=脚注=
※1中野=他の予審調書では「中野町新高」となっている。ところが、中野町には「新町」「新山」「新橋」という似た町名はあったものの「新高」は確認できなかった。一方、「訊問事項」版では「中野町新宿」となっているが、この地名も確認できない。徹底的に誤植だらけの様相を呈している部分だ。ちなみに、阿部定裁判の裁判長だった細谷啓次郎の『どてら裁判』には、「中野町新検の待合関弥」とあり、これが正解だろうと思う。つまり、この「別冊新評」版では「町新検」が脱落しているが、他の予審調書では、「新検」を「新高」や「新宿」と誤植しているわけだ。中野町という地名がきたからそのあとも地名だろうと思い込んだための誤植だろう。
もともと第四回訊問の最後のほうに「『では新検の待合でお前泊っちめえよ』と石田に送られ中野町の『関弥』と云ふ待合に行きました」とあるわけだから、それを思い出せば、比較的簡単に「中野町新検の待合関弥」と読み解くことができるはずだ。
※2ゴテクサ=関西弁と思われる言い回しだ。大阪で暮らしたことがある阿部定は、つい大阪弁を口に出したのかもしれない。ちなみにゴテクサとは、「ゴテクサ(名・副)いざこざ。ぐずぐず。ごてごていうさま」(大阪ことば事典)という意味。
※3清元=きよもと。清元節(きよもとぶし)の略。江戸浄瑠璃の一つ。阿部定は子供の頃に三味線を習っていた影響もあってか、清元に関心があったのだろう。
※4明治座で芝居を見ましたが=このとき明治座では、泉鏡花原作、川口松太郎脚色の花柳界物「新版つや物語」などが上演されていた。ただし、問題は、この芝居を見た日付が、公判ではどうしたことか九日になっていることだ。以下は裁判長とのやりとり。
「裁『九日に明治座に行つてつや物語を見たんだね』
定『その狂言は小きんと云ふ芸者が出刃庖丁で可愛いゝ男田之助を殺してその血で襖に字を書くのを見てとても感動した』
とてお定が吉蔵殺しに用ひた『定吉二人キリ』の血書のヒントはこの泉鏡花の原作品から得たことを語り」(昭和11年11月26日付時事新報)
ところが、そのように凶器を買う動機を作った芝居について、警察や検察も、裁判でさえも、きちんとした捜査や考察がなされていないように感じられる。そもそも、このとき阿部定が証言した芝居の筋は、かなり独りよがりのものであった。
「実際はまったく反対の筋で、清(せい)の左腕をへし折った悪役の代議士篠山(ささやま)を[芸者の]小今(こきん)が出刃包丁で刺し殺し、自分の腋の下も刺し流れ出た血で清に自分の姿を襖に描かせ、自分は喜んで死んでいくのです」(新派の花道 http://www.geocities.co.jp/Hollywood/8175/index.html)
ということであって、阿部定の記憶違いを指摘する人もいる。しかも、裁判では、登場人物の名を「小金」や「小きん」などと勝手な当て字をして、それで済ましているのだ。兇行が芝居を見たせいと、全面的には主張されなかったのは幸いだが、当時の捜査員たちは、たぶん、裏付け捜査のために、その芝居を見るということはしなかったのではなかろうか。犯人が早期に検挙されてしまうと、裏付け捜査がおろそかになるという轍を踏んでしまったのだろう。
※5明治屋=新宿の明治屋という名称は、第四回訊問にも登場するので、「旅館」という言葉が略されてしまったのだろう。また、直後に「その晩泊り」とあるから、旅館を暗示させて、読み違いはある程度防げている。
※6小野古着店=この店の屋号は、新聞で報道されたものとはまったく異なっている。ただし、「広小路小野古着店」(昭和11年5月21日付報知新聞)という報道は、ひとつだけ見つけたが、住所の説明が予審調書と若干違う。
