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第二回訊問


 前科はないか。
 ありませぬ。
 警察署で調べを受けたことはないか※1
 四度程あります。※2一度は十六歳の時女中奉公中無断でお嬢さんの着物や指輪を身に着け活動※3を見に出たため。次に二十一歳の時朋輩芸妓※4の三味線の撥を五六個とキセル一本盗んで入質したため、次は二十六歳の娼妓奉公中、客の金百円を盗った為※5、次は二十八、九歳の頃大阪で花札や麻雀賭博をした為※6警察でお調べを受けましたが許して頂きました。
 学校は何処まで行ったか。
 東京神田尋常小学校を卒業※7してから家庭に先生を呼び習字を少し習いました
 親兄弟は。
 ――十六字不詳―――[父は阿部×吉、母はカ×と云ひますが]母は昭和八年一月[に]、父は昭和九年一月[に]。何方も七十五歳で病死しました。兄弟は七人あり、私は四女の末子でその内二番[目]と三番目の兄は私が十歳位の時亡くなり、一番目の姉は生れて直ぐ亡くなりましたから[現在]残って居る兄弟は長男新太郎当五十年、次は今尾トク当四十九年、三女巽照子当三十八年と私の四人です。現在兄新太郎は横浜で畳屋をして居り、姉トクは今尾清太郎の妻で清太郎は元埼玉県[入間郡坂戸町で運送屋をして]に居ましたが[居りましたが止めて]昨年頃から東京の荏原区上神明町に住み雑貨の行商をして居ります。
 健康はどうか。
 弱そうに見えますが身体は丈夫であります。※8名古屋で娼妓※9をして居た二十三歳の時、梅毒に罹って※10注射を十本して貰いその後梅毒の症状はありませんでしたが、昨年、十月頃手等に腫物が出来たので草津温泉に湯治に行き癒りました。本年一月医者の診断を受けたる所梅毒第三期だと云はれました。私の梅毒は外にないものと見えます。
 二十四歳の時に腸チフス※11に罹りましたが治ってからズット丈夫になりました。矢張り※12夏頃イボ痔で二カ月計り入院した事があります。
 月経は順調か。
 私は十六歳の暮から月経があり何時も順調で四日間位で済みます。月経の時は少し頭痛がしイライラしますが寝る程ではありません。
 親兄弟や親戚に精神病者はないか。※13
 ありません。親は何方も老衰の為[め]病死し、二人の兄は脚気衝心や腸チフスの為です。他の兄弟親戚にも精神病の人はありません。
 被告が育った当時の家庭はどうであったか。
 私は神田で生れたのですが、兄新太郎は嫁を貰って居り姉トクは嫁ぎ、次の姉照子は年頃で未だ家に居りました。私が育った頃は家が一番隆盛な頃で職人が六人も[六人位]居り、忙しい時は十人も十五人も傭って畳屋をして裕福だったし、私は末子で両親に大変可愛がられました。
 母は派手好きで見え坊でしたから小学校二年位[の頃]から私に三味線を習はせ※14綺麗にしては連れ歩いたので勉強は[よく出来なくなり]自然嫌ひになり、[学校の]先生からお稽古なんか止めなさいといはれましたが在学中ずっと[お稽古に]身を入れてしまひました。[学校を]卒業してから[後一年位]裁縫のお稽古に通った[先生を家に呼んでお習字を習つた]りしましたが、家には[家に]大勢職人が居て色々の話を聞かされ[るため]十歳[位の]頃から男が女とすること等を知り[自然ませて居り]ました。それに[それは]兄新太郎は少し道楽者で私が[私の]十五歳位の時堅気の姉さんを出して[しまひ夫れまで]外に囲っていた水商売の女を家に入れ[ましたが]丁度その頃[家の]職人を照子姉さんの婿養子にした為、新太郎兄さんが照子姉さんに家を相続させるのではないかと[思ひ]嫁さんと[一緒に]若夫婦を虐め母は照子姉さんに味方し毎日家中ごたごた※15して居りました。
 両親は家が揉めるので私に見せては為にならぬと思ったらしく、毎日表で遊んで来いと云ふので私は良いことにして毎日お友達の宅等へ遊びに行って居り、自然外が好きになりました。
 被告はその頃から漸次不良の仲間入り※16したか。
 左様ではありません。その頃はどちらかと云へば堅過ぎる位真面目な考へを持って居ましたが、十五歳の時お友達の家で学生に姦淫され※17カラリと※18気持が変って不良になり浅草で遊び暮す様になったのです。
 その経緯は。
 その頃、毎日お友達の福田ナミ子さん宅へ遊びに行き[私が十五才の夏の頃でしたが]そこに遊びに来た福田さんの兄さんの友達[の×××と云う]慶応の学生(特に名を秘す)※19と知合いました。私は[割合ませていたので]その人と懇意になり[二人が其]二階でふざけて居る内その学生に関係されてしまいました。※20
 その時大変痛みがあり、二日位出血し[たので私は]驚いて[驚いたし]これで自分は娘でなくなった[のか]と思ふと何だか怖ろしくなって[何うしても]母に話さずにいられなくなり[其事を母に話し]、その後その学生と[福田さんの家で]会ったので[二人が散歩に出た時学生に]自分は母にこの間の事を話したし※21[話したのだが]、あなたも親に話して下さいと云ったところその学生はその後福田さん[の家]に寄りつかなくなり[寄り付かなかつたので]、母がその学生のところへ行っても会ってくれず[母が其学生の家に行つて呉れました相談に乗つて呉れなかつたので]その儘泣き寝入りになってしまいました。
 当時、その学生[と夫婦になろうと云ふ程の気持があった訳ではありませんが][トル]からかわれたと思うと口惜しくて堪らずもう自分は処女で[は]ないと思ふと此様なことを隠して嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もう嫁には行けないのだどうしやうかしらとまで思ひ詰め、迚も焼糞になってしまひました。母は私の[イライラして居る]様子を見てお前さえ黙って居れば判らない事だしお前の知らないことを男がしたのだから何でもないと慰めて呉れ、大正琴を買って呉れたり致しました。[等して前より一層]可愛がられば可愛がられる程癪に触る様な気持になり、或日何処かへ行って遊んで来ようと思ひ家の金十五円程[ソオツと]持出しました。
