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第四回訊問
問 被告が吉田屋の女中になってから主人吉蔵と関係するまでの事情はどうか。
答 私が吉田屋に住み込む時は給金は三十円迄保証するとの事でしたが、実際はチップが四十円位頂けました。※1女中は五人居り、全部住み込みで真面目な料理屋であり、お内儀さんも良い人で面白く働いて居ました。
吉田屋に行くと直ぐ石田夫婦からどうして奉公する気になったかと聞かれ、亭主が事業に失敗して[した為め]共稼ぎするのですと噓を云って居りました。
主人の石田吉蔵を初め見た時、様子が良い優しそうな人だと思い岡惚れしましたが、別に態度に出しませんでした。ところが十日位経った頃から、吉田は廊下ですれ違った時等に私の頸を※2指で究[突]いたり態と廊下に立ち塞がっ[て見]たりするので、自然気があるのではないかと思ひましたが芸妓時代、親父にからかはれたこともあるので単純の揶揄だと思って居りました。
二月二十五日頃用事があって暇を取り稲葉の家に行き二日ばかりして帰ったことがありましたが、その晩[帰つた晩] 、私が電話室で芸妓屋に電話をかけて居ると、石田が用もないのに這入って来て小声で私に、「お疲れ様昨夜は良いことをして来やがって」と云ひましたから「御冗談でせう」と云ふと石田は「噓をつけ」と云ひながら私の耳朶を噛み膝で※3[私の]お尻を突いたので、私は横目で色っぽく睨み嬉しく思いました。
石田は魚河岸へ行く為、毎朝早く起るのですが、[私が]翌朝早く便所へ行くと、石田が女中部屋の廊下を[に] ウロウロして居り「冷たい手をして居るな」と云って手を握り私を抱き締めて呉れました。その後折さへあれば抱き合ったり、キッスしたり、お乳を弄って貰ったりして居り[居] ましたが、未だ関係はしませんでした。
四月三日の夕方、大宮先生から電話が掛ったのでお内儀さんに話し暇を貰って出掛け、二晩外泊して夜十一時[頃]帰ると、[其晩]廊下で石田が何も云はずとても痛く私の腕をツネリ※4ました。
翌日昼[間]、石田と私で自然と[一緒に誰も居ない]二階の広間に行きましたら座敷の隅で石田は「あの電話は旦那だろう畜生」と云ひ、私は返事も[トル]せずにやりと笑ふと、石田は私を抱き締めたのでキッスしてその儘下りました。
四月中旬頃でしたが御内儀さん※5が「お加代さん※6離れにお客さんですよ」と云ふものですから御銚子を持って行って見ると、石田が客になって酒を飲んで居るので驚きました。訳を聞くと石田は「外で酒を断って居るから今日は家で客遊び[を] するのだ」と云い、首に吊してある禁酒と書いた成田様の御札を見せました。私が側でお酌をすると石田は手を握ったり抱き締めたりし[て]、その内私のものを弄りましたが私は嬉しく感じ、石田のする儘に任せて居りました。
間もなく「八重次」と云ふ芸者が来て石田の清元を初めて聞きました。喉が良く素敵※7だったので全く惚れてしまひました。芸者が帳場※8へ行った留守一寸した間にその席で初めて情交しましたがその時は唯だ入れて貰った丈でゆっくり出来ませんでした。
問 その内情事が家人に知れわたったので石田と二人家出して待合に泊る様になったのか[なつたか]。
答 左様です。本年四月十九日の晩、私と石田が応接間の電気を消して其処で関係しやうとして居る時、女中に見付けられてしまい家人に知れたので石田がゆっくり外で相談しようと云ひ、四月二十二日[二十三日]の朝しめし合せて家出し渋谷丸山町※9の待合「みつわ」※10に行きました。
問 その経緯は。
答 石田は初めて関係した翌朝私が朝早く便所に行くと[行つた処] 其処へ石田が来て待って居り、誘はれてそっと離れの間に行き又関係しましたが段々二人の仲が露骨になり、四月十九日の晩宴会があって家の中がゴタゴタして居た時私と石田が応接間に入り電気を消して長椅子に並んで腰掛け関係しようとした処、女中が「あれ応接間の電気が消えて居る」と云ひながら座蒲団を取りに這入って来たので二人共慌てて飛出した為、その女中に見付かってしまいました。その翌朝石田が私に、「昨夜家内から痛み[痛め] つけられた、ゆっくり外で相談しよう」と云ったので私は一旦外で石田と相談し直ぐ戻る心算で四月二十二日晩お内儀さんに「一寸家[内] へ行って来たひから二日ばかり暇を貰ひたい」と云って石田と示し合わせた通り四月二十三日午前八時新宿駅で落合ひ、渋谷の待合「みつわ」に行きました。
石田に惚れたのは一時の浮気で吉田屋に雇はれてから終始、大宮先生の事を考へ末を楽しみに働いて居り、お内儀さんには前から五月一杯で暇をとると話して置き先生と塩原へ行く為石鹸箱や化粧品を買って準備して居た位でしたが、先生は誠意はあるが女の気持ちを察して呉れ[ない人で手紙一本呉れ] るでなし会った時せめて手紙を下さいと云ふと「お前は噓八百でも手紙を貰へば嬉しいのか、俺は五年、十年別れて居ても決して忘れないのだから本当の気持ちを信じて呉れ」と云ひ我慢しなければならないと思ひますが、それでも頼りなく遂ひに浮気する様になったのです。