この店を「小野古着店」と呼んだのは、店主の名前が小野何某だったからだろう。店主と顔見知りだった阿部定が、店主の名を冠して、そう呼んでいたのか、あるいは近所では、それが通称だったのかもしれない。
そういう事情はあったにせよ、本来の屋号を調書に記載せず、阿部定の言ったとおりを記録したとは、杜撰な捜査といわれてもしかたがない。なにしろ、この間違った屋号を、公判にまで引きずっていくのだから、杜撰捜査の罪は重い。ともあれこの古着店は下谷区上野町2丁目(現・台東区上野4丁目)にあったようだ。
※7小僧=新聞報道から類推すると、この小僧とされた人物は、当時18歳の男性店員だったようだ。しかし、小僧とは人を馬鹿にした言い方ではある。阿部定の口調がそのまま書かれたのか。それとも当時の官憲の姿勢からくるものなのか。
※8ウイスキィ=こんな単純な単語ですら、予審調書によってさまざまあるから不思議だ。ウィスキイ=「ドキュメント日本人」版、ウイスキー=「阿部定公判記録」版ほか、ウイスキイ=「昭和11年の女」版……とある。こんな小さな箇所でなぜこれほど違うのか理解に苦しむ。それだけ社会の底辺で、あちこち手垢にまみれながら、予審調書が流通していったのだろう。
※9コーヒー=不思議な誤植なのだが、「ドキュメント日本人」版と「昭和11年の女」版では、ここと、もう一箇所だけが「コーヒ」となっている。「一杯のコーヒから」という歌の影響なのだろうか。それとも調書を書き写した人間が音引きを書き落としたのか?
※10菊屋金物屋=新聞報道では「下谷黒門町の上田金物店」(昭和11年11月26日時事新報)とあって店名が異なっている。これも経営者と屋号、あるいは実際に出している看板との違いとみるべきだろうか。ただ困るのは、当時下谷区には西、東、それに上野元と冠した黒門町があって、そのどれなのか曖昧になっていることだ。また、「金物店」なのか「金物屋」なのかも、予審調書によって違っている。井手孫六などは、「菊屋金物屋」では何となくおかしいと思ったのか、「金物店菊屋」と言い換えて、勝手に屋号を作ってしまっている。この人の言語感覚はどこかがずれているのかもしれない。
※11牛刀一挺を九十銭で買ひ=「昭和11年の女」版だけは、値段が「八十銭」となっているが、新聞報道などを参照して確認しても、八十銭という金額は出てこない。たぶん校正ミスだろう。
ともあれ、芝居に触発されてのことなら出刃庖丁を買うはずなのだが、阿部定はなぜか牛刀を選んでいる。この理由について、まず公判で阿部定は「下谷黒門町の上田金物店で出刃庖丁を買ふ心算で入つたが出刃庖丁がなかつたので肉切庖丁を買つて戻つた」(昭和11年12月8日付時事新報)と述べている。予審調書と公判の証言とでは、屋号が違っているのは問題で、屋号を改めた供述調書が存在しなければならないが、それが見当たらない。だが、もっと大きな問題は、出刃庖丁でなはなく牛刀を買ってしまった理由のほうだ。
だいたい、当時の繁華街であった上野の金物屋に、出刃包丁が置いてないなどとはにわかに信じられないことだから、阿部定の言い訳に過ぎないことが推測できる。それに、実際は、出刃庖丁が店になかったからではなく、店には他に客がいて、気後れして買えなかったのである。そのあたりの事情を精神鑑定書では、以下のように説明されている。
「九日本人ガ『明治座』ニテ芝居見物中『新作艶物語』ノ中ノ『小金』トイフ芸者ガ出刃庖丁ヲ懐ニ入レテ、ソノ色男ノ親元ノ所ニ行ツテ啖呵ヲ切ル所ガアリ、芝居見物中モ石田ノ事バカリ考ヘテ居タノデ、コレヲ見テ畜生出刃庖丁デ嚇カシテヤラウト思ツタト云ヒ、五月十一日石田ニ会ヒ度クテ我慢ガ出来ズ、新宿ノ『明治屋』旅館ヘ行ク途中出刃庖丁ヲ買ヒニ金物屋ニ寄リタルモ、他ノ客ニ遠慮シテ出刃庖丁ヲ下サイト云ヘナカツタノデ肉切庖丁ヲ買ヒ」
