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第三回訊問

問 娼婦を廃めてから何をして暮して来たか。
答 その時から女給をしたり高等淫売※1したり、妾になったりして、昨年七月まで大体淫売生活をして居りましたがその間には一時男から遠ざかって、女中[トル]したり田舎へ帰って親の世話をした[りした]事もあります。
問 では被告が淫売生活をして居った時のことを詳しく述べよ。
答 丹波の篠山を逃げて神戸に住んで[住つて]からは吉井信子と名乗って二週間ばかりカフェーの女給をして居[り]ましたが前借のこともあるし小遣にも困り[ましたから]、何とか[して]金が欲しいと思ひ[其]店に来た客に月百円の収入ある商売はないかと聞いた処客がよい商売がある遊んで居て気が向いてから商売を始めろと云ひました。その男は高等淫売の客引をして居る人だったのです。大体その見当はついて居ましたから今更堅気になっても追付きませんから私もその気になってその家に行き二月ばかりブラブラ静養しながら高等淫売を始めました。所がその主人は私の稼ぎ[高]から今迄の費用を採り、なお、頭をはねるので仕打がヒドイから三月位[の後]商売を止め、昭和七年二十八歳の時今度は大阪に移って同じ商売をしましたが間もなく淫売を止め一年[間]ばかり妾をして居[トル]ました。その間、相手は三人変り[ましたが]毎月百円から五六十円の手当を貰って居[トル]ました。この時から情事に快感が湧き一人寝は淋しくてなりませんでした。※2妾では旦那の来るのが月五、六度位なので淫売当時の好きな客二人ばかりとも時々関係して居りました。金も容易《たやす》く入ったし暇もあったのですから遊蕩的になり、暇に任せて麻雀したり、宝塚へ遊びに行ったり、道頓堀へ出掛けたりして浮かれて居りました。賭博の事で警察に検挙されたのは此頃[のこと]です。
 そこで謹慎する気になり小遣も四百円もありましたから妾を止め、一人で大阪の住吉アパート※3を借り、本等[を]読んで一月半位静かに[静に]生活して居ましたがどうしても男に遠ざかると気がイライラするので、当時医者に診察して貰った事がありました[所が]。医者は別に異状はない、左様な事は人間として当然ある事だから独身より真面目な夫婦生活をするがよい、又、難かしい精神修養の本を読んで気分を転換しなさいと云はれました。
 [其内又遊びに出掛けて麻雀等を始め好きな男が出来ましたから]二十八歳の秋頃、大阪で横浜の知人に会って両親が[私を]心配して居ることを聞き、急に帰り度くなって冬まで三月ばかり田舎の両親の下に帰り――十九字不詳――[此時生れて始めて孝行をしました。親には]大阪で大変[トル]良ひ人に世話になって居ると噓を云って安心させ両親の肩を揉むやら新聞を読んでやるやら[食物の]料理をして[やる]出来るだけ親孝行をしたので親は喜んでもう満足だから死んでも良ひとまで云って呉れました。するとその頃田舎へ篠山から三人も私を探しに来たので親許に居られなくなり、又大阪に帰りアパートに住まって居りましたが昭和八年一月、二十九歳の時突然母が死んだと云ふ電報でしたが、丁度、麻雀に行って留守だったため三通も電報を貰ってしまひ怨まれたので金だけ送って置き荷物を纏め大阪を引き払って母の初七日の時に田舎に帰り、墓参しました。