 その頃、私の近所には不良が沢山居り[居たり]私の姿を見ると何とか声を掛けてはからかひましたがそれまでは振り向きもしませんでした。所が、その時は私が不良に声を掛け今日は気分が悪いから面白い処へ連れて行って呉れと云ふと―――十九字不詳―――[二三人尾いて来たので一緒に浅草へ行き晩迄]一日遊び暮し、帰る時金を持ち帰ると悪いと思ったから全部分けて遣りました。丁度照子姉さん夫婦が家出した頃で家の中がゴテゴテ※22して居た頃で、親達は別段私の事を気に止めず母から随分遅かったネと云はれたので上野の山に行って来たと云って居りました。金持出して遊びに行き不良仲間に奢ったり小遣をくれたりすると皆からサーチャンサーチャン※21と騒がれるので面白くてたまらず、親が余り小言を云はないのを良ひ事にして段々増長してしまひ朝は起されても仲々起きず、二階までお膳を運ばせ御飯がすむと直ぐ着換えては浅草へ遊びに出掛け、三館共通の金竜館等※24で一日遊び暮しては夜九時頃でなければ帰りませんでした。※25
 ある時等は、金を一摑み持出し外で勘定すると六十円もあったので怖ろしくて震ひ上り返そうと思って戻りましたが職人が居た為その儘使って仕舞ったことがありました。
 この様にして一年位不良仲間に入っていましたが、照子姉さんは家出してから亭主と別れて家に戻って居る内、近所の職人を情夫に持つ様な不行儀な事があり、私もそれを知っていたので親達が叱ると「姉さんだって」と云ふものですから親は黙って居りました。
 それに今考へて見ると、父は外出勝ちであったし例へば、外で私が晴気姿[晴衣姿]で遊びに出る処を見ても知らぬ顏をすると云ふ可愛がり方でしたから益々増長したと思ひます。それでも偶には父が怒って二階の私の寝間を釘付けにしたり晴着を風呂敷に包み物置へ投げ込んだりしましたが、私は隣の小母さんを呼んで窓から屋根伝ひに外出したり、職人に着物を取り出させたりして矢張り、遊びに出掛けて居りました
 私の不良仲間は男は十人位、女は二人位あり大抵は浅草で待って居り、小遣をたかられながら良ひ気持ちで遊びましたが性的関係はなく、一夏鎌倉で遊んだ時二十歳位の男二人と一度宛関係しただけでした。
 その後、被告が芸者になる迄の出来事は。
 十六歳の四月、その頃照子姉さんに嫁の話があり私が不良になったので呆れた為もあると思ひますが一面私が姉の不行跡を口外してその妨げとなるのを恐れたらしく母が私に今姉さんに縁談があるから姉さんを片付ける為にはお前も温和しくして居なければならないから小間使に行けと云はれて芝区聖坂※26聖心女学院※27の前のお屋敷に奉公に出され、お嬢さん付の女中になりました。
 ところが今まで可愛がられて放縦な生活をして居た為、窮屈でたまらずその上御勝手でお食事をすると云ふ始末ですから情けなくなり食事の度に涙が出て淋しく仕方なく、浅草で遊んだ事が忘れられず奉公に来て一月位経った時、無断でお嬢さんの晴着や帯や指輪を身につけ、※28後で返せば良ひと簡単に考へ浅草に行って金竜館に入りました。
 すると其処で捜しに来た姉に遇い連れ戻され此時初めて警察に連れて行かれました。その後、家に温和しくして居りましたが十七歳の春、兄の新太郎夫婦が親の金を持って家出したので両親は先々を心配して畳屋を止め、神田の家を売り払いトク姉さんの嫁入先である埼玉県坂戸町へ家を建て親子三人で引き移りました。
 然し、父は田舎で商売をしなかった為私も仕事がなく又三味線の稽古を始めましたが矢張り温和しくして居られず、近所の男と懇意になり一度位関係した事もあり、時々散歩等したので目に付き、それに一人で近所の洋食屋等に出掛ける為、田舎の事ですから私の噂が五月蝿くなったので父はそれを見兼ねて怒り、そんな男好きなら娼妓に売ってしまうと云ひ出し、母やトク姉さんは心配して父をいさめ、私も本当に怖ろしくなり三日も眼を泣きはらして謝ったのですが、父はどうしても承知せず大正十一年七月十八歳の時、私を連れて横浜市蒔田町※29に居た遠縁に当る稲葉正武※30方に行き娼妓の世話を頼みました。
 私は父と口もきかずどうせヒビの入った身体だし、こうなった以上はどうともなれモウ決して親元へは帰らないと決心しました。稲葉方に一カ月ばかり世話になった後、稲葉から紹介屋に頼み前借金※31三百円で中区住吉町の芸妓屋春新美濃※32に抱えられ「みやこ」と名乗り一本の芸者※33になりました。
 その頃、私の家は東京に貸屋が五、六軒あったので暮しは楽で金に困った訳ではありませんから、私の前借金の一部を稲葉の礼にして外は私の支度に使ひ私の小遣にもしました。
 芸者になった当時の感想はどうであったか。
 芸者になって見ると私の様に途中から這入った中年芸者はお酌上りの芸者より芸が劣り癪になりがち※34だし「春新美濃」は一流の芸の芸妓屋で万事が厳重であったし、私は前借金の一部を持って居たので金には困りませんでしたが、それでも待合に行くと淫売を奨められるので厭な商売だと思ひましたが、どうせ親に見捨てられた身だから成り行きに委せやうと自棄になり、働くより遊ぶことを考へ、先の希望など全然持たず色々の都合で方々に住み替へながら芸者稼業をして居りました。
 被告が各地に転々として芸者をした模様は。
 その話をするには私と稲葉正武との関係を申上げねばならぬのですが稲葉は兄新太郎の先妻のウ―――二五字不詳―――[メの姉黒川ハナの亭主で当時横浜で木彫業をして]私方とも[私方と]交際して居たので稲葉は私が前から不良少女である事を知っており[居たものでありますから]私が一月ばかり同人方に世話になって居た時※35無理矢理に関係してしまいました。
 稲葉は口が上手で、私は未だ世間知らずでしたから稲葉にスッカリ丸め込まれて、芸者になってからも仕事の暇には稲葉方へ行っては関係を続け、稲葉は私が十九歳の時「春新美濃」は厭だと云ふと神奈川区春木町※36「川茂中」と云ふ芸者屋に住み替へさしてくれました、その時の前借金は六百円で、当時はそんなことに頓着はありませんでしたが後で考へると稲葉に胡魔化されて居たのです。
「川茂中」にいて丁度私が稲葉の家に遊びに来て居た時、大震災に遇い稲葉の家では何も出さず全焼し、私も前借があって親元へ帰る訳に行きませんから稲葉の家を一時助けたり、前借を返す為、その年の十月稲葉の家族全部と一緒に富山市に行き、清水町※37「平安楼」と云ふ芸妓屋に千円以上前借して住み替へ「川茂中」へ返した残り、二、三百円は稲葉に渡しその金で稲葉は家を借り「平安楼」の近所に住み、私は客のない時は何時も稲葉方へ行き[行つて居り]矢張り引続き稲葉と情交がありました。※38
