着店」(昭和11年5月21日付報知新聞)という報道は、ひとつだけ見つけたが、住所の説明が予審調書と若干違う。
 この店を「小野古着店」と呼んだのは、店主の名前が小野何某だったからだろう。店主と顔見知りだった阿部定が、店主の名を冠して、そう呼んでいたのか、あるいは近所では、それが通称だったのかもしれない。
 そういう事情はあったにせよ、本来の屋号を調書に記載せず、阿部定の言ったとおりを記録したとは、杜撰な捜査といわれてもしかたがない。なにしろ、この間違った屋号を、公判にまで引きずっていくのだから、杜撰捜査の罪は重い。ともあれこの古着店は下谷区上野町2丁目(現・台東区上野4丁目)にあったようだ。
※7小僧=新聞報道から類推すると、この小僧とされた人物は、当時18歳の男性店員だったようだ。しかし、小僧とは人を馬鹿にした言い方ではある。阿部定の口調がそのまま書かれたのか。それとも当時の官憲の姿勢からくるものなのか。
※8ウイスキィ=こんな単純な単語ですら、予審調書によってさまざまあるから不思議だ。ウィスキイ=「ドキュメント日本人」版、ウイスキー=「阿部定公判記録」版ほか、ウイスキイ=「昭和11年の女」版……とある。こんな小さな箇所でなぜこれほど違うのか理解に苦しむ。それだけ社会の底辺で、あちこち手垢にまみれながら、予審調書が流通していったのだろう。
※9コーヒー=不思議な誤植なのだが、「ドキュメント日本人」版と「昭和11年の女」版では、ここと、もう一箇所だけが「コーヒ」となっている。「一杯のコーヒから」という歌の影響なのだろうか。それとも調書を書き写した人間が音引きを書き落としたのか?
※10菊屋金物屋=新聞報道では「下谷黒門町の上田金物店」(昭和11年11月26日時事新報)とあって店名が異なっている。これも経営者と屋号、あるいは実際に出している看板との違いとみるべきだろうか。ただ困るのは、当時下谷区には西、東、それに上野元と冠した黒門町があって、そのどれなのか曖昧になっていることだ。また、「金物店」なのか「金物屋」なのかも、予審調書によって違っている。井手孫六などは、「菊屋金物屋」では何となくおかしいと思ったのか、「金物店菊屋」と言い換えて、勝手に屋号を作ってしまっている。この人の言語感覚はどこかがずれているのかもしれない。
※11牛刀一挺を九十銭で買ひ=「昭和11年の女」版だけは、値段が「八十銭」となっているが、新聞報道などを参照して確認しても、八十銭という金額は出てこない。たぶん校正ミスだろう。
 ともあれ、芝居に触発されてのことなら出刃庖丁を買うはずなのだが、阿部定はなぜか牛刀を選んでいる。この理由について、まず公判で阿部定は「下谷黒門町の上田金物店で出刃庖丁を買ふ心算で入つたが出刃庖丁がなかつたので肉切庖丁を買つて戻つた」(昭和11年12月8日付時事新報)と述べている。予審調書と公判の証言とでは、屋号が違っているのは問題で、屋号を改めた供述調書が存在しなければならないが、それが見当たらない。だが、もっと大きな問題は、出刃庖丁でなはなく牛刀を買ってしまった理由のほうだ。
 だいたい、当時の繁華街であった上野の金物屋に、出刃包丁が置いてないなどとはにわかに信じられないことだから、阿部定の言い訳に過ぎないことが推測できる。それに、実際は、出刃庖丁が店になかったからではなく、店には他に客がいて、気後れして買えなかったのである。そのあたりの事情を精神鑑定書では、以下のように説明されている。