 二週間位居りましたが篠山の事があるし、以前[田舎で]噂に上ったことがあって人に顔が合せられない気がし[気がするので]窮屈ですから東京へ来て三の輪※4で矢張り吉井昌子と云って高等淫売をしました。その内二十九歳の十月頃、日本橋区室町の袋物商年令三十七八歳位の中川朝次郎の妾になりました。中川さんは私も好きでしたから毎日来て貰う約束で私は神田新銀町のおでんやの二階から日本橋区本石町※5の生花師匠の二階に間借し、毎月六十円位貰って[貰ふて]居ました。三十歳の正月父が病気だと云って知らせがあり[あつたので]田舎に帰り、十日間位何も忘れて熱心に看病しました[が]。今でも此時だけは本当の親孝行をしたと思って居ります。父は死ぬ頃お前の世話になるとは思はなかったと涙を流して喜んでくれ一月二十六日[廿六日][に]死亡しました。
 私は父の形見として金三百円分けて貰い、間もなく東京[へ]帰り矢張り中川さんの妾をして居りました。丁度その頃用事があって横浜に行き[行つた処]昔の友達に会ひ稲葉の娘が死んだことを聞きましたが稲葉の娘は仲良し[友達][ありま]したから稲葉方へお墓参りに行き[ましたので]、一旦絶縁した[して居る]稲葉方と此時から又往来する様になり当時、稲葉方の暮しを見兼ねて指輪を入質して百五十円呉れてやりました。私[は]三十歳の九月頃、中川さんが病気になり色々私の事を心配して呉れるので申訳なくなり[ましたから]相談づくで別れ[てしまひ]、それから稲葉方へ行き半月ばかりブラブラ遊んで居りましたが一人で居る事は淋しい上に別に手に職がある訳でもなし[ありませんから]、又、横浜市中区富士見町※6の「山田」という淫売屋で高等淫売を始めました[が]。その縁で一昨年の暮頃政友会※7院外団※8と云ふ[年頃の]笠原喜之助の妾になりました。所が笠原は放埒で碌な手当もせず愛情もなく私を獣扱ひにし別れ様とすると平身低頭して哀願すると云ふ品性下劣な[の]男で直ぐ嫌になりました。それ故、[昔]馴染の中川さんが恋しくなり昨年一月、電話で中川さんを呼出し浅草の上州屋で同宿したことがありました。
 笠原とは何とかして別れ様と思ひ逃げ出すと田舎[の坂戸町]まで探し歩き、稲葉へお前が俺の妾になって居ることを話すとか世帯を持った費用を全部返せとか殺すとか云って脅すので困り抜き到々昨年一月末名古屋へ逃げそれ以来――三十一字不詳――[笠原とは縁を切つて了ひました名古屋で東区千種町の「寿」と云ふ小]料理屋※9に田中和代[加代]と云ふ偽名で女中に這入りました[が]。此所は女中は私一人だけで極く真面目な店でした。ところが昨年四月末のある晩、名前や身分は後で判ったのですが名古屋市会議員中京商業の校長先生である大宮五郎さん※10が宴会の帰りだと云ひ他の料理屋の女中を連れて「寿」へ来ました。大宮五郎先生のその女中に対する態度が誠に紳士的であり、何処となくキリッとして居たので初めて会ったのですが立派な人だと惚れてしまひました。四、五日後、今度は先生一人でお出になり水菓子等を食べながら私の身の上話を聞きたがるものですから哀れっぽい調子で同情を惹く様に、東京の生れだが九つになる女の子を残されて亭主に死なれ子供を育てる為こんなことをして居ると出鱈目を云った所、先生は子供に何か買ってやれと云って十円呉れたので良ひ人と益々惚れてしまひました。
 先生は四、五日後、又一人で和服で来ましたから私に気があるに違いないと思ひ[聞かれる儘に]子供の話等をしながら先生の膝に[もたれ]俯して泣ひて居る様な態度をすると、そんな所へ手をやってはいけない、男だから変な気持ちになる向ふへ行って坐って居れ[人が来るといけない]と云ひましたから[私は]此処だと思ひ、色っぽい様子をしてなお先生にもたれかかると、先生は私を抱きしめましたので其儘先生を倒して関係してしまひました。その晩先生は将来面倒を見てやってもよいから真面目にしておれと云ひました。その二、三日後、又先生が来たのでゆっくりお会ひしたいと云ふとそれでは鶴舞公園※11付近松川旅館に行こふ[かう]と云ふので店には一寸外出すると云ってその旅館に行き先生と一緒になりました。