つまり、阿部定は「出刃庖丁をください」と言えなかったから、肉切包丁を買ってしまったのである。
と、ここまで書いて、妙だと気づかれた読者は、鑑識眼が鋭い。そうである。まず、予審調書では「牛刀」と呼ばれていた刃物が、精神鑑定書では「肉切庖丁」という名称に変更されているのだ。実は、阿部定が死体損壊に使用した凶器の名称は、予審が終了し公判が開かれるまでの間に、途中で変更されているのである。
予審調書と予審決定書では、「被告人所有の牛刀を以て」と表現しているのに対して、判決文ではこれを踏襲せず、どうしたわけか「肉切庖丁」と言い換えて認定している。
もっとおかしなことには、無論、牛刀を買う供述のくだりに、客がいたので出刃庖丁が買えなかったなどと一言も書いてないこともだが、予審調書の中でも第六回訊問までは「牛刀」としているのに、第七回訊問になって唐突に「肉切庖丁」と証言が変わっていることである。このような変更をする場合は、どこかで凶器の名称を変更したときの供述がなければならないはずなのに、それがない。そればかりか、この刃物の名称の変更には時系列的に奇妙なことがある。
まず、予審決定書は、新聞報道によれば、昭和11年9月30日に出されている。ところが、精神鑑定書は、その少し前、昭和11年9月10日から同年9月26日までの17日間をかけて鑑定したものを、9月26日付で提出したものである。つまり、事実関係から言えば、9月の時点で既に「牛刀→肉切庖丁」の変更が行われているはずなのに、精神鑑定書が出されたあとに出された予審決定書には、相変わらず「牛刀」のままになっているという矛盾だ。
この混乱は、いったいどういう理由によるものなのか。ともあれ新聞報道にも、凶器の名前の混乱が見られることは確かだ。逮捕当初の新聞報道では、東京朝日新聞をはじめ各新聞が「長さ一尺五寸位の『柳刃』と稱する鋭利な庖丁」としているのに対して、公判を報道した新聞は「肉切庖丁」と報道している。柳刃包丁と牛刀ではまったく形状が異なる。それが結局、「肉切包丁」だったというのだから、この名称の混乱はいったい何だということになる。
実際、この事件で死体損壊に使用された刃物は、いったいどんな形状のものだったのだろうか。当時毎日新聞の記者だった若梅信次によると「刃渡り五寸の肉切り庖丁」(阿部定猟奇事件『「文藝春秋」にみる昭和史』)という。もし、これが真実とすると、せいぜい刃渡り18センチ程度の刃物ということになる。そんなサイズの包丁なら、今ならどんな家庭でも豚肉や大根を切るために使う、きわめて平凡な包丁である。それを『阿部定手記』(中公文庫)の脚注のように「牛を切り裂くのに使う大きな包丁」などと、まことしやかに記して憚らないのは、この事件と予審調書に対する考察や知識の不足としか言いようがない。だいたい、客がいたため出刃庖丁が買えなくて、とりあえず買った刃物が、心理的に言っても、出刃庖丁よりも凶悪な刃物であるはずがない。
要するに、当時も今も、前代未聞の猟奇犯罪というイメージが先行しすぎて、凶器についても拡大解釈する傾向があるのではないだろうか。
ちなみに英語で「牛刀」は、直訳すればbutcher knifeと考えがちだが、実際はkitchen knifeと呼んでいるものをさしている。当時「牛刀」と呼ばれた包丁は、外国人家庭の料理で肉を切っていた姿が強調されて、日本人の間で、そんなおどろおどろしい名前を付けられていたにすぎない。要するに、和包丁に対して洋包丁とでも呼ぶべきものだったのだ。つまり、「牛刀」という古来からある言葉のイメージだけで、凶器をイメージするのは危険なのだ。