「九日本人ガ『明治座』ニテ芝居見物中『新作艶物語』ノ中ノ『小金』トイフ芸者ガ出刃庖丁ヲ懐ニ入レテ、ソノ色男ノ親元ノ所ニ行ツテ啖呵ヲ切ル所ガアリ、芝居見物中モ石田ノ事バカリ考ヘテ居タノデ、コレヲ見テ畜生出刃庖丁デ嚇カシテヤラウト思ツタト云ヒ、五月十一日石田ニ会ヒ度クテ我慢ガ出来ズ、新宿ノ『明治屋』旅館ヘ行ク途中出刃庖丁ヲ買ヒニ金物屋ニ寄リタルモ、他ノ客ニ遠慮シテ出刃庖丁ヲ下サイト云ヘナカツタノデ肉切庖丁ヲ買ヒ」
 つまり、阿部定は「出刃庖丁をください」と言えなかったから、肉切包丁を買ってしまったのである。
 と、ここまで書いて、妙だと気づかれた読者は、鑑識眼が鋭い。そうである。まず、予審調書では「牛刀」と呼ばれていた刃物が、精神鑑定書では「肉切庖丁」という名称に変更されているのだ。実は、阿部定が死体損壊に使用した凶器の名称は、予審が終了し公判が開かれるまでの間に、途中で変更されているのである。
 予審調書と予審決定書では、「被告人所有の牛刀を以て」と表現しているのに対して、判決文ではこれを踏襲せず、どうしたわけか「肉切庖丁」と言い換えて認定している。
 もっとおかしなことには、無論、牛刀を買う供述のくだりに、客がいたので出刃庖丁が買えなかったなどと一言も書いてないこともだが、予審調書の中でも第六回訊問までは「牛刀」としているのに、第七回訊問になって唐突に「肉切庖丁」と証言が変わっていることである。このような変更をする場合は、どこかで凶器の名称を変更したときの供述がなければならないはずなのに、それがない。そればかりか、この刃物の名称の変更には時系列的に奇妙なことがある。
 まず、予審決定書は、新聞報道によれば、昭和11年9月30日に出されている。ところが、精神鑑定書は、その少し前、昭和11年9月10日から同年9月26日までの17日間をかけて鑑定したものを、9月26日付で提出したものである。つまり、事実関係から言えば、9月の時点で既に「牛刀→肉切庖丁」の変更が行われているはずなのに、精神鑑定書が出されたあとに出された予審決定書には、相変わらず「牛刀」のままになっているという矛盾だ。
 この混乱は、いったいどういう理由によるものなのか。ともあれ新聞報道にも、凶器の名前の混乱が見られることは確かだ。逮捕当初の新聞報道では、東京朝日新聞をはじめ各新聞が「長さ一尺五寸位の『柳刃』と稱する鋭利な庖丁」としているのに対して、公判を報道した新聞は「肉切庖丁」と報道している。柳刃包丁と牛刀ではまったく形状が異なる。それが結局、「肉切包丁」だったというのだから、この名称の混乱はいったい何だということになる。
 実際、この事件で死体損壊に使用された刃物は、いったいどんな形状のものだったのだろうか。当時毎日新聞の記者だった若梅信次によると「刃渡り五寸の肉切り庖丁」(阿部定猟奇事件『「文藝春秋」にみる昭和史』)という。もし、これが真実とすると、せいぜい刃渡り18センチ程度の刃物ということになる。そんなサイズの包丁なら、今ならどんな家庭でも豚肉や大根を切るために使う、きわめて平凡な包丁である。それを『阿部定手記』(中公文庫)の脚注のように「牛を切り裂くのに使う大きな包丁」などと、まことしやかに記して憚らないのは、この事件と予審調書に対する考察や知識の不足としか言いようがない。だいたい、客がいたため出刃庖丁が買えなくて、とりあえず買った刃物が、心理的に言っても、出刃庖丁よりも凶悪な刃物であるはずがない。
 要するに、当時も今も、前代未聞の猟奇犯罪というイメージが先行しすぎて、凶器についても拡大解釈する傾向があるのではないだろうか。