四月二十三日朝、石田と家出する時も待合で石田と流連※11する気持ちはなく、一寸相談したら直ぐ帰る心算でした。二十五日[に] は吉田屋に八十人位の宴会があり、二十六日には或るお屋敷からお手伝ひを頼まれて居たのでお内儀さんからも二十五日迄には帰って[来て] 下さいと云はれて居り、石田も忙しいことを知って居たのですから石田とても恐らく直ぐ帰る心算だったと思ひます。 [吉田屋では私が荷物を纏めて持出したから、是は石田と家出する考へであつたに違ひないと云ひますが、当時私は前から五月一杯で暇を貰ふと云つて居たのですから、少し早い目に暇を取つても左程迷惑はかけないだらうと思ひ、石田と相談したらすぐ帰り改めて暇を取る考へでしたから、取敢へず荷物を纏め稲葉方へ送つて置くため手荷物として鶯谷迄出して置いたものです]
問 石田と家出後被告の行動は。
答 四月二十三日午前八時頃、渋谷の待合「みつわ」に行ってから※12 料理をとり、石田とゆっくり話合ひましたが、その時石田は昨晩オトクにゴテゴテ云はれたが女中が云ひつけたらしい、お前だって居辛いだろうから今月末に暇を取った方がよい。実は俺の家は電話が担保に入れてある位で今直ぐと云ふ訳には行かないがお前には小さい待合でも持たせて末長く楽しまう、と云ひますから私は「あんな良いお内儀さんがあるくせに私見たいなものをそんなにまでどうして思ふのですか」と云ふと「オトクは色男を拵らへ一年も家出した女だが子供が可愛いばかりに家に戻したのだ。如何に男が浮気でも女房に男を拵らへられたら腹の中がにえくりかへる様で本当の愛情は持てるものではない。俺は実はお前が来た時から好きだった」と云って呉れたので「私だって好きだわ」と石田に抱き付きました。
ここで石田のお内儀さんとの夫婦仲についてお話したいと思ひますが、お内儀さんは[石田が女に五月蠅い亭主だからそれを警戒するためからかも知れませんが]私達に折に触れて数へ[云ひ]切れない程石田の悪口を聞かせました。
例へば石田は女道楽で六年間も女を囲っておき或る時、お内儀[さん]が[妾の所に行き]塀を乗り越えて這入ると二人は真裸に重なって居たとか、十二社※13の待合に石田を迎えに行った時[石田が妾と別れるとか別れないとかの事で十二社の池を血で染めると云い芝居もどきで蛇の目傘を差し]妾の洗髪を[女の洗髪を] 嚙み[女を]引っ叩いて居たとか、石田は女には好かれるかも[かは] 知らないが意気地なしで男の中に出て一人前に喋れる男でないとか、犬畜生の様に云って居りました。
又、[或る時等は]お内儀さんが病気で[二、三日寝た側で]私が看病した時、[して居ると] 矢張り石田のことを「あんな男は亭主に持つ男ではない。薄情で女好きで」と、くさして居ました[居たこともあります]。もっとも石田はお内儀さんが病気で寝て居るのに家へ芸者を呼んで[は]飲む様なことをして居たのです[居たからです]。
私はお内儀さんから石田の悪口を聞くと[聞いても何とも思わず]却ってお内儀さんを「亭主の悪口を云って馬鹿だなあ」と思って居 [り]ました。私は浮気で石田と関係したのですが石田の夫婦仲が左程よくない所へ、[石田が]お内儀さんが知らないらしい電話担保の内情迄[私に]打明けたのでそれ程自分を思って呉れるのかと段々石田に惹き付けられたのです。石田は私に旦那があるものと思ひ込んで居り「お前の旦那だって大した事はないだらう。何とか仕様じゃないか」 [と]云ふものですから私は「うん」と云ひました。石田はその日「みつわ」で私に「今日は結婚式だから一杯飲まう」と云ひました。ところがその時 [も頸に]禁酒[という成田様] の御札を下げて居ましたから「それでも貴男は酒を断って居るでせう」と云ふと「今日はお前と一緒になるのだから飲むよお前にこれを遣る」と[云ひ]御札を私に渡し後で「二人が[渡し「後で二人が]成田様へ謝りに行けばよい」と云って居りました。
話は[が]多少前後しますが私と石田が「みつわ」に行きくつろいだ当時、私は未だ石田に対し他人行儀にして居り「旦那」と呼んだ処石田は [片膝を立てゝ坐つて居り様子の良い姿で] 「二人丈の時旦那なんて云ふなよ」と前から考へて居た様な甘い事を云ふので、最初から私は参ってしまひました。酒を飲みながら一時間か二時間そんな事を話合った末寝床に這入り、久し振りにゆっくりした気分に浸りましたが、私は案外石田はたっしゃ[巧者]な男だなと思ひました。
実際、私が今迄に接した数多く[数多] の男の中で石田は一番情事が濃厚で上手でした。情交したり互いにいじり合ってから寝床で石田は「今日は二人の結婚式だから二十三日を記念する為め芸者を呼ぼう」と云ひましたから私も[それは面白いわと]賛成し、早速、芸者を呼んで貰ひました。 [石田はどんな考へであつたか知りませんが]私としては[此儘では何時迄も寝てしまひ帰れなくなりますから芸者を呼べば自然と起きだし帰る機会が出来るし] 二時間位芸者を揚げてから食事[を]すると、丁度六時頃になり帰る[に]都合がよいと思ったのです。