もうひとつ、奇妙な因縁だが、この上田金物店は、阿部定事件の2年前、つまり昭和9年6月に帝都を戦慄させたバラバラ事件の犯人小林利平が肉切り庖丁を買った店だったという(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)。
※12中野駅=JR中央線(当時は省線)中野駅は、昭和7年に木造駅舎に建て直されているので、阿部定事件の時代には、まだ新しい駅舎だったことが考えられる。当時は、北口のほうが繁華だったし、石田の店があった新井との地理的関係から、待ち合わせ場所は中野駅北口だったのだろう。
ただし、当時は現在のガード下を通る大きな道路がなく、たぶん現在のサンモールから一本東へ入ったごみごみした狭い裏通りが当時のメインストリートだったと思われ、その道と中野駅舎とが向かって左端で接していた。
ちなみに、現在、中野サンプラザのある場所は、戦前の地図では「電信隊」と書かれているが、付近には二・二六で逮捕された北一輝が住んでいたような記憶がある。また戦前・戦中は、この電信隊が置かれていた場所に陸軍中野学校があったとも言われる。戦後は、その跡地に警察学校ならびに警察大学校が建てられたが、昭和40年代には空き地で、その後、サンプラザなどが建てられた。
大正時代には、中野の次の駅は荻窪(をぎくぼ)だったようで、当時は中野までが電車でそれ以降は蒸気機関車に乗り換えていたという。大正8年には中野―吉祥時間が電化し、大正11年に高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の駅ができた。今とは違って、発展途上の東京の端っこという感じの土地であったのだ。
※13二十台=「二十台」は今日的には誤りで、「二十代」と書かねばならない。しかし、「二十台」と表記している資料はいくつもある。細谷啓次郎の『どてら裁判』にある予審調書(第五回訊問の一部のみ)もそうだ。当時の司法に限らず、世間一般で、その表記で書いていた可能性もある。
※14口説百万陀羅=くぜつひゃくまんだら。「口説」はことばの意味だが、ここでは女性に愛情を打ち明け言い寄る意味も含まれている。「百万陀羅」は「ことば数の多い形容。また幾度も繰り返し言う形容」(江戸語の辞典)とある。ただし、「訊問事項」版だけは「口説百曼荼羅」となっている。「ひゃくまんだら」とは、百万遍も「陀羅尼経」を唱えるという意味だから、百の「曼荼羅」とするのは辞書的には間違いとなる。だが、本物の予審調書は案外、百の曼荼羅と書いてあったかもしれない。
※15お腰=「お腰につけたきびだんご」を思い出して、腰に丁寧語の「お」を付けたと言葉と誤解されそうだが、これは、和服のときに着る女性の下着である腰巻のことで、女詞(おんなことば)では、そのように表現していた。
※16セル=薄地の和服用毛織物。セル地(serge)の略。
※17兵児帯=へこおび。「子どもや男子が長着の上にしめるしごき帯。もと。鹿児島の兵児がしめたことから」(学研国語大辞典)
※18牛刀を石田のオチンコの根元につけて他の女と何も出来ない様に切って仕舞う、と云うと=これはもちろん性戯でおこなったもので、その後の犯行に到る複線ではない。罪のない遊びだ。精神鑑定書には、「石田ハ私カラ何ヲサレテモ怒ルヤウナ事ハナク、ドンナ事デモシテヤルカラ勘弁シテ呉レ』ト云ツテ居タト云ヒ、又種々性欲ノ刺戟ヲ工夫シ、或ハ庖丁ヲ持ツテ石田ノ陰部ヲ切ル真似ヲナシ」とあり、性感を高めるための一種のおふざけ行為としてとらえている。
※19「さくら」の間=事件直後の新聞では、「午後二時半頃二階桔梗の間(四畳半)に行つて見ると」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とあって部屋の名称が異なっている。当然ながら、この記事を引用した『昭和史全記録』(毎日新聞社)でも「桔梗の間」となっている。