 ちなみに英語で「牛刀」は、直訳すればbutcher knifeと考えがちだが、実際はkitchen knifeと呼んでいるものをさしている。当時「牛刀」と呼ばれた包丁は、外国人家庭の料理で肉を切っていた姿が強調されて、日本人の間で、そんなおどろおどろしい名前を付けられていたにすぎない。要するに、和包丁に対して洋包丁とでも呼ぶべきものだったのだ。つまり、「牛刀」という古来からある言葉のイメージだけで、凶器をイメージするのは危険なのだ。
 もうひとつ、奇妙な因縁だが、この上田金物店は、阿部定事件の2年前、つまり昭和9年6月に帝都を戦慄させたバラバラ事件の犯人小林利平が肉切り庖丁を買った店だったという(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)。
※12中野駅=JR中央線(当時は省線)中野駅は、昭和7年に木造駅舎に建て直されているので、阿部定事件の時代には、まだ新しい駅舎だったことが考えられる。当時は、北口のほうが繁華だったし、石田の店があった新井との地理的関係から、待ち合わせ場所は中野駅北口だったのだろう。
 ただし、当時は現在のガード下を通る大きな道路がなく、たぶん現在のサンモールから一本東へ入ったごみごみした狭い裏通りが当時のメインストリートだったと思われ、その道と中野駅舎とが向かって左端で接していた。
 ちなみに、現在、中野サンプラザのある場所は、戦前の地図では「電信隊」と書かれているが、付近には二・二六で逮捕された北一輝が住んでいたような記憶がある。また戦前・戦中は、この電信隊が置かれていた場所に陸軍中野学校があったとも言われる。戦後は、その跡地に警察学校ならびに警察大学校が建てられたが、昭和40年代には空き地で、その後、サンプラザなどが建てられた。
 大正時代には、中野の次の駅は荻窪(をぎくぼ)だったようで、当時は中野までが電車でそれ以降は蒸気機関車に乗り換えていたという。大正8年には中野―吉祥時間が電化し、大正11年に高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の駅ができた。今とは違って、発展途上の東京の端っこという感じの土地であったのだ。
※13二十台=「二十台」は今日的には誤りで、「二十代」と書かねばならない。しかし、「二十台」と表記している資料はいくつもある。細谷啓次郎の『どてら裁判』にある予審調書(第五回訊問の一部のみ)もそうだ。当時の司法に限らず、世間一般で、その表記で書いていた可能性もある。
※14口説百万陀羅=くぜつひゃくまんだら。「口説」はことばの意味だが、ここでは女性に愛情を打ち明け言い寄る意味も含まれている。「百万陀羅」は「ことば数の多い形容。また幾度も繰り返し言う形容」(江戸語の辞典)とある。ただし、「訊問事項」版だけは「口説百曼荼羅」となっている。「ひゃくまんだら」とは、百万遍も「陀羅尼経」を唱えるという意味だから、百の「曼荼羅」とするのは辞書的には間違いとなる。だが、本物の予審調書は案外、百の曼荼羅と書いてあったかもしれない。
※15お腰=「お腰につけたきびだんご」を思い出して、腰に丁寧語の「お」を付けたと言葉と誤解されそうだが、これは、和服のときに着る女性の下着である腰巻のことで、女詞(おんなことば)では、そのように表現していた。
※16セル=薄地の和服用毛織物。セル地(serge)の略。
※17兵児帯=へこおび。「子どもや男子が長着の上にしめるしごき帯。もと。鹿児島の兵児がしめたことから」(学研国語大辞典)