 その当時は「春子※39」といふ芸名で稼いで居ましたが[居りましたから]、稲葉方の暮し向きを一切私が引受け、小遣[トル]全部[を]出し[て居りましたから]また[トル]私の収入だけでは足らぬ生活の苦しさを見兼ね[たものですから]芸者仲間の三味線やキセルを盗んで入質し※40、五十円位拵へて稲葉に渡しました。
 [それが]大正十三年私が二十一歳の時で、これが為警察へ挙げられ[た為]此処[に]は居られなくなり、その年の十月頃稲葉の家族と共に東京に引揚げ芝区露月町※41三十一番地に家を借り半年程同居してフラフラ遊んで居りました。
 その内大連※42で芸者をして居た稲葉の家内、黒川はなの従妹が稲葉方に世話になった処稲葉はその女と関係をつけた上、芸者に売ったのでゴテゴテしているのに家内の黒川さんはそれを知って知らぬ顔をして居りましたから私は此時初めて稲葉夫婦は今まで自分を金箱の様に考へ喰物にして居たのだと云ふ事が判り口惜しくなり[ましたから][もう]稲葉と縁を切ろうとしましたが、富山の前借が稲葉と連判だったので直ぐ縁を切る訳にも行かず此始末をつける為[め]、大正十四年五月信州飯田町※43の三河屋という芸妓屋に[矢張り]稲葉と連判で前借金千五百円位で住み込み「静香」と名乗って働きました。
 信州は皆、不見転芸者※44でお茶屋やお客もその頭で検黴※45もありましたから場所柄私も不見転をした所、花柳病※46に罹ってしまひました。
 私は検黴まで受けて芸者をするなら一層娼妓になった方が増しだと思ひ、二十二歳の正月大阪市の飛田遊廓※47「御園楼」に住み替へ娼妓になり、源氏名を「園丸」【「そのまる」か?】と名乗って出ましたが、その時稲葉と[は]縁を切って仕舞ひました。「御園楼」に住み替へる話が極った当時、母も私と稲葉との関係のあることを知って居りましたから今後縁を切る話を母に話したいと思ひ横浜に居る紹介業甲斐田さんといふ人に頼み、態々母を信州の三河屋へ連れて来て貰い[ましたそして]母にこれ迄の稲葉との関係を話し印を返して貰ふ※48事を頼み「御園楼」から二千八百円位前借した金で「三河屋」へ前借を返し、今度は父の連判だけにし[て貰ひ]母に二、三百円小遣をやりました。
 私が親に小遣を呉れたのは此時が初めてであります。それ迄私は親を恨んで居りましたが気を取り直し母には前借金も殖えたし、もう此処まで落ちてしまったのだから今更どうなるものでなし[ないから]今後私の我儘は勘忍して下さいと謝って貰ひました。
 被告が娼妓をして居た時の出来事は。
 御園楼は当時大阪で一流の店であったし、私も売れて三枚とは下らず※49可愛がられて居り[ました其頃から私は客を相手にするのが厭でありませんでしたから]「御園楼」では面白く働きました。
 一年位経った頃、或会社員の客が私を落籍※50してくれることになりました処、その人の部下も私の客であることが判ってその話[判つた為落籍の話]は駄目になり、客から勘忍して呉れと云はれ金を貰った事がありました。それで、少し腐って居る所へ紹介屋に煽てられたので翌年早々二十三歳の時、名古屋市西区羽衣町※51の「徳栄楼」に借金[前借]二千六百円で住み替へました。
 此処に移る時はその抱主※52は丸ぽちゃの可愛らしい女を希望して居た所、私は面長でどちらかと云へば伝法肌の女であり[ます]、紹介屋から是非抱へて呉れと頼まれて抱へることになったらしく当時、その事情を知らない私は[知らなかつたのですから]抱主が内儀さんに仕方なく抱へたんだ、名等は何でも良ひと話して居るのを耳にし[たので其事情を知つたのです]私を[私は]抱主が気に入らぬのなら気に入らせて見せると云ふ気になり、貞子という源氏名で一生懸命働きましたので売[れ]っ子になり可愛がられるやうになりました。
「徳栄楼」では二年間位働き[ましたから此頃は]思い出の多かった時代です。[其頃]は何でも鶯色のものを好んだ為、主人は私を「セキセイ※53」と悪口を云ひ[ましたが]私は遠慮なくポンポン云ひ、或時は朋輩が逃げたいと相談を持ち掛けたものですから私は逃がしてやると[云ひ]、自分の部屋の窓から外に出した所、その朋輩は大きな化粧箱を[持出したのでそれが]地面に落としその音[地面に落ちた音]で見付かって仕舞った事がありました。
 主人はそれでも普段は大して叱りませんでしたが酒に酔うと[私を]「セキセイ」を呼べと云って[は呼び付けて]叱る様な事を云って居[り]ました。それでも[それで]負けて居らずポンポン[言つて]やり返して主人は私に負けてしまひました。それでも[それも]半ば冗談の様にするので面白くもあり、又、お内儀さんはとても良い人でした。又、「徳栄楼」も一流の店であったし、客種もよかったのです。
 此頃、母が会ひたくなったと云ふて来て呉れました。その時は商売を十日位休ませて貰ひ帰る時も小遣を八十円位やり、母や姉の子供全部に土産物をどっさり買って喜ばしました。稲葉が今度芸妓紹介業を始めたと云って手紙をくれましたが交際はしないと云ってやりました。すると、稲葉の――五字不詳――が[娘がワザ/\]遊びに来たので一週間位泊らして土産を持たして帰らしたこともあります。[まして]その後チフスを患ったりして商売が段々厭になったので、何処かへ住み替へやうとして無断[トル]店を出て大阪の元世話になった紹介屋の所に行った[処]、先方から通知があって「徳栄楼」から使ひが来て連れ戻され、抱主はお前が逃げる方が徳だ、稼ぎ高で借金を返して貰うより逃げればお前の親の家作を差押へて一度に取ると云ったので怖ろしくなり相談づくで大阪の松島遊廓※54「都楼」へ住替へ※55「東」と名乗りました。確かその時の前借金は二千円位だったと思ひます。
 ところがその店は今迄と違いずっと格が落ちるし、客筋も悪かったので直ぐ厭になり何とかして自由廃業※56したいと思い、店へ来てから半月位して其処を逃げ出し、東京に来て元世話になった塚田と云ふ紹介屋の前の宿屋に居ると「都楼」から探しに来た使の男に見付かり連れ戻され、※57無理矢理に丹波篠山の「大正楼」※58に住替へさせられ「おかる」と名乗りました[が]
 それは私が二十六歳の冬のことで「大正楼」は前よりも酷く、玉の井※59の淫売以下であり何しろ寒い冬の晩でも[外へ出て]客を引張る様な辛い勤めをしなければならぬので、私は益々[嫌]になり、半年位した時、[トル]或る[夜]客を踏台にして駈落の様にして逃げ出したことがありましたが失敗し、連れ戻されてしまいました。