その後は「寿」には帰らずその儘付近の「福住」と云ふ小料理屋に住み込みその頃先生と松川で一回関係しましたが、何となく名古屋が飽きたので昨年六月先生には子供が死んだから東京に帰るが松川旅館気付で手紙を出すからと云ひ先生から五十円貰って東京に帰り、当時、下谷に居た稲葉方へ行って十日ばかりブラブラ遊んで居った処が元[私が]妾をした笠原が私を結婚詐欺だと告訴し、刑事が調べに来ましたから五月蝿く感じ以前[東京で淫売をして居た時]知り合った浜町の淫売屋木村博方へ行き、[矢張り]田中加代と偽名し[て]客席では田中きみと名乗って高等淫売し[て]、大宮先生には木村方に居るから来て下さひと云ふ手紙を出して置きました。すると昨年六月中旬頃、先生が木村方に私を訪ねて来ましたから先生には木村方は姉の家だと[噓を]云ひ、その日は[先生と]品川の「夢の里」※12へ行き二時間位遊び浅草の活動見物[トル]して夕食してからその晩先生は名古屋へ帰りましたが此時三十円貰ひました。その後も私は木村方に居りましたが[其内]主人木村と関係が出来たので内縁の妻金子静が焼餅をやき家の中がゴタゴタ[ごて/\]始まりり[ママ]ました。木村[博]は大変な道楽者でその夫妻[先妻]――四十二字不詳――[の大橋秀と同棲して居った頃今の金子と懇意となった所先妻の秀子さんはそれなら婿にやると]云って亭主と金子とを同居させ自分は近所に別居して居たのですが今度私と木村と関係が出来[トル]ゴタゴタ[ごて/\]した所、又先妻の秀さんが仲に立って二人を秀さんの二階に同居させて呉れ私はその時から淫売を止めました。所が昨年七月中旬[頃]夕方金子静が大宮先生が来て居ると私を迎へに来ました[から]。静さんの家に行くと[暑い座敷に先生が居り聞くと]もう三時間も居るとのことでした。私は嬉しく、早速支度して先生と[東京駅から]汽車で熱海に行き「玉の井」旅館※13に泊りました[が]。先生は静さん※14から色々話を聞いた[が]、お前は淫売をしても人の亭主を取っても驚かない初めから良ひ事をして居る女でなひと思って居るが何とか救ってやりたい[のだから]、是非真面目になれ俺は名前こそ話さないがお前の将来は必ず引受けてやると夜通し意見して呉れました。初め先生に対する気持は一時の浮気位の程度でしたが、[程度でありました][夫れに先生は名前や職業を絶対に打ち明けず田村正雄と出鱈目を云ひ私にはお前の居所さへ知らすれば何処までも面倒を見てやると云ひますが洋服まで自分で始末し名前が判らぬ様気を付けて居り]非常な潔癖性で寝間も面白くなかったので私は頼りなく思って居たのですが、今度も態々私を尋ねて来て呉れたのだし万事[に]親切で私も会ふと誠心誠意私を良く仕様と意見して呉れるので此時シミジミ有難くなり、先生に動かされて将来は真面目になって先生に頼ろうと決心し翌日沼津まで送り涙で別れました。
 此時先生から三十円貰ひ[ました]私はそれ以来淫売生活から全然足を洗って仕舞ひ、東京では[東京へ帰つて]木村方[へは]行かず稲葉方の世話になり煙草も断とうと思って近所の御祖師様へお百度参りをし禁煙のお願を懸けました。※15
 大宮先生とは昨年八月名古屋と東京等で十回位会ひ、本年五月十八日石田吉蔵を殺した直後東京で会ったのが最後です。
問 その後他の男との関係はなかったか。
答 大宮先生だけでは物足らなかったから元妾をした中川朝次郎とも前後六回浅草の上州屋に泊って関係しました。
問 では大宮五郎との関係を続いて申述べよ。