[石田はドテラのまゝでしたから]私は一風呂浴びて仕度してから二階の客間に行き芸者と騒ぎ、芸者が帰り御飯が出たので食事を仕様として居ると [女中は]「旦那は下で寝て居ます」と云ふのでやれやれと思いながら又寝間に戻り寝て居る石田に「もう六時だがどうする」と云って顔をすりつけると石田が引張り込み[込んだものですから]仕度も解かずその儘ズルズルと寝床に入り、又、石田と寝て仕舞ひました。
それから二十七日の夕方まで居続け、寝床は敷放しにし昼となく夜となく情交し、芸者を寝床に迄呼んで酒を飲み乱痴気騒ぎをして居りました。※14
「田川」で二十八日も芸者を呼び※15二十九日の朝迄寝床を敷いた儘、夜も殆ど寝ずに猥褻の限りを尽して遊び暮しました[が]。
[私が迚も疲れたと云ふと]石田は私と情交してはその儘居眠りし[な]がらも私の身体を擦って呉れると云ふ親切振りで、全く[私は] 生れて初めて女を大切にし喜ばして呉れる男に出会ったと思ひ惚々し、益々離れられなくなりましたが金がなくては何時迄もこうして居られませぬから大宮先生の所へ行き、金を貰って来ようと思ひ石田に金の工面をして来る[が東京では出来ないから]、名古屋迄[行く名古屋迄] 行けば五十円位何とかなると思ふが待って居られるか、と聞くと[石田は]待って居ると云ひました。 [若しオトクさん(お内儀さん)が迎へに来たらどうするかと云ふと其時はどうともと云ひますから無理もないと思ひ夫れでは行つて来ると云ひ]女将には自分が帰る迄石田を帰さないで呉れと頼んで二十九日午前七時頃「田川」を出て[知合の浅草区]柳橋の[芸妓屋] 「歌の家」方芸妓山ふきん※16を訪ね十円借りて旅費にし、名古屋に行き駅前の清駒館※17から先生に電話しましたがその日は会へず、黒川加代と云ふ名で其処[其旅館]に泊り、[其事を特別配達の手紙で石田に知らせて置き] 翌三十日午後一時頃、南陽館で先生に会ひ一時間位話して直ぐ帰りましたその時先生に実は今迄隠していたが自分にはゴロツキの情夫があり、吉田屋に暴れ込み復縁を迫って来たので吉田屋の主人が仲に這入って呉れたが二百円出せば大連に行くと云ふから何も云はず百円下さいと出鱈目を云ひました。
すると遣るのは遣るが今百円しかないから之を持って行け、後は五月五日に上京するからその時渡す、と云ひ百円と旅費十円とを呉れなお「お前はその男が好きなら遠慮せずに一緒になれ」と云ひましたから私は「その位なら金を取りに来ません」と云ひました。
実際、私は石田の為に[ばかり思つて]先生を捨てると云ふ気持ちはなく、先生は先生として慕って居りました[が石田にも充分惚れて居りました]。 三十日名古屋から帰りの汽車中、午後五時頃静岡で石田に「八時東京駅着く」と[云ふ]電報[を出]し[八時半頃]東京に着くと[着き] 電話で石田に「疲れたから神田駅迄迎ひ[へ]に来て貰い度い」と云った処、石田は三十分位すると神田駅に着きました。 [私が名古屋へ出掛けてからも石田の事が片時も頭から離れず名古屋の清駒旅館に着き泊る事になつた時石田へ手紙を出さうか出すまいか手紙を出さない為帰る様な男なら跡を追つても詰まらないから手紙を出すまい等と考へたが矢張り石田恋しさの余り手紙を出した様な始末で旅館に一人泊つた時も石田を想ひ淋しくて寝られずビール二本飲んで寝た位でした大宮先生に会つた時も先生に申訳ないと思ひ乍ら殆ど石田に心を惹かれて居り早く帰りたく午後三時の特急に遅れると六時の普通列車になつてしまうと気が急いて仕方がなかつた所が先生が風呂に入らうと云つたのでがつかりしましたそれでも先生が自動車で送つて呉れたので三時の汽車に間に合ひましたが汽車中でも早く帰つて石田に嚙り付きたい様な気がしてならず自分でもこんなに石田に惚れて居るのでは仕様がないから一層石田が留守に帰つて呉れた方がよい留守中帰れば口惜しい事は口惜しいがあきらめがつくと思つた汽車が静岡に着くと石田を思ふ気持ちが押さへ切れず電報を打つたり色々我慢して待つて居つて呉れたと思ひ自分の気持ちがからりと変り石田を思ふ一念の外何もなくなつてしまひました] 石田に「淋しかったでせう」と云ふと「淋しいのは良いが女将が来て……」と話しを濁しましたから之は大抵勘定の事だらうと察し、そんならもう行くまいと云ひ、石田が荒川区の尾久※18に知人がいるから其処に行こうと云ふので円タク※19で尾久に行き [ましたが「みつわ」から吉田屋へ勘定の催促したかも知れず催促したとすれば知合の所へ手を廻したと思ひましたから]、[二人で]ブラブラ歩き尾久町四丁目一八八※20待合「満左喜」※21が感じが良さそうであったから其処[所]へ這入りました。それは十時半頃です。