 [そうして]それから源氏名を「育代」と代へました。私が逃げる為[め]客の[金]百円を盗んだ※60のも此頃のことです。併し看視が厳重でどうしても逃げられませんでした所が、ある時、表の大鍵が下りて居ながら懸[掛]って居ないことに気が付いたので客を送り出した時、わざと音をさせ鍵を[掛]けない様にしておろし、店の者を安心させておき、そっと其処を抜け出し一番電車を待ってその日神戸迄逃げ[てしまひ]、それ以来娼妓から足を洗ってしまひました。
=脚注=

※1警察署で調べを受けたことはないか=当たり前の質問のようでいて、どことなくおかしい言い回しだ。「警察署」とわざわざことわる必要はない。「警察の世話になったことはないか」といった漠然とした言い方でもいいはずである。たとえば、第一回公判での裁判長のように「警察へは六回呼ばれているがどういう事情だ?」と尋ねるのが、自然な会話だろう。
 ひょっとして、阿部定が過去に、幾度も警察署に呼ばれて取り調べを受けたことがあったといった情報が、既に各警察署からもたらされていたので、判事はつい「警察署」という表現をしたのかもしれない。あるいはこの判事はまだ取り調べに慣れていなかった可能性もある。
 とはいえ、「訊問事項」版では、単に「警察」となっていて「署」がないのは興味深い。
※2四度程あります=この阿部定が警察のお世話になった回数だが、どうも阿部定の記憶違いのようだ。というのも、公判で裁判長は「警察へは六回呼ばれてゐるがどう云ふ事情だ?」(昭和11年11月26日付時事新報)と聞いているからだ。
 ところが、阿部定の精神鑑定書では、「大正十二年十月以後十三年八月迄ニ前後八回ニ亘リ、主人亦ハ朋輩等ノ三味線ノ撥金、煙金、簪、窃取入質シ、警察ノ取調ベヲ受ケタルコトアリ」とあって、芸妓時代だけでも八回も警察の取り調べを受けている。どうしてこんないちばん調べやすいデータでさえ曖昧なのか。結局、この事件に対する司法の取り組みの杜撰さを物語るものではなかろうか。
※3活動=活動(かつどう)とは、活動写真、つまり映画のことをさす。昭和2年10月6日に世界最初のトーキー映画(「ジャズ・シンガー」)がアメリカで公開されたが、日本で本格的なトーキー映画が登場したのは昭和6年の「マダムと女房」(松竹、五所平之助監督、田中絹代主演)以後だ。阿部定の見た映画は無声だった可能性が高い。
※4朋輩芸妓=朋輩(ほうばい)とは仲間のこと。芸妓(げいぎ)は、花街(かがい)で唄や踊り三味線などの芸を見せて酒席を盛り上げる業に就いている女性のこと。つまり「芸者仲間」の意味になる。
 ちなみに、京都では「芸妓」と書いて「げいこ」と読ませている。この芸妓という言葉だが、明治以降に役人から押し付けられた名称のようで、それまでは芸者(女芸者)と言っていた。わざわざ女芸者とことわったのは、江戸時代の当初には、芸者といえば男芸者をさしたからだ。江戸時代の小説に「芸妓屋」とあったら、間違いになる。
※5客の金百円を盗った為=あとで※60でも詳しく説明するが、盗んだ金は実際は98円だった。
 ちなみに昭和8年から昭和12年の時期には、大工の手間賃(一人一日年間平均)は2円前後だった(『値段の風俗史』)。現在の大工の手間賃が2万円程度と考えると、当時の1万倍という計算になるが、その換算では、ちょっと高すぎる感もある。前掲書では昭和11年当時の芸者の玉代は1本3円50銭としていて、現在の玉代の相場が1本1万数千円と考えると、5000倍くらいが妥当かもしれない。
※6花札や麻雀賭博をした為=阿部定と麻雀についての報道としては、「六年前だ阿佐ヶ谷の麻雀クラブ―日本麻雀連盟阿佐ヶ谷支部―まだ覚えたての麻雀ながら牌を自摸るよりも男を自摸る、といつた風で学生等は彼女の青白い妖精に慄然として彼女のさしだす情恋の触手さら逃げまはつてゐた程であつた」(昭和11年5月20日付讀賣新聞)とある。また、阿部定の精神鑑定書には「右ノ妾当時、麻雀賭博ノ嫌疑ヲ受ケ警察ノ取調ベヲ受ケタルコトアリ」とある。
※7東京神田尋常小学校を卒業=神田尋常小学校は、明治40年からの名称で、大正9年に神田尋常高等小学校となり、戦時中に神田国民学校となったあと、戦後は昭和41年まで神田小学校と呼ばれた(現在は統合されて存在しない)。その神田尋常小学校での阿部定の学業成績は、あまり芳しくない。たとえば、「小学校は高等科一年で退学したが早くもズベ公の素質をそなへ小学校を卒業する頃は畳屋のさだちやん≠ニいへば神田ツ子は誰でもはゝとうなづくほど十四、五歳で男を知り、国井、花房の情婦気取りで姐御で通つてゐた何しろおちやつぴいで洒落者で不良性でそのうへ男湯へも入る変態性の娘だつた」(昭和11年5月20日付讀賣新聞)とあるほか、精神鑑定書には「成績ハ始終不良ニシテ『乙ヤ丙ガ多ク甲ハ少ク、甲ハ唱歌位デ操行ハ丙デシタ』ト云ヒ」という本人の弁が引用されている。
 ちなみに、「昭和11年の女」版の巻末にある阿部定年譜には、十二歳のときに「神田高等小学校に入学」とあるが、これは「神田尋常小学校高等科に入学」の誤りだろう。尋常小学校の高等科は、今の中学にあたるが、阿部定は中学一年で退学したことになる。
※8身体は丈夫であります=肉体的には健全に生育したということを強調するために、こんな供述の仕方をさせられたのだろうが、精神鑑定書によると、「幼年期ヨリ少年期ヲ通ジテ、痙攣、夜中驚悸、其他神経質ノ症状等ナク、頸部外傷モナク、九歳ノ頃左側中耳炎(?)ヲ経過シ爾来左耳ハ全ク聞エズト云フ外、重症疾患モナク頗ル健康ニ発育セリト云フ」とあり、実は中耳炎が原因で、左耳が難聴であったことがわかる。阿部定の難聴について、なぜ予審調書では触れていないのか。精神鑑定書にあるわけだから、捜査段階か予審裁判の段階で、阿部定がそのような供述をしたことは類推できるが、予審調書にはそんな記述はない。そのために、阿部定の難聴について論及した文章がほとんどないのだろう。
※9娼妓=娼妓(しょうぎ)とは、「もと、公認された特定の地域内で売春をした女。公娼。遊女。女郎」(学研国語大辞典)と辞典にはある。