答 昨年七月中旬大宮先生と別れ、東京へ帰ってから稲葉方に居りましたが半月程経つと先生に会ひたくなり、[なつたから]先生は胸に丸八と云ふ徽章※16を付けて居りその徽章は名古屋市会議員又は市役所の役人印であることを知って居ましたから調べれば判ると思ひ、八月中旬名古屋へ行き[ました]駅前[の清駒旅館によつて]新聞を見ると「大宮市議渡米」と云ふ見出しで先生の写真が出て居りましたから、この時初めて名前や職業を知り嬉しくなり、早速電話をかけ東築港の南陽館※17で先生と会ひました。
 先生は余程困ったらしく打萎れて居り「どうして名前を知ったか」と云ひましたから※18新聞を見たと云ふと「そうか」と頷き「俺は学校長である丈にお前との関係が世間に知れると生きては居られないピストルで[ピストルだ]俺を生かすも殺すもお前の心一つだ、将来代議士になる心算だからそれ迄温和しくして呉れ、代議士になったら堂々と尋ねて来い」と云ひ[ましたから私は先生を知つて居るのは私丈で他人に云つてはなし御迷惑は掛けないと云ひました先生は「今日は迚も忙しいから直ぐ東京へ帰つて呉れお前が名古屋に居ると云ふ丈でも道を真直ぐ歩けない」と云ひ]、その時私は先生と関係がしたくて側に寄ったのですが「今日は是で別れ様、十三日には東京へ行く」と云ひ元気がありませんでしたから小遣五十円[を]貰った丈で[其儘]東京へ帰りました。
 先生が八月十三日渡米の為[め]上京し[まし]たのでその日「夢の里」で会ひました。[が其後私はずつと稲葉方に世話になつて居り]十月下旬頃先生が帰国することを知って居りましたから先廻りして名古屋[に]待って居りましたが、先生は帰途東京に滞在した[して]居た為[め]私は一人で二週間も待ち呆けて了ひ、[活動等を見て遊び暮したので]三百円以上も小遣を費しました。
 十一月十一日漸くの思ひで先生に会ひましたが忙しいと云ひ一時間位で別れ百円頂きました。その時の約束で[により]十一月十六日豊橋で会ひ一日ゆっくりして五十円貰って東京に帰り、間もなく大阪で会った時身体に腫物が出来て困ると云ったら過去の生活が悪ひから梅毒だろうから草津へ湯治に行けと云ひ二百五十円呉れたので昨年十一月下旬頃から本年一月十日頃まで草津に行って居りました。
 草津[湯治中]一度先生が来ました[トル][先生は]私が煙草を吸わなくなったのを知って驚いて居りました。先生は[草津に]一晩泊りましたが布団二つ敷き、私が寄っても今日は疲れて居ると云ひ関係せず却って私に夫婦や女の道を話して聞かせ「夫婦は生活本意で、色事は夫婦の交りの為[め]第二の問題である。男女間でも色事は第二でなければならぬ。心と心と触れ合って居ればそれで満足しなければならぬ。俺はお前を見ればそれで安心するのだ。お前は手を握っても直ぐ眼の色を変へる位[で]色情が強過ぎる。男女一緒に寝ても自制出来る位修養せねばならぬ[せなければならぬ]。俺は関係しないと思へば絶対関係しない」と言って居り、私は実につまらないと思ひましたが、又意志[意思]の強い立派な人だと思ひました。
 翌日一緒に伊香保に行き泊り、先生は[其の]翌日昼頃帰りました。私に百円小遣を置いて行きました。然し、伊香保で先生からお前は何処となく温和しくなり口の利き方も変ったと云はれた時は非常に嬉しく思ひ、今でも忘れません。[そして]私が草津を引き上げて後、本年一月[中]京都で一度先生に会ひました。先生は以前からお前は真面目になって何か商売を始めた方がよい、今年の暮からおでん屋のような小料理屋を始める様に今から何処かへ奉公して料理を[見]習ったらどうかと云って呉れたので私もその気になり、草津から東京へ帰り荏原区上神明町※19の姉のト[ク]方や下谷の稲葉方へ居りましたが本年二月一日、新宿の紹介業「日の出屋」へ儲けは少くてもよいから真面目な所へ世話をして下さいと申込み、中野区新井町五三八割烹[店]吉田屋事石田吉蔵当四十二年方の女中となりました。※20