「満左喜」で石田に「田川」へ行くと云って出て来たかと聞くと「具合が悪いと云ふから迎えに行って来る」と云って出て来たと云ひましたから吉田屋へ電話をかけられては困ると思ひ、「田川」へ今晩は都合で帰れないが吉田屋には知らせない様に、と電話すると「絶対知らせないから帰って呉れ」との事でした。「満左喜」に[で] 泊った三十日の晩は二人が二日一晩離れて居たので寝ると続けて二度関係しましたが、私が旅行した間、石田は一人で「田川」に寝て居た為眼が冴えて居り、私が疲れて寝るとからかったので冗談に石田の手首を腰紐でしばると石田は子供の様に喜んで縛られた手で私をくすぐったりして矢張り碌々寝ずに巫山戯て[居り夜] 明方から五月一日の夜まで食事もせず酒を飲んでは関係して居りました。その間、別に真面目な相談もせず冗談に「お前と一緒になればきっと俺は骸骨になる」と云って居りました。
待合「田川」から[も]勘定[も]せずに出た訳ですから五月一日夜十時[過]頃「満左喜」の勘定二十円位を払ひ、円タクで又[二人]多摩川※22の「田川」へ出かけ途中、 銀座[藤屋]で菓子を買ひ土産にし ※23十一時「田川」に着き前[晩]の勘定八十円だとの事でしたが内金五十円と御祝儀二十円[と]を払いその晩から三日の夕方まで居続けて居りました[所が]。「田川」の女将は[「田川」は女将が][元中野区新井町で芸者屋をして居た頃石田が贔屓した事があり] 吉田屋と懇意な間柄である事を知って居りましたから吉田屋から電話が懸って来る様な気がして落付きませんからその時の勘定は五、六十円になると思ひましたが※24五月三日午後七時頃、女将には勘定は六日に持って来るからと云ひ貸して貰ひ其処を出ました。
当時、金は二十円しか持って居りませんでしたが、[どうしても別れる気になれず]五日[には]大宮先生に会ふ約束になって居り[ますから]金が出来ると思ひ、石田に又尾久へ行かうかと云ひ途中、新宿の蟹料理屋により一杯飲み円タクで其晩十時頃「満左喜」に行きました。
石田は此処は知らない家だから何とかしなければならないと考え込んで居りましたから「一日二日の内に何処かへ行って借りて来るから」と五日の夕方迄寝床を敷放しにして入浴もせず、矢張り情事の限りを尽して居りました。その間私が自分の鋏で石田の爪を切ってやると石田はお前の指を噛み切ってやりたい等と [等] 云ひ私が石田の陰毛を十本位鋏で切ったりオチンコを摑んで切る真似をしたりすると石田は馬鹿な事をするなと云ひ喜んで笑ひました。石田は私がその様に巫山戯ると何時もとても喜ぶのです。
大宮先生と五月五日の昼頃新宿の明治屋旅館で会ふ約束をして置きましたが、石田と巫山戯て居る内夕方になってしまひ大急ぎで午後七時頃明治屋※25へ行くと 先生は留守で暫くすると帰って来ました。先生は「昼間会ふ話だのにどうしたか、俺は四時間も待って居たが来ないから夕食して来た」と何時もは酒を飲まない人ですが少し酔って居ました。先生が男の事を聞きますから 尾久の高橋と云ふ方面委員※26に預けて来た男と一緒に居ると出鱈目を云ふと、別れ様と云ふ男と一緒に居るのは随分不思議だが男と関係して居るとすれば今夜は関係しない方が良いだろうと云ひました。
私は「うん色々こじれて居るから気分が出ない」と云ふと先生は「それでは金をやるよ」と云ひ百二十円呉れました。当時、私は石田と流連して居た為、頬はやつれて仕舞ったので先生はその疲労した様子を見て「お前はもう一度草津へ行った方がよい」と云ひ銀座で一緒に夕食仕様と出掛けましたが道を歩きながら、「今年の暮に千円やるが何か商売をやるか」と云ひましたが、私は別れるのは厭だと云ひました。
銀座のオリンピック※27で食事をし先生がコーヒーを飲むかとか胃腸の薬があるから飲めとか、色々親切に云って呉れて[トル]ゆっくり仕度い様子でしたが[らしかつたが]石田の事ばかり考え 「早く帰らなければ工合が悪いから今日はこれでお別れします」と云ひ十五日迄には男の[方の]片を付ける、その日[に]東京駅で会ふ[と云ふ] 約束をしてその際は先生と手一つ握らず別れました[が]。何だか先生に気の毒でなりませんでした。
五日夜十時頃「満左喜」に帰ると石田は寝て雑誌を読んで居りました。私が二時間か三時間留守にし[て]た丈で石田は元気で[の元気は] とても猛烈になって居た為、その晩は[も]寝ずに関係し先生のこと等すっかり忘れて仕舞いました。[当時]「満左喜」から稲葉[の家]へ電話をかけて見ると 吉田屋から稲葉方へジャンジャン電話で私達の行先を問ひ合せて居る事が判りましたが私も[は勿論]石田も平気になって仕舞ひ[仕舞] 、今になれば仕様がない、どうせ厭な事を云はれるならうんと面白い思ひを仕様と思ひました。この様にして五月六日の晩迄遊び暮して居りましたが、こんな事をして居ては何時迄も互に別れられず金も続く訳がないから仕方がないと考へたので行末に付石田と相談しました。石田も私が二度も外出して金を工面して来たので何れ男から貰って来たと思って居るらしく引け目を感じ気の毒に思って居る様子で、家に帰れば何とか都合してお前に返すと云って居りましたが私が相談すると、これ以上お前に金を使はせる訳には行かない、又お前に持合せを出させるにしても一旦帰宅して[し] 家内の御機嫌を取り工合よくして置かなければならぬから一旦帰ろうと云ふことになりました。