※10梅毒に罹って=他の予審調書も「梅毒」の表記を使用しているが、精神鑑定書では「黴毒」に統一されている。その精神鑑定書で注目したいのは、「本年一月下谷柿本医院ニテ血液検査ヲ受ケ『黴毒第三期ダト云ハレタ』ト云フモ『棒ガ三本アツタカラ三期ダト自分デ思ツタ』ト云ヒ、明ラカニ誤解シテ恐ラク『ツ』氏反応強陽性ノ意ナルベク」とあることだ。阿部定が黴毒の第三期と思い込んだのは、ひょっとしてツベルクリン反応の結果を誤解しているのではないかというのだ。ただし、精神鑑定書では、阿部定が黴毒に罹患にしていたかどうかについて、完全否定はしていない。
※11腸チフス=他の資料では「腸窒扶斯」と漢字書きしたものも多い。ただし、難読漢字をカタカナにするのはいいが、普通、東京下町弁でも、そのころの東京弁でも「腸チブス」と濁るということを忘れている。
 ただし、「公判記録」版や「昭和11年の女」版では、漢字表記とカタカナ表記を混在させているが、カタカナ表記の箇所では「チブス」と書いてある。が、阿部定の精神鑑定書では「十四歳ノ時急性腸カタル(定ハ腸チブスト云フ)」と認定していて、弟が腸チブスにかかったというのは、どうも阿部定の単なる思い込みという可能性もあるのだ。かつての日本人の衛生観念では、腸チフスも腸カタルも区別がつかなかったのかもしれない。
※12矢張り=一般的には「やはり」と読むが、ここでの読みは、「やっぱり」としたほうがベターだろう。細谷啓次郎の『どてら裁判』で引用されている「予審調書」には、「やっぱり」が数多く使われているし、それが細谷啓次郎の口調でもあった。阿部定の口調も、細谷と同じだったのだろう。
※13親兄弟や親戚に精神病者はないか=心神喪失あるいは心神耗弱の疑いがないかを確認するための質問だろう。
 ここで特筆しておきたいのは、阿部定が娼妓時代に、芸者屋の主人から麻薬中毒と疑われたことである。三河屋にいたとき、阿部定は発作的な発狂状態になったようだが、それが薬物のせいではないかと疑われたのだ。しかし、精神鑑定書では、「三河屋主人坂田金太郎ノ証言中、既ニ当時ノ発作ガ注射ヲセズシテ鎮静スルコトノ叙述アル上ニ、本人ノ皮膚ニモ一般麻薬中毒者ニ見ラルヽ如キ瘢痕モナク、拘禁中、禁断症状アリシコトモナク、本人ハ全然之ヲ否定シ居リ。要スルニ、仮令当時多少ソレニ近キ事情或ハ存セルヤモ知レザレ共、少クトモ最近ヨリ現在ニ亘ツテ、ソノ事情無シト認ム」として麻薬中毒を否定し、アルコール中毒(アルコール依存症)の疑いに関しても、「飲酒ニ関シテモ、ソノ常用セル分量、及既往歴、現在征等ヨリ見テ、慢性酒精中毒ノ存在ヲ証シ得ズ。病的酩酊ノ事モ嘗テナキガ如シ」と否定している。さらに、精神疾患についても「少クトモ検診時ニ於テ精神病ヲ認メズ」としている。
 では、奇矯な行動の原因はなにかといえば、「即チ被告人、現在ノ状態ハ生来性性格異常ガ、幼時ヨリ環境ニヨツテ甚ダシク助長セラレ、又精神的及び肉体的ニヒステリー性特徴ヲ呈シ、且ツ著シキ性的過敏性(淫乱症)ヲ示セルモノニシテ」と分析している。
※14三味線を習はせ=「九つのときから近所の今川橋に住む常磐津師匠常磐津正六さんについて遊芸を習わせた」(昭和11年5月21日付都新聞)とあるほか、精神鑑定書によると「本人ハ末子トシテ、幼児ヨリ両親ノ寵愛ヲ恣ニシ、殊ニ子煩悩ナル母ノ盲愛ヲ受ケテ、我儘一杯ニ育テラレ(中略)母ハ、本人ノ美貌ヲ誇ラシゲニ着飾ラシメ連レ歩クコト多ク、(中略)町家ノ慣習ニ従ツテ三味線ヲ稽古ニ通ハシメラレ」とある。
 今では子供に三味線の習い事をさせるなど、特別なことのように思われてしまうが、当時は、ちょっと裕福な家の子女には、そう珍しいことではなかったと思われる。
※15ごたごた=後の回の供述では「ゴテゴテ」「ゴテクサ」と関西弁と思われる口調がそのまま記載されている。それなのに、なぜかここの箇所だけ東京弁で記載されている。
 ひょっとして、予審の取調べ中に、「ゴテゴテじゃないだろう、ごたごただろう」「はい、すみません」「じゃあ、書記官、ごたごたに書き直しておいてくれ」といったやり取りがあったのかもしれない。それとも、穿ちすぎだが、この時点だけ、阿部定は東京人であった昔の自分に戻っていたのか。ともあれ、以後の調書中にある「ごたごた」のいくつかのバリエーションに注目すべきだろう。
※16不良の仲間入り=浅草の「紫団」という不良グループらしい。これについて報道では、「當時金龍館セントラルカフエーなどで活躍してゐた不良少女『小櫻お蝶』や通稱『國井』といつた不良少年とつき合つてゐた」(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)と伝えている。
 ただし、おかしいのは、精神鑑定書では、「斯クシテ間モナク浅草紫団ナル不良仲間ニテ、近所ノ乾物屋ノ息子土居某ト親シクナリ、是ト十六歳以来一年間性的関係ヲ結ビ、殆ド毎日ノ如ク粉飾美装シテ出歩キ、自家ヨリ金ヲ持出シテハ不良ノ仲関(間)ニ与ヘテ『神田ノサーチャン』ト騒ガレ得意トナシ居タリ」として、浅草紫団という名称を出しているし、近所の乾物屋の息子との不順異性交遊について触れているのに、予審調書ではそのことが省かれていることだ。予審調書をもとに精神鑑定をおこなったはずなのだから、当然にも予審調書にはその記述があったはずで、それなのに予審調書では触れられていないのは、少し妙なことになる。
※17十五歳の時お友達の家で学生に姦淫され=他の部分では「関係する」という語句を頻繁に使用しているのに、この部分だけ「姦淫」としている。「姦淫する」と「関係する」の違いはあるのかどうか、よくわからないが、調書を筆耕した人間の違いとも考えられる。
 ともあれ、予審調書では、阿部定は、この段落以降、この処女喪失事件に関して、しつこく供述させられているが、精神鑑定書では、この一行のみに触れただけだ。そこに当時の司法と精神科医とのスタンスの違いを見ることができる。
※18カラリと=東京(江戸)弁の「がらりと」「がらっと」(「一変するさま。また、残らず。すっかり」江戸語の辞典)と同じ意味なのか。それとも「からりと晴れた空」と同じ「カラリと」と混同しているのか。聞き覚えのない言い回しだが、精神鑑定書では「ガラリト」を採用しているので、「ガラリと」の誤植の可能性も高い。
※19(特に名を秘す)=この注意書きは、実際は、8文字ほど前にこなければならない。植字工か校正者が挿入位置を校正ミスしたのだろう。ちなみに、他の多くの資料では氏名を掲載しているが、新聞報道を参照すると、その氏名はたぶん実名ではない。