 [大宮先生には姉の今尾トク方に私の居る所を知らせて置いてと云つて置きましたので]本年三月三日、先生は上京して姉に聞き、電話で私に東京駅に来いと云って来ましたから飛立つ思ひで[吉田屋が忙しいのにも拘らず]一時暇を貰ひ、その晩先生と新宿の明治屋※21に泊りました。[其晩]先生は頭をグリグリに刈って居り、今度三月ばかり東京に滞在し青年の気分で勉強する心算だがその間はお前と関係はしない。その代り勉強が済んだら塩原へ連れて行くと云ひ、私は貴男の様に冷淡では私がやり切れない、一月も二月も男に接しないではとても堪らないと云ふと、先生は私に色男があるものと思い込んで居るらしく、それを信用しないでお前は現在俺の独占物ではないのだから何をしてもよいが、商売でも始めたら真面目にならなければならぬ、その時、色男があったら俺に話せ、人物試験[を]した上でよければ仲介して夫婦にしてやる、[そして]妹だと思って死んでも世話すると云ひました。その時先生は[私に]五十円呉れて帰りました。
 私は情交では先生一人で満足しませんでしたが、その真実味に感謝して今でも忘れる事が出来ませぬ。石田に熱中した時、何故、先生を思ひ出さなかったのかと[兎]に角その先生の話を聞き是から時々先生と会えるし、塩原へ行くことが楽しみで吉田屋に帰って※22から石鹸箱や化粧品を買ってその準備をして居りましたが、その道具を今度は刑務所で使ふとは何と云ふ廻り合せだろうと思って居ます。
 私が吉田屋の女中になってから段々主人の石田と懇意になり関係が出来、四月二十五日示し合せて二人で待合に泊り込む様な仲になって[しまつて]から[で]、大宮先生と前後四回会ひました。一度は四月二十九日石田と二人多摩川の待合「田川」に※23泊って居た時[居つたとき]金に困ったので、私が名古屋に行き、旅館に一泊し、翌日、南陽館で先生に会ひ百円と旅費を貰ひ、来月五日東京で会ふ約束し[て居り次は]五月五日石田と尾久の待合「満左喜」に[帰つて]居た時、新宿の明治屋旅館で会ひ百二十円貰ひ、次は五月十五日矢張り石田と尾久の待合「満左喜」に泊っている時東京駅[に行て]先生に会ひ、銀座で食事し品川の「夢の里」で休息し五十円貰ひ、最後は五月十八日石田を殺してから須田町の万惣※24の前で先生に会ひ、日本橋のそば屋に寄り大塚の旅館「緑屋」※25に行き二時間ばかり休息して別れました。
 然し、[此間]先生と関係したのは「夢の里」と「緑屋」に行った時の二回だけで[した]、先生は[会ふと]何時も私の将来のことを心配して真面目になれと云ふ様な話ばかりして呉れました。


=脚注=

※1高等淫売=こうとういんばい。「昭和11年の女」版の巻末の「阿部定年譜」には「高級淫売」とあるが、この用語は、同書以外の資料には見当たらない。戦後に流行した「高級娼婦」という言葉に引きずられたのだろうか。
「高等淫売」は、料理茶屋や船宿などからの呼び出しに応じて円タクなどで移動して出張営業する自由契約の私娼。少し古い言い方では「コールガール」で、現代風には「デリバリーヘルス(デリヘル)」とでもいうべきか。無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)と一緒に甘粕正彦(あまかすまさひこ)陸軍憲兵大尉に扼殺された伊藤野枝(いとうのえ)も一時期、高等淫売と罵られたことがある。
※2この時から情事に快感が湧き一人寝は淋しくてなりませんでした=多くの作家や評論家がこの部分を援用して、この時期がその後の色情魔の始まりの時期としている。しかし、猟奇犯罪と動機との整合性を持たせるために、予審判事が、わざと、そうした表現の記述にとしたような感じも受ける。むしろ、絶望と孤独の日々を送って、支えのために異性を求めていた時期と解釈したい。