※18牛刀を石田のオチンコの根元につけて他の女と何も出来ない様に切って仕舞う、と云うと=これはもちろん性戯でおこなったもので、その後の犯行に到る複線ではない。罪のない遊びだ。精神鑑定書には、「石田ハ私カラ何ヲサレテモ怒ルヤウナ事ハナク、ドンナ事デモシテヤルカラ勘弁シテ呉レ』ト云ツテ居タト云ヒ、又種々性欲ノ刺戟ヲ工夫シ、或ハ庖丁ヲ持ツテ石田ノ陰部ヲ切ル真似ヲナシ」とあり、性感を高めるための一種のおふざけ行為としてとらえている。
※19「さくら」の間=事件直後の新聞では、「午後二時半頃二階桔梗の間(四畳半)に行つて見ると」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とあって部屋の名称が異なっている。当然ながら、この記事を引用した『昭和史全記録』(毎日新聞社)でも「桔梗の間」となっている。
 どうして部屋の名称が違っているのだろうか。そのことを説明した資料にはまだ行き当たっていないが、たぶん最初に泊っていた部屋が「桔梗の間」で、その後「さくらの間」に変わったのだろう。ともあれ、当時の新聞にある見取り図から類推すると、「満左喜」の二階は、表から向かって左側には八畳間と六畳間が各一部屋ずつあったが、右側には四畳半の間が三部屋並んでいて、ほかに一部屋ぽつんと離れてトイレと物干し場の前に四畳半の部屋がある。その蒲団部屋というべきか安っぽい部屋に、阿部定たちは追いやられたようだ。むろん、金が払えなかったからにほかならない。
※20その前十二、三日頃=第一回訊問だけを見ると、5月16日の晩に手で頚を締める痴戯から、紐で締める痴戯へとエスカレートしたように供述しているが、その供述を翻して、指で締める痴戯は5月12〜13日頃おこなったということになる。精神鑑定書にある「十二、三日頃ニハ石田ノ唆示ニヨリ、先ズ『石田ト関係シテ[ママ]乍ラ喉ヲ指デ締メテ貰ヒ』次ニ『今度ハ私ガ上ニナツテ石田ノ喉ヲ締メ』等シタル事アリ」という部分だ。
※21先程述べた様に=「先程述べたように」というのだから、この回の訊問のどこかに、その「先程」がなくてはならないが、それが見当たらない。しかも、判事は「頸を締めながら関係した模様を述べよ」と聞いている。これは、石田と阿部定が、その日にそうした情交の仕方をしていたことを既に知っているときの聞き方だ。つまり、既に聞いてしまっていることを、さらに詳しく聞き直すという取り調べでの会話の流れがあって、この質問と応答になるのが自然だ。
 そのように考えると、この部分は、別の日に聴取された別の回の訊問と通底していると考えられる。具体的には、第一回訊問と供述の流れが同じなのだ。
 要するに、この供述を引き出したあとで、調書の体裁と、事件の流れの説明を調えるために、調書のあちこちから切り取ってきたデータを切り貼りしたのではないかという疑いが浮上してくる。あるいは、この調書には記載されていない別途の聴取書などがいくつかあって、それを書記官が、最後に順序よくまとめて書き連ねたために生じた文章上の齟齬とも考えられる。
 結局、供述調書が録取され積み重ねられていったところの時系列と、予審調書の整然たる訊問ナンバーの順序は、必ずしも一致しないと考えたほうが、実際的な解釈ではないかと思う。ただし、予審調書に日付が欠落しているために、それを証明できない。
※22咽喉=「喉」「咽喉」「頸」「首」という具合に、この調書では用語が一貫していない。厳密に使い分けているようにも見えず、理由は不明だが書記の違いによるのか?