どうして部屋の名称が違っているのだろうか。そのことを説明した資料にはまだ行き当たっていないが、たぶん最初に泊っていた部屋が「桔梗の間」で、その後「さくらの間」に変わったのだろう。ともあれ、当時の新聞にある見取り図から類推すると、「満左喜」の二階は、表から向かって左側には八畳間と六畳間が各一部屋ずつあったが、右側には四畳半の間が三部屋並んでいて、ほかに一部屋ぽつんと離れてトイレと物干し場の前に四畳半の部屋がある。その蒲団部屋というべきか安っぽい部屋に、阿部定たちは追いやられたようだ。むろん、金が払えなかったからにほかならない。
※20その前十二、三日頃=第一回訊問だけを見ると、5月16日の晩に手で頚を締める痴戯から、紐で締める痴戯へとエスカレートしたように供述しているが、その供述を翻して、指で締める痴戯は5月12〜13日頃おこなったということになる。精神鑑定書にある「十二、三日頃ニハ石田ノ唆示ニヨリ、先ズ『石田ト関係シテ[ママ]乍ラ喉ヲ指デ締メテ貰ヒ』次ニ『今度ハ私ガ上ニナツテ石田ノ喉ヲ締メ』等シタル事アリ」という部分だ。
※21先程述べた様に=「先程述べたように」というのだから、この回の訊問のどこかに、その「先程」がなくてはならないが、それが見当たらない。しかも、判事は「頸を締めながら関係した模様を述べよ」と聞いている。これは、石田と阿部定が、その日にそうした情交の仕方をしていたことを既に知っているときの聞き方だ。つまり、既に聞いてしまっていることを、さらに詳しく聞き直すという取り調べでの会話の流れがあって、この質問と応答になるのが自然だ。
そのように考えると、この部分は、別の日に聴取された別の回の訊問と通底していると考えられる。具体的には、第一回訊問と供述の流れが同じなのだ。
要するに、この供述を引き出したあとで、調書の体裁と、事件の流れの説明を調えるために、調書のあちこちから切り取ってきたデータを切り貼りしたのではないかという疑いが浮上してくる。あるいは、この調書には記載されていない別途の聴取書などがいくつかあって、それを書記官が、最後に順序よくまとめて書き連ねたために生じた文章上の齟齬とも考えられる。
結局、供述調書が録取され積み重ねられていったところの時系列と、予審調書の整然たる訊問ナンバーの順序は、必ずしも一致しないと考えたほうが、実際的な解釈ではないかと思う。ただし、予審調書に日付が欠落しているために、それを証明できない。
※22咽喉=「喉」「咽喉」「頸」「首」という具合に、この調書では用語が一貫していない。厳密に使い分けているようにも見えず、理由は不明だが書記の違いによるのか?
※23オデコを叩いた[時に]舌を出す[と同じ]様な巫山戯方=ひたいを叩いた瞬間に舌をべろりと出すという、いまでもあるおどけたしぐさのことを言っている。
※24ギュウと=「別冊新評」版のこの部分は、たぶん「キュウと」の校正ミスと思われる。ただし、他の資料はほとんどが「キュウと」になっているが、「訊問事項」版だけは、「ギユツト」になっている】
※25柳川=柳川鍋(やながわなべ)のこと。つまり、どじょう鍋。
※26此前みつわで医者を呼んだ時=そんな出来事は予審調書には供述がない。何があったのか。
※27目薬を一瓶=「きぬた」という名前の目薬らしいが、これまでのところ資料に行き当たらず、製薬会社など不明。一壜20銭だった。
※28三十錠入りカルモチン=カルモチンは、当時一般的だった市販の睡眠薬。きわめて大量に服用しなければ致死量にはならないといわれた。のちに太宰治はこれを服んで三回自殺をはかったが、いずれも失敗している。