※3大阪の住吉アパート=未確認情報だが、大阪には「住吉アパート」という名のアパートがあって、そこに高級娼婦が住んでいたというが、たぶん作り話だろう。「訊問事項」版では、「大阪ノ住吉デ『アパート』ヲ借リ」とあって、こちらを支持したい。
※4三の輪=みのわ。「三ノ輪」と書くのが現在では一般的だが、過去には「三輪」「箕輪」などさまざまな書き方がされていた。住居表示は別として、三ノ輪と呼ばれてきた地域は、現在は台東区と荒川区にまたがった一帯だった。稲葉氏の住む下谷(したや)と近いところから、阿部定はこの地を選んだのか】
※5日本橋区本石町=にほんばしく-ほんこくちょう。現在は中央区日本橋本石町(ほんごくちょう)。「昔、米やその他の穀物を売る者が多く居住しており、石町といっていましたが、後に新石町(現在の千代田区内神田三丁目・鍛冶町二丁目)ができたことにより本石町と改称しました」(中央区ホームページ)。
※6横浜市中区富士見町=よこはまし-なかく-ふじみちょう。現在も同名の地名で存在する。
※7政友会=立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の略称。立憲民政党(りっけんみんせいとう)と並ぶ戦前の二大政党の一つだった。
※8院外団=院外団(いんがいだん)とは、政党に属しているが議員ではない者の集まり。明治には議会民主主義を守るガードマン的な役割をし、暴力も辞さなかったという。十七、八歳の若者が一日一、二円の弁当代をもらい、演説すると「先生」ともてはやされたらしい。
※9料理屋=多くの資料が名古屋市東区千種町(ちくさちょう)の「寿」という小料理屋としているが、「昭和11年の女」版では、千種町今池の小料理屋としている。千種町だけは符合するが、その下の住所が若干異なっている。ともあれ、ここで大宮五郎氏と会うことになるわけだが、新聞では、その店の名は「清駒」という名の芸妓屋だと伝えている。ちなみに、千種町は当時東区にあったが、現在は千種区(ちくさく)にある。
※10大宮五郎さん=通常、調書では、「さん」はつけず「大宮五郎」と書き、さらにそのあとに「当四十九年」などと挿入するのが一般的な形式となっている。とくに大宮氏は事件に関わった重要人物の一人なのだから、そうした基本データを欠如させるわけがない。以後、大宮氏の年齢や住所は予審調書では記されていない。調書を書き写した者か、最初に予審調書を刊行した者が、煩雑で読みにくいと思って削除してしまったのだろうか。
※11鶴舞公園=つるまこうえん。明治42年名古屋最初の公園として開設した。
※12夢の里=品川区北品川1丁目にあった旅館。どんな旅館だったのか、詳しくはわからない。この近くには江戸時代から有名な「歩行新宿(かちしんしゅく)」があったから、この付近もそれっぽい雰囲気があったのかもしれない。
 これは事件とは関係ないが、与謝野晶子が南品川で詠んだ短歌に「おつる日やいづこ快楽の夢の里わが橋はなれ寒う行く船」とあるのは、時代を感じさせ興をそそる。
※13「玉の井」旅館=熱海市内の中心にある老舗の温泉旅館。
※14静さん=この部分だけ、「木村の内縁から」とする資料多数。同じ固有名詞が繰り返され、他の固有名詞も混在する部分なので、校正者が変な風に言葉の整理をしてしまったのか。
※15禁煙のお願を懸けました=他の資料では、ほとんどが「お願ひを懸けました」となっている。だが、普通は「願(がん)を懸(掛)けました」もしくは「願懸(掛)けをしました」という。最初に書き写した者が「願」を「ねがい」と読み違えてしまったために、老婆心で「お願い」などと余計な文字を入れてしまったのだろうか?