※23オデコを叩いた[時に]舌を出す[と同じ]様な巫山戯方=ひたいを叩いた瞬間に舌をべろりと出すという、いまでもあるおどけたしぐさのことを言っている。
※24ギュウと=「別冊新評」版のこの部分は、たぶん「キュウと」の校正ミスと思われる。ただし、他の資料はほとんどが「キュウと」になっているが、「訊問事項」版だけは、「ギユツト」になっている】
※25柳川=柳川鍋(やながわなべ)のこと。つまり、どじょう鍋。
※26此前みつわで医者を呼んだ時=そんな出来事は予審調書には供述がない。何があったのか。
※27目薬を一瓶=「きぬた」という名前の目薬らしいが、これまでのところ資料に行き当たらず、製薬会社など不明。一壜20銭だった。
※28三十錠入りカルモチン=カルモチンは、当時一般的だった市販の睡眠薬。きわめて大量に服用しなければ致死量にはならないといわれた。のちに太宰治はこれを服んで三回自殺をはかったが、いずれも失敗している。
※29クチャクチャ話をして=関西弁かと思われたので調べてみたが、関西弁の「くちゃくちゃ」は、「くたくた」の転じたものだから意味が違っていた。江戸弁の「べちゃくちゃ」(口数の多いさま。よくしゃべるさま=「江戸語の辞典」の変形の可能性がある。標準語では「ぺちゃくちゃ」】
※30カルモチン五、六粒飲ませるとその頃から石田は眼をショボショボさせて居りましたが=石田のカルモチン服用の量と経過について、阿部定は逮捕直後に、「石田にカルモチン三錠をすゝめて服ませようとするとそれでは利かぬと石田は五錠服みましたしかしそれでも利かず少しも眠くならぬので午後一時頃更に五錠を石田は服んだのだがまだ利かぬので殘りの廿錠全部を服んでしまひますとやつと眠氣がさして來たやうでした」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と言っていて、予審調書とは若干の相違がある。要するに石田は、三十錠入り一壜すべてを服用したために眠気に襲われ、女性の力でも頸を絞められる状態になったことがわかる。
 精神鑑定書によるカルモチン服用の経過は、「『カルモチン』ヲ、先ヅ薬剤師ノ注意ニ従ツテ三錠飲マセタルモ「石田ハ『カルモチン』三錠グラヰデハ効ガナイヨト云ヒマシタカラ』又五錠飲マセ、夜遅ク又五六錠更ニ鶏ノスープト共ニ十二、三錠合計三十錠ヲ約三時間ノ間ニ飲マセ『十二時頃二人蒲団ニ入リマシタ』トイフ。又『カルモチン』ニ関シ、本人ハ資生堂デ鎮静サセタ方ガヨイト云ハレタノデ三十錠モ飲マセタノハ、本人ガ三粒位デハ効ガナイカラモツト呉レ』ト云フシ『カルモチン』ナラ百錠位飲ンダツテ死ナゝイト聞イテ居タカラデス。石田ヲ殺スノナラ『カルモチン』ナンカナクツタテ出来マス』ト云フ」となっている。
 ちなみに、小さな問題だが、予審調書のほとんどが、石田がカルモチンが「きかない」「利かない」「効力がない」と言ったとしているが、精神鑑定書を信じれば「効(こう)がない」と言っていたことになる。
※31下谷の家=稲葉正武方のこと。
※32繋迫=「繋迫」は明らかに誤植だろうが、「緊迫」としている予審調書も多い。だが、『阿部定手記』(中公文庫)や『命削る性愛の女』(コスミックインターナショナル)などの最近の刊行物では、「緊縛」と正しく訂正の手を加えてしまっている。僕としては同じく誤字ではあるが「緊迫」が原本の表記に近いような気がするので支持したい。
※33南枕に寝て居る石田=事件直後の報道には「男は西枕に蒲団をかぶつて死んでゐるので驚いて尾久署に急報した」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とあって、掲載された見取り図を見ると、確かに被害者は西枕(床の間のある方角に頭がある)で寝ていた。南枕だと床の間に平行となり、廊下に足を向けて寝るかたちとなる。
 一般的には家相からいうと、床の間は、北に設けられた南向きが最もよいとされているため、阿部定が床の間はすべて南向きにあると思い込んでいて、そんな供述したのかもしれない。だが、それに気づかない予審判事の意識はどうなっているのか。それとも新聞の誤りなのか。