※29クチャクチャ話をして=関西弁かと思われたので調べてみたが、関西弁の「くちゃくちゃ」は、「くたくた」の転じたものだから意味が違っていた。江戸弁の「べちゃくちゃ」(口数の多いさま。よくしゃべるさま=「江戸語の辞典」の変形の可能性がある。標準語では「ぺちゃくちゃ」】
※30カルモチン五、六粒飲ませるとその頃から石田は眼をショボショボさせて居りましたが=石田のカルモチン服用の量と経過について、阿部定は逮捕直後に、「石田にカルモチン三錠をすゝめて服ませようとするとそれでは利かぬと石田は五錠服みましたしかしそれでも利かず少しも眠くならぬので午後一時頃更に五錠を石田は服んだのだがまだ利かぬので殘りの廿錠全部を服んでしまひますとやつと眠氣がさして來たやうでした」(昭和11年5月21日付東京朝日新聞)と言っていて、予審調書とは若干の相違がある。要するに石田は、三十錠入り一壜すべてを服用したために眠気に襲われ、女性の力でも頸を絞められる状態になったことがわかる。
精神鑑定書によるカルモチン服用の経過は、「『カルモチン』ヲ、先ヅ薬剤師ノ注意ニ従ツテ三錠飲マセタルモ「石田ハ『カルモチン』三錠グラヰデハ効ガナイヨト云ヒマシタカラ』又五錠飲マセ、夜遅ク又五六錠更ニ鶏ノスープト共ニ十二、三錠合計三十錠ヲ約三時間ノ間ニ飲マセ『十二時頃二人蒲団ニ入リマシタ』トイフ。又『カルモチン』ニ関シ、本人ハ資生堂デ鎮静サセタ方ガヨイト云ハレタノデ三十錠モ飲マセタノハ、本人ガ三粒位デハ効ガナイカラモツト呉レ』ト云フシ『カルモチン』ナラ百錠位飲ンダツテ死ナゝイト聞イテ居タカラデス。石田ヲ殺スノナラ『カルモチン』ナンカナクツタテ出来マス』ト云フ」となっている。
ちなみに、小さな問題だが、予審調書のほとんどが、石田がカルモチンが「きかない」「利かない」「効力がない」と言ったとしているが、精神鑑定書を信じれば「効(こう)がない」と言っていたことになる。
※31下谷の家=稲葉正武方のこと。
※32繋迫=「繋迫」は明らかに誤植だろうが、「緊迫」としている予審調書も多い。だが、『阿部定手記』(中公文庫)や『命削る性愛の女』(コスミックインターナショナル)などの最近の刊行物では、「緊縛」と正しく訂正の手を加えてしまっている。僕としては同じく誤字ではあるが「緊迫」が原本の表記に近いような気がするので支持したい。
※33南枕に寝て居る石田=事件直後の報道には「男は西枕に蒲団をかぶつて死んでゐるので驚いて尾久署に急報した」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とあって、掲載された見取り図を見ると、確かに被害者は西枕(床の間のある方角に頭がある)で寝ていた。南枕だと床の間に平行となり、廊下に足を向けて寝るかたちとなる。
一般的には家相からいうと、床の間は、北に設けられた南向きが最もよいとされているため、阿部定が床の間はすべて南向きにあると思い込んでいて、そんな供述したのかもしれない。だが、それに気づかない予審判事の意識はどうなっているのか。それとも新聞の誤りなのか。
※34オカヨ=これまで「お加代」になっていたのに、第一回訊問で登場した「オカヨ」という表記が、ここで久しぶりに登場している。そのことは、この部分の供述が、第一回訊問と時を同じくしておこなわれた可能性を示唆するものではないか。つまり、調書の切り貼りの可能性だ。
※35卓子=たくし。テーブル、あるいはつくえのこと。ただし、「訊問事項」版と精神鑑定書では「茶卓」となっている。どちらも相対会が編集刊行した資料だから、相対会が恣意的に二つの間の整合性をとったことも考えられないではないが、茶卓のほうが馴染みやすい言葉ではある。