※20その学生に関係されてしまいました=これについて公判で裁判官が「被告が最初に異性を知つたのはいつだ」と質問すると、阿部定は「十五歳の夏です。友達の兄の友で大学生の××某に身を任したのです、操の大切なことは知つてゐましたが興味もあつたんです」(昭和11年11月26日付時事新報)と答えている。つまりいやいやというのではなかったともとれる。
 特筆したいのは、「予審調書」の別の部分で十六歳の暮れに初潮を迎えたと言っているので、阿部定は初潮が来るよりも先に処女を喪失したことになることだ。
 ちなみに「関係する」という言葉が男女の情交を意味するようになったのは、大正の中ごろくらいからのようだ。明治から大正にかけて編纂された『大言海』には、その意味の記事はなく、辞書で初出を調べると、大正5年に書かれた芥川龍之介の「芋粥」とされている。つまり昭和11年という時代では、調書にはちょっと似合わない比較的新しい言葉を使っていることになるわけだ。
 ただし、「訊問事項」版では「其ノ学生ニ姦淫サレテシマヒマシタ」となっている。この表現なら、調書として納得がいきそうだが、文章的に納得がいくからといって、それが正しい事実なのかどうか。「予審調書」という代物はそんなものなのだ。
※21話したし=この部分がちょっと奇妙な文章になっているのは、たぶん、前行で「驚いて」の「て」を「たし」に訂正の朱筆(赤字)を入れたが、植字工がその赤字を訂正する段階で、その「たし」が誤ってここに混入させてしまった。それを編集者が気づかず見過ごしたと考えられる。この種のミスは校正や印刷段階ではしょっちゅう起こる。
※22ゴテゴテ=この表現は東京弁ではなく関西弁と思われる。「ゴテゴテ(副)ゴテクサに同じ」「ゴテクサ(名・副)いざこざ。ぐずぐず。ごてごていうさま」(大阪ことば事典)とある。ちなみに、標準語では「ゴタゴタ」だが、江戸弁では「ごたすた」か、「ごたごた(雑多雑多)」となる。大阪で暮らしたこともある阿部定は、取り調べ中に、つい大阪弁を口に出す機会が多かったのかもしれない。
 実際、逮捕された品川駅前の旅館「品川館」で呼んだ按摩さんに対して、阿部定は、「あなた新聞見ましたか」などと関西訛りで聞いたという(昭和11年5月21 日付讀賣新聞夕刊)。また警察での取り調べ中も、「たくみな關西辯と東京辯をチヤンポンに係官とまるで寛いだ對談でもするやうに妖女の本領を發揮して答へてゐる」(昭和11年5月22日付讀賣新聞夕刊)と報道されたように、会話中に関西弁がぽんぽん飛び出したようだ。東京弁の判事の問いに大阪弁で答える阿部定という光景は、これまで、あまり人が想像してこなかった。
※23サーチャンサーチャン=「神田のサーちゃん」(『素顔の昭和』戸川猪佐武、『阿部定の調書』相対会研究報告)という説もある。近所では「(畳屋の)(お)さだ(orさぁ)ちゃん」と呼ばれていたともいわれる。「前坂俊之」版では、久保久美の「畳屋のお定(さア)ちゃん」を真似たのか、「定(さあ)ちゃん、定(さあ)ちゃん」と、わざと漢字表記に変えて、ルビを入れ折衷案的な処理をしているのが気にかかる。
※24三館共通の金竜館等=浅草六区にあった金竜館、常磐座、東京倶楽部の劇場三館は、共通の入場券で入れた。
※25夜九時頃でなければ帰りませんでした=昔の人は、たいていは夜8時には寝床に入っていたから、夜9時帰宅というのは、まさに不良のおこないになる。
※26聖坂=ひじりざか。当時は港区(当時は芝区)三田4丁目にある坂。高野聖(こうやひじり)が開いたからといわれる(『坂の町・江戸東京を歩く』大石学 PHP選書)。
※27聖心女学院=正確には「聖心女学院(せいしんじょしがくいん)」だが、公判を伝えた新聞報道でも「聖心女学院」となっているから、通称を使ったのだろうか。とはいえ、調書ならもっと厳密であってほしい。
※28無断でお嬢さんの晴着や帯や指輪を身につけ=新聞報道では、「同家のお嬢さんの眞珠入り指輪、羽二重の帶、お召セルの着物などを盗んで錦町署に檢擧され起訴猶豫となつたこともあり」(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)とある。精神鑑定書では、「令嬢付ノ女中ニナリタル処、夫レ迄ノ放縦自恣ノ習慣ヨリ、其ノ生活ニ堪ヘ得ズ、約一カ月ニシテ令嬢ノ着衣帯指環等ヲ身ニ着ケ『後ニ返セバ良イト簡単ニ考ヘテ』無断浅草ニ活動見物ニ出掛ケ、警察ノ手ニテ連レ戻サレタル上解雇セラレタル事アリ」とある。
※29横浜市蒔田町=蒔田町(まいたちょう)。現在は横浜市南区。
※30遠縁に当る稲葉正武=稲葉氏と阿部定の関係は複雑だ。後の回の訊問で、阿部定は、兄の先妻の姉の夫と供述していて、精神鑑定書でも同じ見解となっている。が、単に「義兄」として処理している説(『その時この人がいた』井出孫六)もある。ちなみに、当時の新聞では大半が「周旋屋の稲葉氏」と紹介している。
 なお、稲葉氏の名前が実名か仮名かについては、複数通りの名前が新聞報道などにあって確認できなかったが、判決文などを総合して考えると、実名である可能性が高いが、重要な人物なので、原本のままとさせていただいた。ちなみに、ウィペディアにある秋葉某という氏名は、『阿部定正伝』では断り書きをつけて仮名処理されていたものを、仮名と断らず、あたかも本名のようにそっくりそのまま掲載しているので要注意だ。
※31前借金=ぜんしゃっきん、ぜんしゃくきん。年季奉公の契約をする際に前借(ぜんしゃく)としてまとまった額の金が渡される。それがそのまま芸妓や遊女の借金となる。戦後は特にバーやキャバレーでは「バンス(advanceの略語)」と呼ばれた。ミュージカルの「上海バンスキング」という題名は、上海におけるバンス(前借)王という意味だが、ミュージカルの設定のようにバンスという言葉が戦前にもあったのか不明】
※32芸妓屋春新美濃=芸妓屋(げいぎや)とは、芸妓を抱え、注文に応じて派遣する商売で、通常は「置屋(おきや)」と呼ぶ。「春新美濃」は、堀ノ内雅一の『阿部定正伝』には「はしみの」と読むとあるが、僕自身は未確認だ。横浜市中区住吉町にあった。
※33一本の芸者=一人前のひとり立ちした芸者という意味。一本になる前は半玉(はんぎょく)、京都では舞妓(まいこ)という。