丁度その晩はしとしと雨が降って居る処へ辛さを忍んで一時別れ様と云ふ相談ですから私は[お内儀さんの処へ帰らすのかと思ふと]口惜しいやら [悲しいやらで]泣けて仕方なく、石田も泣き実に恋の愁嘆場でした。私は[今度] 石田が帰宅してもお内儀さんに良い処を遣らせまいと思ったので石田と関係し続けて二度も気を遣らせました。それから祝儀[共]七十円位の勘定を「満左喜」に支払い、番傘を買って貰ひ、私は[「満左喜」から]下駄を借り石田は長靴を穿き二人相傘で六日夜十時頃[「満左喜」を出た処]全く珍無類の恰好をして ※28、「満左喜」を出てからも別れの辛さにぶらぶら歩きましたが、此儘別れる気になれなかったので途中円タクを拾ひ浅草に行き公園を歩き、別れの盃を仕様と云って野田屋で一杯飲み丁度十二時の看板で[になり] 追ひ出されたので私はとに角どっちにしたって別れなければならないから私は稲葉方へ行くが貴男は家へ帰った方がよいと云ひ、ぶらぶら出た事は出ましたが、矢張りそれなりに[それなり]別れられず浅草の[お]汁粉屋「梅園」 ※29でソーダ水を飲みぶらぶら歩いて柳橋※30の方へ行き橋の袂にある小料理屋に寄って[よつて] 又一杯飲む内午前二時になり、矢張り看板で追ひ出され橋の辺を彼方此方情な[さ]そうにぶらぶら歩きました。
私は何時迄経ってもどうせ別れ切れないから中野迄帰らうと云ふと石田はそうして呉れと云ひましたから円タクを拾って出掛けると三時過ぎ頃途中巡査に咎められました。※31石田の家付近迄 行きましたが私は一人寝ると又咎められるから厭だと云ふと石田は「では新検※32の待合で お前泊っちめえよ」と石田に送られ中野町※33の「関弥」と云ふ待合に行きました。
二人が二階で一時間位ビール※34を飲んでさあ別れるとなると又石田は帰りそびれキッスしたり[一寸]いじり合ったりし[て] 、石田は私に「玉寿司へ話をして置くから、二、三日してから電話を掛けて呉れ、都合よい日に会ふ」と云って一旦降りて行きましたが又直ぐ戻って参りましたので私は直ぐ[起きて]石田の着物を脱がせてやり一つ床に這入り、朝迄関係したり巫山戯たりして居ました。
「何時迄そんな事をしていても切りがないからとも角[も]家へ帰りなさい」と朝九時頃十円札一枚懐中へ入れてやり自分は自動車で白木屋※35に行き土産物を買い、十二時頃稲葉方へ行きました。
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※1実際はチップが四十円位頂けました=この文章からみると、30円+40円で70円の月収に思えるが、公判の様子を伝えた新聞報道には、「お定が吉田家の女中としての生活及び月四十円の収入のあつたこと等を明かにしてから」(昭和11年11月26日付時事新報)とあるように、阿部定の平均的な月収は40円だった可能性がある。すると新聞報道を生かした自然な供述としては、「実際はチップがあり四十円位頂けました」となるのではないか。予審調書を書き写した人間が「あり」を書き落としたのかもしれない。 ※2頸を=ほとんどの予審調書が「頸」あるいは「頚」となっているが、「訊問事項」版だけは「顔」となっている。「額」ならともかく、顔や頸をつつくのは不自然ではないだろうか。似た文字なので、書き写し間違いの可能性がある。 ※3膝で=「ひじで」と平仮名にひらいている予審調書が多いが、この「別冊新評」版と「訊問事項」版では「膝で」となっている。肘(ひじ)で尻をつつくを採用した場合、阿部定が立ち、石田吉蔵が座っているというような位置関係が考えられる。座っている石田吉蔵のそばを阿部定が通り過ぎたとき、石田吉蔵が「肘」で阿部定の尻をつつくというわけだが、この場合には、むしろ手で触るほうが自然で、肘でつつくというのは、少し無理がある。 「膝」でつつく場合は、立ち働いている阿部定の背後から、石田吉蔵が膝を曲げてちょいちょいと尻をつつくという光景が想像され、そのほうが自然ではないかと思う。 ※4つねり=他の資料では「ツメり」とするものもある。「抓り」と漢字書きになっている資料もある。ちなみに「つめる」は抓るの関西方言で、「つめくる」ともいう。関西方言とすれば、取調べ中にしばしば関西弁で応じていたと思われる阿部定の口調が、そのまま調書に生かされたと見られる。 ※5御内儀さん=ここまで「お内儀さん」という表記なっていたのが、ここのみ「御内儀さん」となっている。以降は「お内儀さん」に戻っている。 ※6お加代さん=第一回訊問では「オカヨ」となっているが、なぜかこの箇所以降は「お加代」に変わっている。担当の書記が変わったとか、さまざま考えられるが、理由は不明だ。 ※7喉が良く素敵=「喉は良い素的」とする資料もある。 ※8帳場=「帖場」とする資料もある。 ※9渋谷丸山町=「渋谷区円山町(しぶやくまるやまちょう)」の誤りだが、なぜかどの資料も同じだ。