※34オカヨ=これまで「お加代」になっていたのに、第一回訊問で登場した「オカヨ」という表記が、ここで久しぶりに登場している。そのことは、この部分の供述が、第一回訊問と時を同じくしておこなわれた可能性を示唆するものではないか。つまり、調書の切り貼りの可能性だ。
※35卓子=たくし。テーブル、あるいはつくえのこと。ただし、「訊問事項」版と精神鑑定書では「茶卓」となっている。どちらも相対会が編集刊行した資料だから、相対会が恣意的に二つの間の整合性をとったことも考えられないではないが、茶卓のほうが馴染みやすい言葉ではある。
※36左腕に=正確には「左の二の腕に」あるいは「左上膊部に」と表現すべきだろう。裁判にかけるための調書の表現としてみると、粗雑の感を否めない。ただし、警察発表がそうだったからか、当時の新聞報道もほとんどが「左腕」と表現している。
 その新聞の表現をこの「予審調書」が踏襲しているのは、「予審調書」の刊行者が、新聞などの記者経験があるとか、出版関係に携わっていたために、目に五月蠅い法律用語を略したことを示すものではないだろうか。だいいち、「予審決定書」には「同室に持ち込みゐたる被告人所有の牛刀を以て吉蔵の陰莖及び陰嚢を切り取り且つ同人の右上膊部外側に被告人の『定』の名を刻み込み以て吉蔵の死体を損壊」(昭和11年10月1日付國民新聞)とあるわけだから(左右逆なのは気にかかる。新聞集成の誤植だろうか)、司法は公式文書ではまっとうな表現をしているのだ。もし予審裁判で、この質問がこのままの言葉で本当になされたものなら、担当した予審判事はまったくのダル、やる気なしと言われてもしかたがなくなる。
 参考のために、発見された現場写真に対するジャーナリスト的なコメントとして、「異様な写真である。首に幾重にも巻かれた女物の腰紐。左上膊部に彫り込まれた『定』の字。右大腿部と敷布に残された血文字、『定吉二人キリ』。そして何よりも切取られた局部――」(「FOCUS」昭和60年12月13日号)とある。これが現代のジャーナリストの表現の仕方だ。
※37神田の万成館=大宮五郎が定宿(じょうやど)にしていて、この予審調書にもしばしば出てくる「神田の万代(旅)館」の書き誤りだと思うのだが、不思議に他の予審調書も同じになっている。神田とくれば「万世(萬世)橋(まんせいばし)」ということで、音が似ているため、最初に書き写した者が、つい書き間違えたのを、曾孫の代まで引きずっているのかもしれない。
※38石田の左腿にその血で「定吉二人キリ」と書き=1980年代に漏出し写真雑誌にスクープ掲載された現場写真などで確認すると、左腿には「定吉二人」としかない。「定吉二人キリ」と書いたのは敷布のほうだ。本物の予審調書ならたぶんありえない混同が、どうしてずっと今日まで生き残ってきたのか。比較的に正しい表現をしているのは「伊佐千尋版」と「訊問事項」版だが、これとても、表現的に欠落もあって正確ではない。
 予審調書を書き写す際にこの混同が起きたのは、たぶん文章のつながり具合のせいだろう。つまり、本来は「左腿にその血で『定吉二人』と書き、敷布には『定吉二人キリ』と書きました」とでもしてあったのだが、編集段階か原稿に起こす段階で同じような表現が重なっていたため読み違えたか、読みやすくするため言葉を端折ったが、間違って端折ってしまったのだろう。
 このときの行動の正しい記述としては、精神鑑定書にあるように「十一日ニ買ヒ来レル肉切庖丁ヲ以テ、陰茎ヲ根部ヨリ切除シ、次デ陰嚢ヲモ切除シ下腹部ノ切口ヲナデテ指ヲ押入スル内、指ニ夥シキ血ガ附着セルヨリ、ソノ血ヲモ片見トシテ保有スルタメ『自分ノ着テ居タ長襦袢ノ袖ト襟トニ塗リ付ケ』『石田ハ完全ニ自分ノモノダト云フ意味ヲ人ニ知ラセ度イ様ナ気ガシテ』『石田ノ左腿ニ、ソノ血デ「定、吉二人』ト書キ又敷布団ニモ『定、吉二人キリ』ト書キマシタ』次ニ自分ノ名ヲ石田ノ身体ニ付ケテ置イテ貰ヒ度カツタノデ『石田ノ左腕ニ『定』ト云フ自分ノ名ヲ庖丁デ刻ミマシタ』云々ト云フ」ということになるだろう。