※34癪になりがち=奇妙な言い回しだ。調べてみると、ほとんどの予審調書が「癪」になっているが、「訊問事項」版だけは「下積ニナリ勝チ」となっている。私見だが、「下積」のほうが正しいように思える。つまり、「松平」を「不公平」、「旧中山道(きゅうなかせんどう)」を「1日中山道(いちにちじゅうやまみち)」と読み間違えるたぐいの校正ミスだ。
※35私が一月ばかり同人方に世話になって居た時=ここで一月のブランクがあいたのは、芸妓になるには年齢不足だったからという理由らしい。興味あるのは、予審調書では、この一か月のブランクの後、「春新美濃」の芸者になったように書かれているが、阿部定の精神鑑定書によると、実際はその前に横浜の芸者置屋「叶屋」に出されていることだ。しかし、この叶屋に関しては、「未ダ芸者ニナラヌ内、一ケ月位デ其ノ家ハ嫌ダト云ッテ出テ来」という阿部定の供述があるという。すると、予審調書では、この部分が欠落しているわけだ。
 たぶん、「一月」という同じ言葉が近い段落で重なったために、本物の予審調書を書き写した者が見落としたか、あるいは文脈が煩雑なので、書き写しを繰り返しているうちに、削除されてしまったかのどちらかではなかろうか。
※36神奈川区春木町=過去も現在も横浜市神奈川区に春木町という町名は見あたらない。他の資料もすべて春木町となっているが、これは「青木町(あおきちょう)」の誤植だろう。「春」と「青」は手書き文字では混同しやすい。最初に予審調書を引き写した者が、見誤って書き間違えた可能性が高い。
 神奈川区青木町には「横浜青木町遊郭」と呼ばれるものあって、春陽堂が昭和4年に発行した『日本遊里史』(春陽堂 昭和4年)には、横浜市青木町における遊郭の数は20軒、娼妓数は202人とされているという。このことは少し調べればわかる。これまでの予審調書の刊行者や評論家たちは、ダルなことに、調べもしないで、誤植をそのまま疑いもせず掲載し続けてきたのだろう。

※37清水町=清水町(しみずまち)。富山市では桜木町(さくらぎちょう)と並ぶ遊廓だった。
※38情交がありました=「姦淫する」「関係する」に加えて「情交がある」という語も加わってきた。この言い換えはいったい何を意味するのか。小説ではあるまいし、そんなに表現にバリエーションをつけなくてもいいと思うが、不思議だ。
※39春子=阿部定は当時19歳だった。しかし、この源氏名について、異説もある。たとえば、当時の新聞では「春治(「はるじ」か?)」となっている(昭和11年5月23日付北陸日々新聞)。阿部定の記憶違いか? また、「十八、九のころ富山市清水町の上田樓で『春次』と名乘つて左褄をとつてゐた」(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)という報道もあって、同じく「はるじ」でも字が違う。ちなみに「上田楼」という名称は、実は平安楼のことだ。新聞は平安楼の抱主の名前を屋号として記載した可能性が高い。「春次」はあるいは誤植かもしれない。
※40芸者仲間の三味線やキセルを盗んで入質し=「同輩藝妓の三味線の撥五、六本金のキセルなどを盗んで入質したことから富山裁判所へ送られて起訴猶豫となつたこともある」(昭和11年5月23日付讀賣新聞夕刊)。
 ただし、この一連の窃盗には、予審調書では触れていない事情があった。というのは、精神鑑定書には、阿部定の供述として以下のようにあるからだ。
「当時、私ニハ未ダ情事ノ味ガ判ラズ客ヲ取ル事ヲ嫌ッテ居タノデ、稲葉ニ支払フ食費ヤ小遣銭ガ足リナカッタ為ニシタノデス。金ガ出来タラ直グ返サウト思ッテ居タノガ、出来ナクナッテ了ッタノデ、全然人ニ見付カラナイ様ニスル気ナラ、アンナ見付カリ易イ近所ノ質屋等ニ入レズニ、モット遠クノ店ニ持ッテ行クカ現金ヲ取リマス」「平安楼ノ主人ハ、私ガソンナコトヲシタノヲ前カラ知ッテ居タノニ、私ガ良ク売レテ居タノデ黙ッテ居タガ、私ガ愈々東京ヘ戻ルト決ッタラ、急ニ態度ヲ変ヘテ警察ニ訴ヘタノデス。ソノ為ニ平安楼ヲ出サレタノデハアリマセン」
 阿部定の言い訳にすぎないかもしれないが、まず阿部定は、売春稼業に身が入らず、そのために稼ぎが少なくて、稲葉に与える金もあまり捻出できなかったので、「金が出来たらすぐ返せばいい」という、ある意味で自分勝手な思い込みで、朋輩芸妓の持ち物を盗んでは、近くの質屋に質入していた。平安楼の主人は、その阿部定の行状をずっと見過ごしてきたが、阿部定が平安楼を辞めて東京に戻ると聞いて、慌てて警察に駆け込んだ、というようなことを阿部定は言いたかったのだろう。
※41芝区露月町=東京府芝区露月町(ろうげつちょう)。「ろげつ」と読む人もいる。現在の港区新橋あたり。江戸時代は、松平肥後守の屋敷前に面した一画にあたるので、現在でいえば、日本テレビのある汐留一帯の浜松町寄りの場所から一本道を隔てた区画といえる。ちなみに「昭和11年の女」版では「青月町」となっているが、そのような地名は芝にも東京にも見当たらないので、たぶん誤植だろう。
※42大連=だいれん。現在は中華人民共和国遼寧省大連市。戦前の日本にとっては満州(ひいては大陸)への玄関口だった。
※43飯田町=いいだまち。明治9年、長野県伊那郡飯田町となる。阿部定事件の翌年の昭和12年、飯田町と上飯田町が合併し飯田市となっている。
※44不見転芸者=みずてんげいしゃ。「芸者が、金しだいで相手の言うままにたやすく身をまかせること。また、その芸者」(学研国語大辞典)。「不見転」とは、客のよしあしなどを見ずに、転ぶ(売春をする)ことをさす。芸者は普通は、売春行為はせず、芸を見せるだけだが、芸者の中には、そうしたことを専業としたものもいた。
※45検黴=けんばい。検梅。「梅毒(ばいどく)の有無を検査すること」(広辞苑)。江戸時代にはない制度で、幕末に西洋人が日本に在住するようになり、黴毒の罹患についてクレームを付けられたので、明治9年に制度として生まれた。
※46花柳病=かりゅうびょう。性病の別称。「多く花柳界で感染するところから言う」(学研国語大辞典)。花柳界とは遊里(ゆうり)、色里(いろざと)。宋の詩人、蘇東坡は春の景色を「柳は緑、花は紅」と讃えたが、そうした美しいもののたとえとして、紅い花と緑の柳があった。そこから時代を経て「花柳」は遊里をさすようになった。
※47飛田遊郭=とびたゆうかく。大阪の一大遊郭街。ただし新聞報道では、この店の屋号は「園樓」となっている。新聞のほうの誤植か?