円山町は道玄坂(どうげんざか)の先にあり、今ではラブホテル街。1997年3月19日の東電ОL殺人事件の舞台となった。 ※10「みつわ」=当初は「三輪」とした新聞報道(昭和11年5月20日付報知新聞)もあったが、予審決定書では「みつわ」となっている。住所は、新聞報道及び判決文に従えば、東京市渋谷区円山町八十五。 ※11流連=りゅうれん。「いつづけ」とルビをふる場合もある。「連日遊興にふけり、帰宅しないこと。居続けること。居続け」(学研国語大辞典) ※12四月二十三日午前八時頃、渋谷の待合「みつわ」に行ってから=この文章からでは、午前八時頃に「みつわ」に行ったように誤解してしまうが、前段の供述(石田と示し合わせた通り四月二十三日午前八時新宿駅で落合ひ、渋谷の待合「みつわ」に行きました)との整合性をとるなら、まず午前八時頃に新宿駅で落ち合って、その足で「みつわ」に行ったということになる。 ところが精神鑑定書では「四月二十三日朝、石田ト牒シ合セテ家出シ、渋谷ノ『ミツワ』ニテ落合ヒ」とあって、まるで「みつわ」で直接待ち合わせたかのように書いてある。これは予審調書の記述と若干矛盾する。また、判決文には、「両名諜し合せ、同年四月二十三日朝相次いで家出し、爾来同年五月七日迄十数日間同市渋谷区円山町八十五番地『みつわ』外、市内数個所の待合に転々流連し」とだけしか書かれておらず、落ち合った時刻について、言及されていない。 精神鑑定書でも判決文でも、「朝八時」という具体的な時刻を明示しなかったのは、ひょっとして、新宿で待ち合わせた時刻と、「みつわ」に行った時刻が同じになっていることに気づいたため、整合性がとれなくなり、あえて言及を避けたとも考えられる。 ちなみに堀ノ内雅一の『阿部定正伝』には、四月二十三日の行動として、「吉蔵と示し合わせたとおり、新宿駅で落ち合ったのは朝の八時のことだった。二人はそのまま渋谷の待合・みつわに直行し、料理を頼んで水入らずの時間を過ごす」とある。 また、当時の新聞にも「新宿から渋谷の待合『みつは』に行き酒を飲んでゐるうち」(昭和11年5月21日付讀賣新聞夕刊)とある。新聞の記事は、警察が発表した内容に依っているわけで、その警察発表は、阿部定がそのように自供したからにほかならない。ところが、予審調書も、それをもとにしたと思われる精神鑑定書も、新宿から「みつわ」までの移動を記していないのはどうしたわけだろう。これは予審調書を書き写した者が脱落させたデータではなく、本物の予審調書自体にあった脱落であろうと思われる。でなければ精神鑑定書も同じ脱落をするわけがない。 新宿から渋谷までは、現在では電車なら10分以内で行ける。事件当時の交通事情でも15分以内に行けたことだったろう。渋谷駅から「みつわ」のあった円山町までは、歩いて10分くらい。すると、八時半くらいには二人は「みつわ」に到着できた計算になる。 すると、最初の本物の予審調書自体に、たとえば「四月二十三日午前八時半頃」という具合に「半」という一文字が脱落していたとも考えられなくはない。ただし、これは単なる推理である。 ※13十二社=じゅうにそう。現在は、都庁からワンブロック離れた西新宿四丁目あたり。江戸時代からの清遊地で、周辺に歓楽街があり、昭和40年代までは、地名も残っていたが、浄水場も埋め立てられ、今では場所を知る人は少ない。 ※14芸者を寝床に迄呼んで酒を飲み乱痴気騒ぎをして居りました=このときの様子について、新聞報道では、「待合『三輪』で飲めや唄へやの情痴の限りを尽くし廿七日まで流連し遊興費は百二十円に上つた同待合でも吉田家の主人とわかつてゐるので、三十円程払つただけ」(昭和11年5月21日報知新聞)とある。 また「みつわ」の女中の証言によると、二人の様子は、「毎日一時間くらいずつ三回ばかり芸者を取りかえて遊び、酒を飲んでよい気持になると寝床に入り、外出せず、ぶっ通しで寝たり起きたりしていました。料理はろくに取りませんでしたが、酒は毎日、十五本から二十本も飲み、ビールも飲んでいました」(岩川隆『殺人全書』)という。 ※15「田川」で二十八日も芸者を呼び=ここで「みつわ」の話が終わって、唐突に「田川」の話になっているのは奇妙だ。このため「みつわ」から「田川」へ移動した時刻が不明になっている。その点は、どの資料も同じだ。ところが、精神鑑定書では、「同月二十七日夜八時頃迄同家(「みつわ」のこと=筆者註)ニ流連シ、同十時過ギヨリ二子玉川ノ待合『田川』ニ移リ」とあって、「みつわ」を出たのは4月27日午後8時頃であり、その2時間後の午後10時すぎに「田川」に移動したと説明されている。 精神鑑定書を信用するなら、前段には「みつわ」には「二十七日の夕方まで居続け」たとあるから、そのあと数時間して「田川」に移動したと考えられる。 すると、この段落の前には、たとえば、「そのあと夜十時過ぎに二子玉川の『田川』に移り」といった文章入らなければならないことになる。つまり、経過説明に欠落があるのだ。