 ともあれ、この「定吉二人キリ」という文字をめぐって、当時は、いろいろな解釈がされていた。たとえば「謎の血文字『定吉二人キリ』は女の名さだ≠ニ吉藏の吉≠とつたものらしいが二人キリ≠ヘ愛着を現はしたものか。或は心中を意味した『斬る』の意味か未だ判らない」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)として、波多陽区のギャグよろしく「〜斬り」と解釈した新聞記者もいたようだ。
※39敷布にも書きました=敷布の上に書いた血文字の大きさについて、「敷布の片隅には三寸角の楷書で」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とする一方、「蒲團の敷布には鮮血をもつて二寸角大の楷書で」(昭和11年5月19日付東京朝日新聞)とか、「又敷布には一字四寸角位の達筆で」(昭和11年5月19日付都新聞)とあって、新聞社によって文字のサイズがバラバラなのは興味深い。
※40牛刀で「定」と云ふ自分の名を刻み込んで=ここで注意したいのは、石田の左腿と敷布に書いたのは、石田の血を阿部定が指などにつけて書いた血文字だが、左上膊部の「定」という文字は、買っておいた包丁で彫り付けたものということだ。あきらかに書いたときの意識や意味が違っているわけで、左上膊部の文字は、ひょっとして、江戸の遊女やその間夫などが腕に「○○命」と刺青したことと関係があるのかもしれない。
※41雑誌の表紙の包紙=意味不明だが、現在でも古本屋などで購入すると、本を茶色い少し厚めの紙で包んでくれるが、あの紙のことだろう。
※42乱れ籠=みだれかご。風呂場などで脱いだ着物などを入れるための籐や竹などで編んだかごのこと。
※43シャツ=ほとんどの予審調書が「シャツ(シヤツ)」としているが、「訊問事項」版と精神鑑定書だけは「襯衣(しんい)」と書いている。「襯衣」は肌着、あるいはシャツの意味だが、「襯衣」のほうが調書らしくはある。漢字を書き写すのが面倒でカタカナにしたのか。
※44手洗水=このままでは「てあらいみず」と読むしかないが、たぶん手水器(ちょうずき=吊り下げ式手洗い器)の水を差しているのではなかろうか。昔のトイレにぶら下がっていた上部を蓋で閉じたバケツ状の器具で、多くはホーロー製だった。下に飛び出している棒状の突起金具を押し上げると水が流れ落ちてきて手を洗える仕掛けだ。この手水器には上部に水を入れるための穴が明いていて、それがつまみのついた蓋で閉じられている。このあとの行に「便所の手洗を逆さにしてその蓋を便所に落として仕舞ひました」とあるから、阿部定はきっと手水器の蓋をトイレに落としたのだろう】
※45トタン桶=トタンのバケツ(桶)か? ちなみにバケツは英語のbucketからきた外来語で、馬穴という漢字をあてている。金属製のバケツをブリキ製と思っている人も多いが、ブリキは水を扱うのには適していないので、トタン製(現在はステンレス製が多い)になっている。
※46一寸菓子を=当時の新聞報道ではどれも「一寸菓子を」となっている。水菓子とは果物のことで、お菓子とは別物だ。ところが奇妙にもどの資料も「菓子」としている。きっと最初に漏洩書類を書き写した者が「水」の一字を脱落させたのが、子から曾孫まで継承されてしまったのだろう。ただし、「訊問事項」版だけは、ちゃんと「水菓子」と書いてある。
※47頼み付の自動車屋=当時の新聞報道には「三業タクシー」あるいは「尾久三業自動車のハイヤー」となっている。ちなみに三業(さんぎょう)とは置屋、料理屋、待合のことで、それらの業種の建設が許された土地を三業地(さんぎょうち)という。また、置屋と料理屋だけが許された土地は二業地(にぎょうち)と呼ばれた。花街(かがい)の奥には、それぞれ三業地の客専門のタクシー(ハイヤー)会社があったようだ。
※48湯棺=ゆかん。他の資料では、刊行された年代が新しいものほど「湯灌」となっていて、正しい用語に訂正した跡がうかがえるが、「湯棺」のほうが調書らしくて、僕としては支持したい。細谷啓次郎の『どてら裁判』の中にある第五回予審調書の一部の中にも、「湯棺」とあるほか、精神鑑定書にも同様なので、こちらのほうが当時の警察・検察用語として正しいかもしれない。