※16丸八と云ふ徽章=○の中に漢字の八の字が入ったデザインの名古屋市の市章。明治40年10月制定。
※17東築港の南陽館=築港(ちっこう)はあるが、東築港という地名は過去も現在も見当たらない。そこで「南陽館(なんようかん)」のほうから調べていくと、それが以前、東築地(ひがしつきじ)というところにあったことがわかった。つまり、この部分は、「東築地の南陽館」の誤植だったのだ。言葉の音からいって、もとの予審調書のミスとは考えにくいので、書き写したときのミスと思える。しかし、他の資料もすべて同じ誤植を引き継いでいて、疑った様子すらないのは、どうしたわけか。
※18「どうして名前を知ったか」と云ひましたから=新聞では「昨年暮名古屋東区の芸妓屋『清駒』の芸妓時代中京商業の大宮校長と宴会で知り合ひ、教育家としての身分を秘してゐた大宮校長をそれとなく洋服のネームを読んで「あら、オーさんぢやないの」と遂に大宮校長の身分を知り、かりそめの一夜の夢からズル/\と深い関係にはまつたが」(昭和11年5月20日付讀賣新聞)と出会いの経緯を説明している。
※19荏原区上神明町=えばらくかみしんめいちょう。現在の品川区二葉あたりか。
※20中野区新井町五三八割烹[店]吉田屋事石田吉蔵当四十二年方の女中となりました=被害者の石田吉蔵の名前が初めて出ているので、住所や年齢、職業などのデータがつけられている。これが調書の通常の書き方だろう。新聞には、「定は被害者石田と知り合つたのは去る二月二日料理屋吉田屋に雇はれた時だ」(昭和11年5月21日付讀賣新聞夕刊)となっていて、求職の申し込みをした翌日には勤務先を得たことになる。
※21新宿の明治屋=新宿の「明治屋旅館」の「旅館」が端折ってあるのだろう。通常の調書では、固有名詞はきちんとフルネームで書くはずだが、予審調書ではこうした端折りが随所にあって、読者や研究者を悩ませる。ことに明治屋は、明治座と名称が似ているので、混同しやすい。
※22吉田屋に帰って=「吉田屋に泊つて」としている資料もあるが、たぶんそちらのほうが間違いなのだろう。
※23二人多摩川の待合「田川」に=この「二人多摩川」という言葉が、第四回訊問の中でも登場する。文学的な雰囲気を感じさせる箇所だが、考えて見れば、わざわざ「二人」とことわる必要はなく、文脈的に不自然だ。
 また地名としては「多摩川」というのは、あまり使われないように思う。なにしろ多摩川は長大な川なのだから、場所を指し示すための目印としては不適当である。たぶん、東京の地名事情に無知なのに知ったかぶりをしたがる筆耕者が、本物の予審調書にあった「二子玉川(ふたこたまがわ)」の「二子」を「二人」と読み違えた挙句、「玉川」を書き間違いだと思い込んで「多摩川」と書き直してしまったのではなかろうか。
 他の資料でもなぜか疑いもせず、すべてが右に倣えをしている。さらにいえば、この部分を引用してきた評論家や作家たちには、書き間違いであることを疑った形跡がないばかりか、その文学的な香りを堂々と賞賛しながら、そのまま引用している人もいる。堀ノ内雅一の労作『阿部定正伝』ですら、「二七日の晩遅くから、二人は河岸を多摩川の待合・田川に変えている」などと、予審調書の間違いを引き継いでしまっている。
 待合の名前は「たがわ」と読むのだろうが、新聞によると当時の待合「田川」の住所は東京市世田谷区玉川一五五三だ。もともと「二子玉川」という地名は行政上は存在しない通称で、範囲も確定しているわけではない。二子玉川駅の付近の世田谷区玉川、瀬田付近をいう。ちなみに待合「田川」について説明した新聞報道には「多摩川」という名はいっさい出てこず、「二子玉川」ばかりだ。ちなみに「訊問記録」版では「二子多摩川」となっている。
※24須田町の万惣=神田区須田町(かんだくすだちょう。現在は千代田区神田須田町)の果物店「万惣(まんそう)」のこと。創業は弘化3年(1846年)の老舗。
※25緑屋=第六回訊問にも登場する豊島区西巣鴨2丁目の「みどり屋」旅館の誤記だろう。どの資料も同じ間違いを引きずっている。