いろいろな待合の名前が出て、しかも「二人多摩川」と読み間違えてしまった「二子玉川」が再度登場するという複雑な要素を持つ文脈なので、書き写した者が、頭の整理がつかなくなり、ワンセンテンスほど脱落させてしまったことも考えられないではない。 ちなみにこの「田川」での二人の様子について、「二子玉川の待合『田川』の女将も、『二人は、疲れると眠り、眼が覚めると酒を飲む、というぐあいで、ぜんぜん外出もせず飯も食わず湯にも入らず、顔も洗いませんでした』と言う。ひと眠りして元気が回復すると、抱き合い、愛撫し合い、汗まみれになる。さまざまなニオイがしみついた布団を換えることもしない。この女将によると、『私がいるのもかまわず、寝ている男の布団をまくって、男のものを舐めて平気な顛をして、また酒を飲むのです』という。呼ばれてきた芸者も、『お定さんはいきなり布団をまくって、小さくなっている男のおちんこをちょっと舐めては平気な顔で酒を飲んだり、キスしたり、頬を舐めたりしていました。私が三時間くらいお座敷にいるあいだ、二、三度、おちんこを舐めました』と証言している」(岩川隆『殺人全書』)というから、大変なものだったようだ。 ※16芸妓山ふきん=他の資料では「芸妓山子さん」となっている。「山子」という源氏名はちょっと奇妙だがありえない名前ではない。すると「きん」というのは、手書き原稿の「さん」を読み間違えたものか? しかし「昭和11年の女」版では、なんと「芸妓山子きん」となっている。「山子」を無理に「やまね」と読めば、「やまね・きん」という名前になる。ともあれ、これが手書き文字の読み間違いとすると、「ふ」は「子」と読むよりも、「古」の崩し字(「志」という字に似ている平仮名の「こ」の変体がな)かもしれない。 もっと大胆な推理を許してもらえば、「山」の次の字は「々」かもしれない。「山々」と書いて「出」と読ませる。「山復山」「山+山」の洒落だ。かつて警察では、なぜだか知らないが調書などで「出」という漢字を「山山」とか「山々」書く捜査官が時折いた。「ん」は「人」の読み間違いで、「さ(き)」の処理が困るが、「の」を読み違えたとすると、「芸妓出の人」となるが、これもうがちすぎだろう。ともあれ解けない謎だ。 ※17清駒館 =「清駒旅館」を縮めたのか? それとも単に「旅」という文字が脱落しただけか。ほとんどの予審調書が「清駒館」となっているが、「訊問事項」版だけは「清駒旅館」となっている。予審調書では、なぜかしばしば言葉を縮めている。書き写したものが、よほどの不注意者だったのか。固有名詞を縮めて話すのが阿部定の口癖だったとしても、調書の性格からしてちょっと解せない。 ※18荒川区の尾久=あらかわく-の-おぐ。荒川区は、北豊島郡に属していた南千住町、三河島町、日暮里町、尾久町の4町が合併して昭和7年に誕生した。尾久は、現地では昔から「おぐ」と読んでいたが、公式には「おく」で濁らない。 尾久町(おぐまち)は、上尾久村、下尾久村と船方村(ふながたむら)の一部が合併してできた尾久村が、大正12年4月1日に町制を敷いたもの。大正3年頃にラジウム鉱泉(尾久温泉)が湧いたことを契機に発展し、芸妓屋地域の指定を受け二業地から三業地へと発展していった。大正12年には「新興の尾久町」と呼ばれ、温泉旅館14軒、料理屋29軒、芸妓屋28軒の規模に膨らみ、昭和4年には芸妓屋59軒を数えるまでになった。が昭和4年発行の「花柳總覧」では、尾久三業地の等級は二(一と二しかない)だったという。芸妓屋の数では、新橋264軒、浅草284軒、赤坂143軒で、尾久は三業地としての規模も格も二流以下と言えた。事件当時の規模は「待合廿九軒、藝妓屋六十九軒、二百人の藝妓」(昭和11年5月21日付讀賣新聞夕刊)となっていて、やはり二流どころだった。 しかし、阿部定事件によって思わぬ反響があり、「正木屋で発生したこの猟奇事件は尾久三業の名を一躍世間に紹介したばかりでなく、かえって地元では『お定景気』と称されるほどの好景気を生んだのであった」(「尾久の民俗」荒川区民俗調査団編 荒川区教育委員会発行)と突如バブルに見舞われたが、その後、各種の工場展開にともなって地下水が汲み上げられた影響から温泉が枯渇し、それとともに次第に衰微していった。 ※19円タク=「市内一円」の料金札をかけて走っていた流しのタクシー。原則的には市内なら一律1円だったが、あまり遠くでなければどこでも1円で行った。ちなみに、この事件の前年である昭和10年の大卒初任給は90円だった。 ※20尾久町四丁目一八八=実際の当時の番地は「東京市荒川區尾久町四丁目一八八一番地」だが、「訊問事項」版だけは「一八一一番地」と明らかな誤植となっているほかは、奇妙なことに、ほとんどの「予審調書」が「一八八番地」となっている。この書き誤り方に、ちょっとした謎が含まれている。 まず、本物の予審調書では、たぶん判決文と同じく「千八百八十一番地」と書かれていたはずだが、これを書き写すときに、「一八八番地」とは書き損じにくいことだろう。