※36左腕に=正確には「左の二の腕に」あるいは「左上膊部に」と表現すべきだろう。裁判にかけるための調書の表現としてみると、粗雑の感を否めない。ただし、警察発表がそうだったからか、当時の新聞報道もほとんどが「左腕」と表現している。
その新聞の表現をこの「予審調書」が踏襲しているのは、「予審調書」の刊行者が、新聞などの記者経験があるとか、出版関係に携わっていたために、目に五月蠅い法律用語を略したことを示すものではないだろうか。だいいち、「予審決定書」には「同室に持ち込みゐたる被告人所有の牛刀を以て吉蔵の陰莖及び陰嚢を切り取り且つ同人の右上膊部外側に被告人の『定』の名を刻み込み以て吉蔵の死体を損壊」(昭和11年10月1日付國民新聞)とあるわけだから(左右逆なのは気にかかる。新聞集成の誤植だろうか)、司法は公式文書ではまっとうな表現をしているのだ。もし予審裁判で、この質問がこのままの言葉で本当になされたものなら、担当した予審判事はまったくのダル、やる気なしと言われてもしかたがなくなる。
参考のために、発見された現場写真に対するジャーナリスト的なコメントとして、「異様な写真である。首に幾重にも巻かれた女物の腰紐。左上膊部に彫り込まれた『定』の字。右大腿部と敷布に残された血文字、『定吉二人キリ』。そして何よりも切取られた局部――」(「FOCUS」昭和60年12月13日号)とある。これが現代のジャーナリストの表現の仕方だ。
※37神田の万成館=大宮五郎が定宿(じょうやど)にしていて、この予審調書にもしばしば出てくる「神田の万代(旅)館」の書き誤りだと思うのだが、不思議に他の予審調書も同じになっている。神田とくれば「万世(萬世)橋(まんせいばし)」ということで、音が似ているため、最初に書き写した者が、つい書き間違えたのを、曾孫の代まで引きずっているのかもしれない。
※38石田の左腿にその血で「定吉二人キリ」と書き=1980年代に漏出し写真雑誌にスクープ掲載された現場写真などで確認すると、左腿には「定吉二人」としかない。「定吉二人キリ」と書いたのは敷布のほうだ。本物の予審調書ならたぶんありえない混同が、どうしてずっと今日まで生き残ってきたのか。比較的に正しい表現をしているのは「伊佐千尋版」と「訊問事項」版だが、これとても、表現的に欠落もあって正確ではない。
予審調書を書き写す際にこの混同が起きたのは、たぶん文章のつながり具合のせいだろう。つまり、本来は「左腿にその血で『定吉二人』と書き、敷布には『定吉二人キリ』と書きました」とでもしてあったのだが、編集段階か原稿に起こす段階で同じような表現が重なっていたため読み違えたか、読みやすくするため言葉を端折ったが、間違って端折ってしまったのだろう。
このときの行動の正しい記述としては、精神鑑定書にあるように「十一日ニ買ヒ来レル肉切庖丁ヲ以テ、陰茎ヲ根部ヨリ切除シ、次デ陰嚢ヲモ切除シ下腹部ノ切口ヲナデテ指ヲ押入スル内、指ニ夥シキ血ガ附着セルヨリ、ソノ血ヲモ片見トシテ保有スルタメ『自分ノ着テ居タ長襦袢ノ袖ト襟トニ塗リ付ケ』『石田ハ完全ニ自分ノモノダト云フ意味ヲ人ニ知ラセ度イ様ナ気ガシテ』『石田ノ左腿ニ、ソノ血デ「定、吉二人』ト書キ又敷布団ニモ『定、吉二人キリ』ト書キマシタ』次ニ自分ノ名ヲ石田ノ身体ニ付ケテ置イテ貰ヒ度カツタノデ『石田ノ左腕ニ『定』ト云フ自分ノ名ヲ庖丁デ刻ミマシタ』云々ト云フ」ということになるだろう。
ともあれ、この「定吉二人キリ」という文字をめぐって、当時は、いろいろな解釈がされていた。たとえば「謎の血文字『定吉二人キリ』は女の名さだ≠ニ吉藏の吉≠とつたものらしいが二人キリ≠ヘ愛着を現はしたものか。或は心中を意味した『斬る』の意味か未だ判らない」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)として、波多陽区のギャグよろしく「〜斬り」と解釈した新聞記者もいたようだ。