※48印を返して貰ふ=「印」とは実印のことか? 実印がないと、契約の解除ができないからだろう。「訊問事項」版だけは「判」となっているから、「はん」と読ませたかったのか?
※49三枚とは下らず=「三枚」とは歌舞伎と同じく、番付の三番目、つまりナンバースリーということだろう。当時の報道には、「大阪飛田遊郭三園樓に園丸と云ふ源氏名で出て凄腕で樓主には喜ばれ、お職まで張つたことを裁判長証人の訊問聴取書を読上げて明かにする」(昭和11年11月26日付時事新報)とある。ちなみにここにある「お職(しょく)」とは「すべて芸娼妓の首位に立つ者の異称」(江戸語の辞典)だ。
※50落籍=らくせき。芸者や遊女の籍を取り除くこと。身請(みう)けのこと。「ひかす(ひかせる)」とも言う。
※51西区羽衣町にしくはごろもちょう。旧中村遊廓のあった場所か。羽衣町は事件の翌年の昭和12年から、新設された中村区に合併されている。
※52抱主=かかえぬし。「年季を定めて召使・芸者・遊女などをやとっている主人」(学研国語大辞典)。「命削る性愛の女」版では「抱い主」と表記しているが、これは擬古文にしようと考えすぎた結果の誤りだろう。
※53セキセイ=セキセイインコ(脊黄青鸚)の略か? セキセイインコは「おうむ科の尾の長い小鳥。原産地はオーストラリア。頭は黄色、胸・腹は緑色で美しい」(学研国語大辞典)とある。普通はインコといえばいいわけだが、セキセイと呼んだのは、抱主の言語感覚の問題だろう。
※54松島遊郭=まつしまゆうかく。1869年に成立。飛田遊廓(とびたゆうかく)と並らぶ大阪の歓楽街だった。
※55「都楼」へ住替へ=精神鑑定書では、「大阪ノ貸座敷『都楼』ニ住替タリ」とある。貸座敷とは、妓楼の主人が公娼に座敷を貸して営業することで(学研国語大辞典)、つまり女郎屋のことだ。
 実は、阿部定にとって、貸座敷で働いた経験は、これが初めてではない。前述の御園楼を辞めて、都楼に住替る前に、大阪の「朝日席」という貸座敷に鞍替えしている。しかし、ここでは四月目くらいに情夫と失踪したことがあったほか、朝日席の番頭によると「本人ハ手癖ガ悪イ。客ノドウランヲ探シテ、五円札ヤ十円札ヲ抜クト云フ風評ヲ聞キマシタ。然シ事実ハ判ラナカッタタメ、警察騒ギニハナリマセンデシタ」という具合に評判が悪かったため、半年ほど勤めて解雇されたという。
 ちなみに「ドウラン」は「胴乱」と書き、「昔、薬・印・銭・たばこなどを入れ腰にさげてもち歩いた、革製あるいは布製の四角い袋」(学研国語大辞典)というから、今ならウエストポーチとか、セカンドバッグのようなものだろう。
※56自由廃業=娼妓が自分の意思で娼妓をやめること。1900年に出された娼妓取締規則で可能となったが、この取締規則はかたちだけのもので、相変わらず人身売買が横行し、娼妓は前借に苦しみ続け、かえって公娼制度の確立を助長するものだったようだ。
※57東京に来て元世話になった塚田と云ふ紹介屋の前の宿屋に居ると「都楼」から探しに来た使の男に見付かり連れ戻され=ここでは「東京に来て」とあるが、精神鑑定書では「横浜デ見付ケラレテ連戻サレ」とあって場所が異なるのは妙だ。書き写した際に生じた欠落なのか、それとも誤植なのか。宿屋が横浜にあったということなのか、謎である。
※58丹波篠山の「大正楼」=たんばささやま-の-たいしょうろう。この大正楼も貸座敷だった。ウィキペディアには「下等遊廓」とあり、文字通り狐や狸でも出てきそうな鄙びた遊廓だったのだろう。
※59玉の井=たま-の-い。墨田区にあった私娼街。大正7、8年頃に認可を受け、関東大震災後に発展した。昭和7年にはバラバラ死体が発見され「お歯黒どぶ」事件と騒がれたが、昭和20年3月10日の東京大空襲で大部分が焼失し、焼け残った人たちが隣地の寺島町(てらじまちょう。ただし公式文書では「てらしまちょう」)に流入し「鳩の街(はと-の-まち)」と呼ばれる赤線地帯を生んだ。当時の様子は、滝田ゆうの自伝的漫画作品「寺島町奇譚(てらじまちょうきだん)」に詳しい。また戦前の玉の井は永井荷風の「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」の舞台でもある。
※60客の[金]百円を盗んだ=このときの金額について、阿部定の精神鑑定書では、「朋輩ノ預カレル客ノ九十円、又遊客ノ指環、現金十円ヲ盗ミ、窃盗罪ニテ起訴猶予トナレル事アリト云ヒ、本人逃亡ノ為メニ客ノ金ヲ百円盗ンダ』ト云フ」とあって、どうも阿部定の本来の供述は、もっと細かい内容になっていたようだ。それがどうしたわけか、予審調書では簡単にすまされているのは、謎というべきほかない。
 しかも、公判で阿部定は、「丹波篠山で娼妓をしてゐる頃客の懐中から九十八円を盗み」(昭和11年11月26日付時事新報)と証言しているのだから、予審調書の内容と金額面で若干違っている。百円と九十八円は大差ないと思うかもしれないが、調書ではそんな細かなことが大切だと思う。
 予審調書はなぜ修正されないまま、しかも、内容的に大雑把になっているのか。精神鑑定書は、その予審調書をもとに「百円」としたのだろう。ところが、裁判でそれが「九十八円」だったことが明らかになっている。すると、少なくとも、刑事裁判の手続きからいえば、予審裁判が終了したあとで、百円を九十八円に変更する供述を録取していなければならない。つまり、その追加の調書が存在しなければならないと思うのだが、それが見当たらないのは、どうしたわけなのだろう。