なぜなら「千」という文字が頭にきているので、容易に四桁の数字を頭に浮かべるため、三桁であれば、間違いにすぐ気づくはずだからだ。 一方、元の資料が「一八八一番地」と書かれていた場合には、それを見ながら書き写す際には、最後の「一」を欠落させる可能性のほうが、「千八百八十一番地」という文字を見ながら書き写すよりも高い。つまり、「一八八番地」と書かれている予審調書は、最初に本物の予審調書を書き写した資料、要するに第一世代の資料をもとにしたのではなく、その第一世代の資料をもとに、まったくの別人が新たに書き写したもの、つまり第二世代以降の資料をもとにしたものと考えるほうが妥当だ。そして、その第二世代の資料、つまり現在まで刊行されているほとんどの予審調書のもとになった資料を刊行した者は、数字の表記のし方からみて、法曹関係者や警察関係者ではなく、新聞関係か出版関係の人間であった可能性が浮かび上がってくるのだ。 ※21「満左喜」=当時の新聞報道では「まさき」あるいは「まさき家」。後年、「満佐喜」と書く人も出てきた。もともとは変体仮名なので、漢字で書くよりは、当時の新聞報道のように「まさき」と平仮名で書いたほうが、実際的だろう。阿部定事件の裁判長だった細谷啓次郎の『どてら裁判』(森脇文庫)は、わざわざ特別に変体仮名の活字を植字している。ちなみに、尾久三業地での屋号は「正木屋」(「尾久の民俗」)のようだ。なお女将の名前は「正木しち」あるいは「正木志ち」と当時の新聞の多くが報道しているが、中には「正木しげ」とする報道もある。 ※22=前述したように、ここも「二子玉川」の書き写し間違いだろう。 ※23銀座[藤屋]で菓子を買ひ土産にし=「藤屋」とは「不二家」のことか? 昭和11年当時は、大正12年開店の銀座6丁目店があり、シュークリームが有名だったから、ひょっとしてシュークリームでも買ったのかもしれない。 ※24その時の勘定は五、六十円になると思ひましたが=「芸者十名をあげて五十円程の借金を残し」(昭和11年5月21日付報知新聞) ※25明治屋=「明治屋旅館」を縮めていったのだろうが、このために、読み手としては、まず劇場の「明治座」との混同を生じたり、「明治屋」が喫茶店のように思えたりする誤解も生じやすくなっているのは、困ったものだ。 ※26方面委員=ほうめんいいん。公の機関に代わって生活困窮者を救護する事務を担当するため大正6年ごろから地域に登場し、昭和11年に制度化されたが、昭和21年に民生委員として生まれ変わった。 ※27銀座のオリンピック=店は現存せず、どんな施設か、またどこにあったか場所も詳細不明。ただし、この店名の由来は、たぶん、昭和11年7月に1940年の東京オリンピック開催が決定される直前だったからか、あるいは前回1936年のベルリンオリンピックが華々しく報道されたことが考えられる。 ※28全く珍無類の恰好をして=そのときの二人のスタイルについて新聞報道には、「女が盛装してゐるのに男はゴム長靴に汚い着物といふ魚河岸に買出しにゆく姿だつた」(昭和11年5月21日付讀賣新聞夕刊)とある。まさに弥次喜多珍道中と言える格好だ。石田は中野の店を出奔するとき、魚河岸へ買出に行くように装ったのか、そんな格好をしていたのだろう。 ※29梅園=うめぞの。台東区浅草1丁目。安政元年創業の老舗の甘味処。 ※30柳橋=やなぎばし。東京には柳橋という地名はいくつかあるが、ここでは浅草の柳橋をさす。 ※31途中巡査に咎められました=かつて「おいこら警官」という言葉があった。明治時代に薩摩出身の警邏巡査(けいらじゅんさ)などが「おいこら」と呼び止め職務質問などしたからだ。そうした威張った警官の存在はかなり長くあったことと思う。阿部定たちも、きっと、そんな「おいこら警官」に呼び止められたのだろう。 ※32新検=しんけん。新検番(しんけんばん)の略、つまり新しくできた検番(見番)のこと。検番とは、遊里や色里などで芸者屋の取り締まり、玉代の精算、芸者の客席への取り次ぎなどをおこなっていた。 ※33中野町=なかのまち。当時は東京府豊多摩郡中野町(現在は東京都中野区)。太宰治の『ヴィヨンの妻』(1947年)や辻潤の著作に、中野がまるで地の果てのように書いてある理由が頷ける。中野町には桃園や打越などの地域があり、現在の中野5丁目付近。中野駅北口のサンモール(かつての北口美観街)に向かって右側に少し入った地域を含んでいた。 ※34ビール=当時のビールはたぶん、いまの大瓶と呼ばれるものだったと思われる。その容量はメーカーによりまちまちで、現在の633ミリリットルに統一されたのは昭和15年だから、阿部定が当時飲んだのはどんなビールだったか確定できない。小瓶(334ミリリットル)の歴史は、まだ調べつくしていないが、中瓶(500ミリリットル)は昭和30年からなので、このときの阿部定は飲めない。 ※35白木屋=しろきや。日本橋にあったデパートの名前。有名な白木屋大火は1932年のことで、阿部定事件の4年前になる。 |