※39敷布にも書きました=敷布の上に書いた血文字の大きさについて、「敷布の片隅には三寸角の楷書で」(昭和11年5月19日付讀賣新聞)とする一方、「蒲團の敷布には鮮血をもつて二寸角大の楷書で」(昭和11年5月19日付東京朝日新聞)とか、「又敷布には一字四寸角位の達筆で」(昭和11年5月19日付都新聞)とあって、新聞社によって文字のサイズがバラバラなのは興味深い。
※40牛刀で「定」と云ふ自分の名を刻み込んで=ここで注意したいのは、石田の左腿と敷布に書いたのは、石田の血を阿部定が指などにつけて書いた血文字だが、左上膊部の「定」という文字は、買っておいた包丁で彫り付けたものということだ。あきらかに書いたときの意識や意味が違っているわけで、左上膊部の文字は、ひょっとして、江戸の遊女やその間夫などが腕に「○○命」と刺青したことと関係があるのかもしれない。
※41雑誌の表紙の包紙=意味不明だが、現在でも古本屋などで購入すると、本を茶色い少し厚めの紙で包んでくれるが、あの紙のことだろう。
※42乱れ籠=みだれかご。風呂場などで脱いだ着物などを入れるための籐や竹などで編んだかごのこと。
※43シャツ=ほとんどの予審調書が「シャツ(シヤツ)」としているが、「訊問事項」版と精神鑑定書だけは「襯衣(しんい)」と書いている。「襯衣」は肌着、あるいはシャツの意味だが、「襯衣」のほうが調書らしくはある。漢字を書き写すのが面倒でカタカナにしたのか。
※44手洗水=このままでは「てあらいみず」と読むしかないが、たぶん手水器(ちょうずき=吊り下げ式手洗い器)の水を差しているのではなかろうか。昔のトイレにぶら下がっていた上部を蓋で閉じたバケツ状の器具で、多くはホーロー製だった。下に飛び出している棒状の突起金具を押し上げると水が流れ落ちてきて手を洗える仕掛けだ。この手水器には上部に水を入れるための穴が明いていて、それがつまみのついた蓋で閉じられている。このあとの行に「便所の手洗を逆さにしてその蓋を便所に落として仕舞ひました」とあるから、阿部定はきっと手水器の蓋をトイレに落としたのだろう】
※45トタン桶=トタンのバケツ(桶)か? ちなみにバケツは英語のbucketからきた外来語で、馬穴という漢字をあてている。金属製のバケツをブリキ製と思っている人も多いが、ブリキは水を扱うのには適していないので、トタン製(現在はステンレス製が多い)になっている。
※46一寸菓子を=当時の新聞報道ではどれも「一寸水菓子を」となっている。水菓子とは果物のことで、お菓子とは別物だ。ところが奇妙にもどの資料も「菓子」としている。きっと最初に漏洩書類を書き写した者が「水」の一字を脱落させたのが、子から曾孫まで継承されてしまったのだろう。ただし、「訊問事項」版だけは、ちゃんと「水菓子」と書いてある。
※47頼み付の自動車屋=当時の新聞報道には「三業タクシー」あるいは「尾久三業自動車のハイヤー」となっている。ちなみに三業(さんぎょう)とは置屋、料理屋、待合のことで、それらの業種の建設が許された土地を三業地(さんぎょうち)という。また、置屋と料理屋だけが許された土地は二業地(にぎょうち)と呼ばれた。花街(かがい)の奥には、それぞれ三業地の客専門のタクシー(ハイヤー)会社があったようだ。
※48湯棺=ゆかん。他の資料では、刊行された年代が新しいものほど「湯灌」となっていて、正しい用語に訂正した跡がうかがえるが、「湯棺」のほうが調書らしくて、僕としては支持したい。細谷啓次郎の『どてら裁判』の中にある第五回予審調書の一部の中にも、「湯棺」とあるほか、精神鑑定書にも同様なので、こちらのほうが当時の警察・検察用語として正しいかもしれない。
|